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【天気の子】そもそもなぜ、東京は雨に暮れていたのか【考察】

 本記事は、新海誠監督作品『天気の子』のネタバレを含みます。



はじめに

『天気の子』には様々な謎が散りばめられている。謎というと大袈裟だけれど、奇妙な点がいくつもある。

 最も大きな謎として、「そもそもなぜ、東京は雨に暮れていたのか」という点が挙げられる。

『天気の子』において、大雨に降られる東京は半ば舞台設定と化している。  それはまるで、『ハリーポッター』の世界に魔法があるのと同等であるかのような気がする。
 つまり、ツッコんではいけない、そういうものとして受け取らなければならない設定として、受容されているように見える。

 しかし本稿では、この点をあえて問う。
 いったいどうして、物語冒頭の東京は、毎日のように雨に降られていたのか。

 この疑問を解消するため、『天気の子』に散りばめられている不思議な点を列挙し、考察する。
 最終的には、この大きな問に答えを与えたい。



疑問①なぜホダカは、雨を楽しみに待っていたのか

『天気の子』の主人公であるホダカの行動は、とても奇妙なものから始まる。

 船(フェリー?)に乗り込んだホダカは、船内でスマホを触っている。
 しかし雨の予報がアナウンスされると、彼は突然デッキに出て行き空を見上げる。そして雨が降ってくるのを見て満面の笑みを浮かべ、こう言うのである。

来た!  すっげ〜!

 一体、雨の何が「すっげ~」のだろう。そしてなぜ、ホダカは雨を心待ちにしていたのだろうか。

 一般的な感覚としては、むしろ晴れてくれる方がすっげ~だろう。
 しかしホダカは違うのである。彼はむしろ、雨を待っている。雨に小躍りして走り出すほどに、雨を待っているのである。

 いったいなぜ、ホダカは雨を楽しみに待っていたのだろうか。


疑問②なぜホダカは、雲から漏れる光を見ていたのか

 ホダカはマクドナルドで夢を見ているとき、彼の過去が回想されるシーンがある。
 そこで彼は、水平線の方へ消えていく光芒を追いかける。彼の言葉を聞こう。

 この場所から出たくて、あの光に入りたくて、必死に走っていた。

 ホダカは光の中に行こうと、なぜか決心する。そして、その決心の理由は全く描かれない。

 このシーンで思い出すのは、物語冒頭のヒナの行動であろう。母親を置いて光が差す廃ビルに上った、あの行動である。

 ヒナもホダカも、雲間から差し込む陽光に、まるで取りつかれたように固執する。そして、その光を追いかければ、この閉塞した状況が好転するかのように思い込むのである(実際、そうなるのだが)。

