笑いについて

 遊びのモデルが、世界認識のモデルと同一であり、その認識に没入するための装置であることは前回までに書いたことである。
 そして、その没入がある種洗脳のように自らの基盤にリアリティをもたらし、それが普遍化したことによって、我々は人間となる。普遍化したパターンが他者から見て逸脱してる場合は神経症患者とよばれ、それが法律というまた別個の約束に抵触する場合、彼は犯罪者と呼ばれる。
 我々は自らを同じ基盤を共有する共同体成員として生成し、その基盤の表現を古来では「聖なるもの」と呼んだのである。
 それはやはりあくまで遊びというモデルを利用してなのだ。
 そして、その没入はより世界に自らを順応させていくものなのだが、それはある時狂気にいたる。遊びにより生成された世界観は決して合理的である必要はないからだ。
 例えばそれはカルト教団の狂信となり、相手の幸福のために相手を殺害するということすらまかり通るのである。没入していく、遊びが本気になるというのはつまりそういうことなのである。
 そして、そこで没入から我々を引き剥がすのが「笑い」ではないかと考える。笑いはメタ認知の上で成り立つ。ある一つの世界に没入している時に、別の世界の存在を提示され、そのズレによって笑いは生じる。一つ上の視点からの目線で俯瞰することによって笑いは生まれるのである。西洋で道化(コメディアン)が王様を茶化すのは、王様が絶対であるという世界観に没入していくことを防ぐためなのである。笑いは強制的に没入から当事者を引き剥がす。よって世界は没入していくことから浮上し、狂気に至ることを防いでいるのである。狂気、狂信は世界観の相対化によって防がれ、そしてそれは主に笑いによってなされるのである。
 しかし、笑いにも副作用がある。笑いは常に「本気になっているのは馬鹿らしい。なぜなら世界は相対的だから。」というメッセージを含んでおり、ゆえにシリアス(真剣さ)と対峙させられる。「笑い」が至上の価値とされる場合にはは、常に世界を相対化し俯瞰して見ることになる。
○○していてダサい→そういうことをいう人は周り気にしすぎてて格好つけている→格好つけていることを揶揄するのは臆病だ→→→
のように笑いは当たり前と思っている外側に人々を連れ出し続ける。その結果、究極的には何にも没入することが不可能になり、世界を意味あるものとして捉えられなくなるのだ。
 もちろん笑いにも様々なパターンがあるし、一括りにすることはできないであろう。だか、「笑われるのが怖い」という何かに踏み出せない状態とは、まさにこの没入からの離脱が意識されてるのではあるまいか。逆に「不幸を笑ってくれて逆に嬉しい」は没入している不幸という認知から離脱させてくれることによるのではないか。
 葬儀や、儀礼の際の笑ってはいけない空気とは、共有しているゲームからの離脱を防ぐためにあるのではないかと思うのである。
 私の根底に植え付けられた価値観として「笑えればいい」というものがあるが、この「笑えればいい」は誰かの没入している世界を破壊する可能性もあるし、またそれを至上に置くことは私の参加したいゲームからの離脱を引き起こしてしまう(没入できない)可能性を孕んでいるのだ。
 笑いについて私が使い道を考えるべきと思う点はここにあるのである。
 もちろん、笑いという複雑な現象はこのように一面的にしか捉えられないものではないし、もっというのであれば、離脱させる以外の笑いも多くあるだろう。それについてはまた別途検討できればと思う。

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