可能性

 可能性とは暴力だ。出来るかもしれない、そうかもしれない、出来たかもしれない。常にそれらは後悔の種となり私たちに根を張り、養分を吸い取るのである。そして、立派に咲いた花に我々は自己嫌悪という名前を与え日がな眺め続けるのである。
 仮に人が自ら命を断つとして、その原因は不可能性よりも可能性によるものではないかと思うのだ。もう少し頑張ったらできるかもしれない、そういった連続に耐えきれずついに人は完全なる不可能を望む。死んでしまうことは全ての可能性の放棄である。そこには全くの可能性が存在しない。死は私という存在の停止であり、終着であり、完結である。物語にfin と書かれたならば、次に開くページには作者の後書きや解説のみが並ぶのである。であるならば、人がそれを望むのは不可能にして欲しいという欲望からではないだろうか。
 可能性はいつも我々を空喜びさせ、そして、その喜びの高さの分だけ落下の衝撃は大きいものになるのである。しかし、どれだけ繰り返された落下であっても、生きている限りにおいては可能性が残される。この先の人生の全てが真っ暗であっても生きていることは常に光となるのである。頼むからもう、不可能だと言ってくれ、完全なる不可能によって諦めさせてくれ。この欲望に応えるものが完全なる不可能性、自死なのではないだろうか。
 可能性という暴力に晒され続け、傷だらけでボロ雑巾のように朽ち果てるとき、完全なる不可能に救いを求めるのはなるほど、至極真っ当なことである。
 例えばいじめが辛いのではなく、いじめを回避できる可能性、それに立ち向かって越えられるかもしれない可能性をこそが、その人を傷つけるのである。可能性の中で私は何もできないという事実は自己の否定に他ならないのだ。
 私が歳をとり、年々楽に思うことはこのような可能性の暴力の減少によるものかもしれない。若い時ほど、もっとこうできる、ああできる、そういった可能性が我々を蝕む。可能性は私自身によって生み出したものではなく、どうやらあるらしいという他人行儀な顔をして、そして私はそれを無碍にし続けているのだ。そういった根が若人を殺すのである。
 例えば、若さ、美しさ、聡明さ、権力、誰もが羨む技能、そういったものは我々の可能性を広げるものであるが、しかしそれは同時に暴力になりうることを我々は知らなければならない。選択肢や選択の自由に対して私が不思議な拒否反応を示すのはそういった理由からである。


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