 いったいなぜ、ホダカとヒナは、雲間から差す光を追いかければ、状況が改善されると思ったのだろうか。


疑問③なぜスガは、涙を流したのか

 また、スガの言動にもよく分からないところがある。

 ヒナが消え、ホダカが警察から逃げ出すと、刑事はスガの事務所にやってくる。ホダカがそこに潜んでいると思ったのだろう。

 そこで刑事とスガは雑談する。その中で、刑事は次のように心情を吐露した。

彼は人生を棒に振っちゃってるわけで。そこまでして会いたい人がいるっているのは、私なんかには、なんだか、羨ましい気もしますなあ。

 このセリフを聞いた途端、スガは涙を流し始めるのである。そしてスガ自身でさえ、そのことに気が付いていない。

 いったいなぜ、スガは涙を流したのか。


疑問④なぜスガは、ホダカを諭しつつ結局ホダカを助けたのか

 さらに、スガの行動には、一貫していない所がある。それが、スガというキャラクターの理解を難しくしている。

 ホダカがヒナを助けるため、廃ビルの屋上に行こうとする場面を思い出してみてほしい。

 ビルの屋上に上ろうとするホダカを、スガは最初諭そうとする。
 落ち着け、警察に一緒に行こう。そう声をかけるのである。

 しかし、いざ警察が入ってきて、ホダカが取り押さえられると、スガは態度を変える。
 具体的には、以下のホダカのセリフを聞いた後、スガは急変する。

もう一度、あの人に、会いたいんだ。

 ホダカのこの絶叫に、スガはハッとする。まるで心を打たれたかのような表情である。
 この言葉は、スガに何かを思わせたに違いない。

 直後、スガは警察に襲い掛かり、ホダカに先を急がせる。とても同一人物だとは思えないのである。

 いったいなぜ、スガは態度を急変させ、ホダカを助けたのだろうか。


疑問⑤なぜホダカは、あれほど衝動的なのか

 最後に、ホダカの衝動性、というか幼稚性についても触れておきたい。

『天気の子』は(僕の観測範囲では)賛否両論のある映画だと思う。『天気の子』があまり好きではないという人は、だいたいホダカの衝動性を、その理由として挙げている。

 つまり、ホダカが考えも無しにとにかく反抗し、衝動性に任せて行動する点に対する嫌悪である。
 そして僕も、この気持ちはちょっと分かる。

 だから、最後にこの点も問うておきたい。

 いったいなぜ、ホダカはあれほど衝動的なのか。


まとめ

 なお、ここに挙げたのは、あくまでも表面的な疑問点だけである。
 ほかにも追求したい点はいくつもある。

 例えば、なぜホダカはそもそも東京に行ことしたのか。というより、なぜホダカは田舎から出ようとしたのか等。

 こういう点についても、本稿では触れることになる。
 けれども、疑問点を挙げていたらキリがないので、便宜的にここで切り上げておいた。




考察1:『天気の子』

 以下、考察に入っていく。いくつかのトピックに分けて、多角的に考察していこう。


■ホダカの心情

 ではまず、なぜホダカがあれほど衝動的なのか。この点について考えておきたい。
『天気の子』において、ホダカは衝動的に行動する人物として描かれている。そしてそれゆえに、大きな問題を自分で作り、大人たちを敵と決めつけ、問題解決を遅らせるのである。
 具体的には、銃を発砲することで警察に追われ、その警察に銃で対抗することで危険人物になっていく。

 僕の知る限り、『天気の子』があまり好きじゃないという人は、ホダカのこの衝動性を嫌悪している人が多い。
「生き方が下手」と言うと乱暴だけど、「もう少し頭を使えばもっと上手くいくのに」と思う場面が極めて多いのだ。

 そこで本稿では、この点を改めて問うてみたい。


 ホダカの衝動性が特に顕著に表れるのは、銃の引き金を引く場面であろう。
 ホダカが銃を使うシーンは、二つある。

 一つは、スカウトマンの金髪男性に馬乗りになられ、暴力を振るわれる場面。
 もう一つは、スガに頬を打たれた後に蹴り飛ばされ、「邪魔しないでくれ」と絶叫する場面。

 両場面で、ホダカの動悸は激しくなり、ホダカは周りが全く見えないような精神状況に追いやられている。

 ところでこれらのシーンには、成人男性から暴力を振るわれるという共通点がある。
 どうやらホダカは、成人男性からの暴力がトリガーとなって、銃のトリガーを引いてしまうらしい(ややこしい)。


 さらに別角度から探求をしてみよう。
 冒頭のホダカは、顔に二枚の絆創膏、一枚のガーゼをつけている。

 一見して、顔にケガをしていることが分かる。顔を三か所もケガしているのである。
 ホダカはおっちょこちょいで、よく転び顔に擦り傷を作るのだろうか。

 僕は違うと思う。

 多分『天気の子』冒頭のホダカは、何者かによって、顔に暴力を振るわれていたのではないだろうか。

 そしてそれは、前述の衝動性と、関係があるのではないだろうか。
 思えば、ホダカが銃を発砲する直前、彼には顔面への暴力が振るわれていた。(金髪男性からのビンタ、スガからのビンタ)


 最後に、もう一つの視点を提示しよう。
 そもそも、なぜホダカは東京に来たのか。彼は次のように言う。

 東京って怖えな。でもさ、俺、帰りたくないんだ。絶対。

 つまり彼のモチベーションは、「東京に行きたい」ではなく「地元から離れたい」なのである。
 見知らぬ大都会で痛い目を見ながら、それでもなお、地元には帰りたくないのである。

 田舎が狭かったから地元が嫌だ。そんな動機では、明らかにない。
 彼は自分の地元に、トラウマじみた嫌悪感を持っているらしいのである。


 以上の3点を、改めて整理しよう。
 彼は、成人男性によって顔面に暴力を振るわれることで冷静さを失い、彼自身も暴力で抵抗しようとする。
 そして物語冒頭のホダカ、地元から出てきたばかりのホダカにも、顔面に暴力を振るわれた形跡がある。
 そしてホダカは、トラウマじみた感情を地元に対して持っていて、絶対に地元に帰ろうとしない。

 これらを並べてみれば、ホダカが地元を離れたがった理由は推察できるだろう。

 多分、彼は父親から、暴力を受けていたのではないかな。
 そして父親へのトラウマが、ホダカに冷静さを失わせ、衝動的行為に走らせるのだろう。
 だから、ホダカが幼い衝動性をしばしば垣間見せるのは、多分、父親からの悪影響なのだと思う。


 これゆえに、ホダカは父(≒超自我)に対して反抗する人物となる。
 というかホダカの行動原理は、この父(≒超自我)との対決として理解できると僕は思う。
 警察への反抗などは、その顕著な例であろう。

 閑話休題。

 ホダカは父へのトラウマによって、地元から脱出してきたという話だった。
 東京に来た感想を聞かれたホダカは、次のように言う。

ヒナ:ね、東京に来て、どう?
ホダカ:そういえば、もう、息苦しくはない。

 このセリフはおそらく、父親から解放されたことを表しているのである。

 

■占い師のおばさま

 次に、占い師のおばさまの言葉について探求したい。
 というのも、彼女はいかにも胡散臭い人物なのであるにも関わらず、実は未来の予言に成功している重要人物だからである。

でも注意しないと。
自然を左右する行為には、必ず代償が伴います。
天候系の力は使いすぎると神隠しにあうと言われているの。

 これは、ヒナの未来を予言しているセリフである。
 そこで、『天気の子』世界においては、彼女の言葉は結構信頼できるのかもしれないと思えてくる。(もちろん、現実世界においてはその限りではないが)

 そして確かに、彼女の言葉が正しいとすると、色々な疑問に説明がつけられるのである。
 おば様の言葉に耳を傾けてみよう。

 もちろん、晴れ女は実在します。そして雨女も実在します。
 晴れ女には稲荷系の自然霊が憑いてて、雨女には龍神系の自然霊が憑いてるのね。
 龍神系の人は、まず飲み物をたくさん飲むのが特徴。水が恋しいのね。気が強くて勝負強いけど、大雑把で適当な性格。
 稲荷系の人は勤勉だけど、気の弱いところもあるので、リーダーには不向き。美男美女が多いの。

 整理すると、次のようになろう。
・「晴れ女」は稲荷系。稲荷系は勤勉だが気が弱く、美男美女が多い。
・「雨女」は龍神系。龍神系は水が恋しく、気が強くて勝負強いが大雑把で適当。

 この説に従えば、ヒナは稲荷系の「晴れ女」であり、勤勉で気が弱く、美女である。
 確かに、中学生であるにも関わらず弟のためにアルバイトに励んでいた彼女を思い出せば、(それを勤勉と呼ぶのは社会通念上まずい気もするが)勤勉という評価は当てはまるだろう。
 さらに、風俗店で仕事をはじめかけた時、ホダカに連れ去られる前のヒナの顔を思い出せば、気が弱いという評価も外れていないと思う。まるで、戸惑い怯えきっているような表情だった(当然と言えば当然だが)。
 最後に、ヒナの弟のナギが美青年として描かれいてることを思い出せば、その姉であるヒナも美女(中学生にこの評価を与えるのは、やや危ない気もするけど)と考えて無理はない。

彼女は本当に、100%の晴れ女だった。 

 ヒナは確かに、稲荷系の「晴れ女」だと考えられる。というか、占い師のおばさまの言葉には、信頼が置けそうな気がしてくる。
  

 では、稲荷系に対応する龍神系の人物はいたのだろうか。 
 気が強くて勝負強く、大雑把で適当な人物。いや、それ以前に、「水が恋しい」人物。

 そう言えば、空から降ってくる大量の水を心待ちにしていた人物がいた。大雨のなかで「ヤッホー!」と叫びながらはしゃいでいた人物が。
 ホダカである。

来た! すっげ〜!

 これは、ホダカの最初のセリフである。

 彼は水を恋しがっていた。
 そして実際、「気が強くて勝負強い」という評価は、ホダカにこそ相応しいだろう。彼は警察に反抗し、実際に警察からの逃走に成功しているのだ。
「大雑把で適当」という評価も、生活のあてもなく東京に来た彼をよく表現している。

 もっとも、確かにホダカは「雨"女"」ではない。しかしおばさまが言っているのは、「雨女は龍神系である」ということだけである。「雨女ならば龍神系である」は正しいが、「龍神系ならば雨女である」は正しくない。
 多分、「雨女」ではない龍神系もいるのではないだろうか。実際、「晴れ女」は稲荷系だが、その稲荷系には「美男美女」が多いのだ。龍神系と稲荷系には、男性も含まれるのである。

 以上から、次のことが考察できる。

 ヒナは稲荷系の「晴れ女」であり、ホダカは龍神系の人物である。


■雲の龍と水の魚

 この点は、ホダカとヒナが雲の上に飛ばされたシーンを見ても、確かめられる。

 そのための準備として、スガとナツミの取材を思い出してほしい。

 スガとナツミは、神社らしきところに取材に行く。
 そこで、およそ800年前、天気の巫女が見た景色を描いたされる天井画を見る。

魚が空を飛んでる。龍もいる。

 僕には魚というよりクジラに見えるのだけど、とにかく魚と龍が描かれた天井画らしい。

 龍が龍神系と関係するのだと素朴に理解するならば、消去法的に、魚は稲荷系を表しているとするしかない。
 そして、稲荷系の雨女であるヒナの周りをしばしば飛んでいるのは、まさに水の魚なのである。

 実際、物語冒頭、ヒナが鳥居を潜った先でまず見るのは、水の魚の群れなのである。

魚?

 これは、ヒナの最初のセリフだ。

 この発言の直後、魚たちがヒナの周りに集まってくる。
 雲の龍がやってくるのは、その後なのである。

 つまりヒナは、「魚→龍」の順番で出会っているのだ。


 この点、ホダカがヒナを助けるために鳥居をくぐったシーンは、全く対照的と言っていい。
 彼が鳥居の先で最初に目にするのは、雲の龍なのだ。水の魚ではないのである。
 これは、彼が龍神系の人物であることを示唆する描写に他ならない。

 ホダカはこれを見て、次のように言う。

空の、魚?

 違うぞホダカ。どこが魚に見えるんだ。どう見ても龍じゃないか。
 ホダカが水の魚を見るのは、雲の龍に食べられた後のことである。

 しかし、ホダカが龍を魚と思ってしまうのは、故なきことではない。ホダカは魚と龍の天井画を見ていないからである。
 彼が知っているのは、SNSに投稿された水の魚だけなのである。
 ホダカは雲の龍の概念を知らなかったから、龍を魚と勘違いした。というか、魚しか、それを理解できる概念を持っていなかったのであろう。

 とにかく強調したいのは、ホダカの場合、「龍→魚」の順番で出会うということである。


 まとめれば、ヒナは(稲荷系を表していると思われる)水の魚とまず出会い、ホダカは(龍神系を表していると思われる)雲の龍とまず出会っているのである。

 これは、先の節での考察ときれいに符合している。
 ヒナは稲荷系の「雨女」、ホダカは龍神系だという考察である。

 この対応が偶然だとは、僕には思えない。


暫定的な仮説①:占い師のおばさま

 以上のことから、いくつかの疑問に説明がつけられると思う。
 冒頭で、ホダカが雨に小躍りしていた理由。それは彼が、水を恋しがる龍神系の人物だったからだろう。
 同様にヒナが雲の上で魚に囲まれている理由は、彼女が稲荷系の人物だったからだと思う。

 そして、ホダカとヒナが共に、雲間から漏れる光を凝視し、その天使の梯子に導かれたのも、上の理由によるのだと思う。


補:ホダカと情景描写

 ところで、最初の章でも述べたが、僕らの一部はホダカに感情移入することができない。
 ホダカの行動が衝動的なことに加え、しばしば彼の行動はシュールに描かれるからである。

 例えば、大雨を喜ぶ冒頭のシーン。あるいは、晴れた東京の線路を、ヒナを助けようと走る最後のシーン。
 特に後者では、ホダカの行動のシュールさは強調されている。彼は、周りの人間に、「いるよな、ああいう奴」と言われながら線路を走る。そして僕らも、そんなホダカを見て違和感を覚え、いまいち感情移入ができないのである。
(線路なら警察が車を使えないから、という理由で彼は走っているのだと思うけれど)

 では、なぜホダカの行動はしばしば奇妙で、他者から共感されず、僕らはホダカを好きになれないのだろうか。
 一つには、『天気の子』においては情景描写が反転しているからだと思う。

 ホダカにとって、雨は喜ばしいものなのである。
 そしてホダカにとって、晴れは(ヒナの犠牲を意味するので)嫌なものなのである。

 つまり、晴れが喜びを表し雨が悲しみを表すという常識的解釈が、ホダカにおいては反転しているのだ。

 だからホダカに感情移入をするためには、雨を晴れに、晴れを雨に再解釈しなおさねばならない。
 例えば、ホダカが青空の下で線路を走っているシーンは(僕らの理解のために再解釈すれば)、青年が少女のために、土砂降りの中を走っているシーンなのである。
 ホダカが青空の下で警察と戦うシーンは、青年が少女のために、土砂降りの中で戦うシーンなのである。

 これらの場面では、本当はセミしぐれではなく大雨が地を打つ音が流れているはずであり、本当は青空ではなく曇天が描かれているはずであり、日光ではなく稲光が空から差しているのである。

 このように、情景描写を反転させなければ、ホダカを理解することはできないと僕は思う。


■「晴れ女」と「晴れ」の関係

 考察に戻ろう。
 ここでは、「晴れ女」ヒナと天気の関係について考察していきたい。

 ヒナは悲しけに、次のように呟いている。

人柱なんだって、私。ナツメさんが教えてくれたの、晴れ女の運命。
晴れ女が人柱になって消えることで、狂った天気は、元に戻るんだって。

 実際、晴れ女が神隠しにあうことで、東京は晴れることになる。
 まるで、昨日までの悪天候をすっかり忘れ果ててしまったような、病的な晴れだ。

 しかしヒナがホダカによって連れ戻されると、東京は再び土砂降りに見舞われる。そしてついに、東京を海に沈めるにまで至った。

 つまり整理すれば、「晴れ女」が神隠しにあえば天気は「晴れ」になるのである。
 そしてこれは、「○○女が消えれば、天気は○○になる」と抽象化できる。

 これは運命である。変更できない世界のルールだ。

 であるならば、次の、決定的に重要な推測が成り立つことになる。
 もし「雨女」が神隠しにあったとしたら、きっと東京は「雨」になったことだろう。


 実際、神社のおじいさまは、一貫して「天気の巫女」という呼び方をする。決して、「晴れ女」とは言わないのである。
 そして占い師のおばさまも、「晴れ女」だけでなく「雨女」も実在すると述べている。

 そもそも、(これは僕の薄い知識だけど)普通「天気の巫女」と聞いて連想するのは、「晴れ女」よりもむしろ「雨女」ではないだろうか。
「雨乞いの儀式」は聞いたことがあるけれど、「晴れ乞いの儀式」「日乞いの儀式」「日照り乞いの儀式」はあまり聞かない(調べたところ、あるにはあるらしい)。

 僕らの認識は、つい「晴れ女」のヒナに引っ張られてしまうが、『天気の子』世界には「雨女」もいるのだろうと僕は思う。
 そして、「晴れ女」が消失して「晴れ」るのであれば、「雨女」が消失すれば「雨」になることは容易に考えられるのである。

 裏を返せば、「雨」が異常に降っているならば、どこかにいた「雨女」が消失したのだと考えるのが自然であろう。

 実際、神社のおじい様によれば、「天気の巫女」は決して唯一の存在ではない。

 どの村にもどの国にも、そういう存在がおった。

「天気の巫女」は複数いるのだ。
「晴れ女」がいるのなら、「雨女」もいると推測してよいと思う。


補:ヒナは「晴れ女」と言えるか

 そもそも、ヒナは「晴れ女」だと言えるのかどうか、よく分からないところがある。

 普通「晴れ女」という言葉は、その女性がいると天気が晴れるような人を指すと思う。

 一方でヒナは、彼女がいると雨が降り、神隠しにあうと晴れるような存在なのである。
 つまりヒナがいると、晴れるのではなく、むしろ雨が降るのである。

 我々の一般的な感覚から言えば、ヒナは「晴れ女」ではなくて「雨女」ではないのか。

『天気の子』においては、「そこにいるだけで雨が降るが、お祈りで晴れにできる人」が「晴れ女」と呼ばれている。
 だとすれば恐らく、「そこにいるだけで空は晴れるが、お祈りで雨にできる人」が「雨女」と呼ばれているのだろうと推察できる。

 本稿でも、この言葉使いに準じている。ただし、ここには大きな逆転があることも忘れてはならない。

 と思うのだけど、この仮定を置いて考察してみても、あまり実りのある結論は導出できなかった(僕はね)。
 この逆転には何か大きな意味がある気がするのだけど、ひとまず今後の課題としておきたい。


暫定的な仮説②:東京に雨が降っていた理由

 話を戻そう。

 晴れ女であるヒナが消えると東京が晴れたように、雨女が神隠しに合えば東京は雨に降られていたに違いない。

 これこそ、物語序盤で、東京が信じられないほどの雨に打たれていた理由である(と、僕は思う)。

 物語が始まる前、東京には雨女がいた。彼女はきっと、何度も雨を願った。その度に、雨が降ったに違いない。
 しかしその力を使い続けることで、彼女は次第に透明になっていく。そしてついに、消失するに至った。

 その結果、東京は大量の雨に降られるに至ったのである。


 いわば、『天気の子』には、前日譚があった(はず)のである。
 東京にいた雨女が雨を降らせ、そして消えていった物語が。

 ではその雨女とは、いったい誰だったのか。




考察2:『天気の子』の前日譚

■雨はいつから降っていたのか

 これまでの議論が正しければ、雨は、雨女が消えた時から降っていることになる。
 であるならば、雨女を探すためには、雨が降り出した時を特定しその時点で消えた人物を探せばよい。

 では、雨はいつから降っているのだろうか。

 スガのセリフを思い出そう。

今年は雨ばっかの異常気象だしさあ。

 また、スガの義理の母親の言葉も参考になる。

今年は雨ばかりね。こんなんじゃ外で遊べないし、喘息にも悪いし、最近の子供たちは可哀そう。昔は、春も夏も素敵な季節だったのに。

 これらのセリフを見れば、東京に雨が降り始めたのは、今年からだったと予想できる。
 ただし、実際のところはよく分からない。去年の11月くらいから雨が続いていたとしても、今年が雨ばかりならば、「今年は雨ばかりだ」とは言いそうな気がする。

 幅をとって、去年の秋の終わり頃から、雨は降っていたと考えておきたい。


■雨女は誰なのか

 では、雨女は誰なのか。

 その人物は、今年あるいは遅くとも去年の終わりごろに亡くなった人物である。
 その人物は、「雨女」というくらいだからきっと女性である。


 この条件に該当するのは、ヒナの母親しかいない。(映画内で描かれている範囲では)
 多分、「雨女」は彼女であろうと思う。

ヒナ:じゃあ、お母さんも初盆なんだ。
瀧くんのお婆さま:おや、あんたのお母さんも去年亡くなったの?
ヒナ:……はい。

 思えば、ヒナの母親が亡くなったシーンは、全く描かれていない(想像の余地が残されている)。
 恐らく、ヒナの母親はヒナのように、ある日突然病室から消えたのではないだろうか。

 そしてこれが、ヒナとナギが二人だけで暮らしていた理由だとも思う。

 ヒナとナギは、両親がいないにも関わらず、公的な援助を受けようとしない。それどころかヒナは、年齢を偽ってまで、アルバイトを始めるのである。
 そしてナギにも、ヒナに負担をかけていることを申し訳なく思っているのに、しかし公的な援助を受けようと提案したような形跡はない。

 ヒナたちの家が線路沿いにあったことや、ナギが安売りのイワシを買ってきたこと、そしてヒナがお金のために体を売ろうとしたことを考えれば、彼らの経済状態が良くないことは推察できる。
 しかし姉弟は、行政サービスを受けようとしないのである。

 彼らには多分、社会に助けを求められない事情があるのだ。
 では、その事情とはいったい何だろう。彼らはなぜ、二人だけで暮らしているのか。

 多分その事情は、ヒナとナギの両親が不在であることと関係している。
 ヒナの父親は、最初から一貫して描かれない。ヒナの母親は、冒頭で死の間際にいる。

 ヒナの父親が早期に亡くなっていて、ヒナの母親が「雨女」として普通ではない消え方をしたのだとしよう。
 だとすると、ヒナの母が消えたことに関して、疑われるのはヒナ(とナギ)であろう。
 経済状態が苦しかったヒナたちは、母親の治療費を払えなかったために母親を捨てた。そんな邪推も働いたかもしれない。

 そう解釈すれば、(根拠は全くないけれど)少なくとも整合的ではあると思う。
 つまり、ヒナの母が「雨女」だと仮定することで、物語の解像度が上がるのである。


■雨女はヒナの母親だけか

 しかし、以上の議論では説明がつけられない点が一つある。雨が降りはじめた時期が合わないのである。

 スガとスガの義理の母親によれば、雨は今年から降り続いている。前節では、これを前提にしてきた。

 一方でヒナは、雨は一年前のあの日(ヒナが雨女になった日)にも降り続けていたと報告しているのだ。
 だからヒナは、母親に青空を見せてあげたいと考え、廃ビルの鳥居をくぐったのである。
 そしてその際、鳥居の下には、ナスとキュウリがお供えされていた。言うまでもなく、この日はお盆だったのである。実際、ヒナの服装も軽いもので、いかにも夏服らしい。

 つまりヒナによれば、雨は去年の夏にも(あるいは夏から)降っていたのである。
 ヒナの母親が存命中にも、雨は降っていたのだ。

 であるならば、こう考えるしかない。

 ヒナの母親以前にも別の「雨女」がいて、彼女は(多分、ヒナのように消えることで)東京に雨を降らせていた。
 そしてその事実を、スガとスガの義理の母親は知らない。

 スガの義理の母親はともかく、スガが今年以前の東京の雨を知らなかったことには説明がつけられる。
 なぜならスガは、物語冒頭、ホダカと一緒に東京行きのフェリーに乗っているからである。
 つまりそれまで、彼は東京ではないどこかへ行っていたことになる。そんなスガが、東京の悪天候を知らなかったとしても不思議はない。

 だとしたら、スガはどこに、何をしに行っていたのだろうか。


■もう一人の雨女は誰なのか

 話を戻して、もう一人の「雨女」について改めて考えてみよう。
 少なくとも去年の夏にはすでに他界していて、東京に雨を降らせていた女性。

 この条件に該当するのは、スガの亡くなった妻であるアスカしかいない。
 多分、彼女も「雨女」だったのだろう(と、僕は思う)。

 ところで、前節で僕はこう問うた。
 スガはそもそも、どこに行っていたのか。

 もしもアスカが「雨女」で、「事故で亡くなった」のではなくヒナのように消えたのだとすれば。
 その仮定を置くならば、スガは彼女を探しに行っていたのではないだろうか。

 もちろん、これは思い切った仮定ではある。しかし可能性として否定できない以上、この仮定を置いて解釈を試みることも無益ではないだろう。

 ホダカがヒナを探しに行ったように、スガもアスカを探しに行ったのではないだろうか。
 実はスガは、ほんの少し大人なだけのホダカではないのか。


■スガとホダカ

 そもそも、スガがホダカと似ていることは、『天気の子』の中で何度も示唆されている。

ケイちゃんと一緒じゃん。ほっとけなかったんでしょ。自分と似てて。

 なお、ケイちゃんとはスガのことである。

ねえ、似てると思わない? あの二人。
ケイちゃんもさ、10代で東京に家出してきたんだって。そこで奥さんと出会って大恋愛して。
何年か前に、奥さんを事故で亡くなっちゃったんだけど。
あれで意外にまだ一途なの。

 これらの類似点は、スガが、『天気の子』前日譚の主人公だったことの示唆である(と僕は思う)。

 こう考えれば、刑事たちが事務所にやってきた際に、スガが泣いた理由も分かる。
 彼が涙を流していたのは、ホダカが人生を捨ててまでヒナを探しているということを聞いた後である。
 この時、スガは指輪を触り、そして涙を流すのである。

 これは、人生を捨ててヒナを探すホダカに、アスカを探す自分の姿を重ねたからではないか。


 このように解釈すれば、スガが警察に襲い掛かったことにも説明がつけられる。

 ホダカがヒナを探して、警察から逃げている、あの廃ビルの場面。最初スガは、ホダカを落ち着かせ、一緒に警察に行こうと提案する。
 にもかかわらず、いざ警察がホダカを捕まえると、スガは急変してホダカを逃がすのである。

 そのきっかけになったのは、ホダカの次の叫びである。

もう一度、あの人に、会いたいんだ

 この言葉に、スガはハッとする。このシーンで、確実にスガは心を動かされている。

 なぜか。
 それはここでも、スガはホダカに、自分を重ねているからだ。ヒナを探すホダカに、アスカを探すスガ自身を。

 だからスガにとって、ホダカを助けることと自分を助けることは、同等のことだったのだろう(と僕は思う)。

 つまり、スガがアスカを探していたと解釈すると、整合的に理解できる点が(いくつかは)あるのだ。


■議論の整理

 本稿での議論を一度整理したい。

「晴れ女」がいたならば「雨女」もいたはずだ。
「晴れ女」が消えて「晴れ」になるならば、「雨女」が消えれば「雨」になっただろう。
 ところで、東京は最初から「雨」に打たれていた。
 であるならば、物語が始まる以前に、消えた「雨女」がいたに違いない。
 物語が始まる前に消えた女性は、スガの妻アスカしかいない。
 ゆえに、彼女こそ、消えた「雨女」だ。

 以上が、これまでの議論だった。


■スガとアスカ

 ここで、スガの最後のセリフを思い出したい。

世界なんてさ、どうせもともと狂ってんだから。

 違う、と僕は思う。狂わせたのは、スガと雨女アスカだ。彼らが世界を、狂わせたのである。彼らは一度、世界の形を変えているのだ。東京に大雨を降らせるという方法によって。


 ここでようやく、スガの指輪の謎に答えることができる。実はスガは、最初から最後まで、左手の薬指に指輪を二つはめているのだ。

 なぜ彼は一貫して、結婚指輪を二つはめていたのか。

 それは、スガがアスカに渡し、消えたアスカの形見として残された指輪を、今も大切にしているからである。

 ヒナが消えた時に彼女の指輪がホダカの前に落ちてきたように、アスカが消えた際には彼女の指輪がスガの前に落ちてきたのだろう。
 彼は、その指輪を今も持っているのだ。


 思えば、スガは意外にも、一途な人間として語られている。

ねえ、似てると思わない? あの二人。
ケイちゃんもさ、10代で東京に家出してきたんだって。そこで奥さんと出会って大恋愛して。
何年か前に、奥さんは事故で亡くなっちゃったんだけど。あれで意外にまだ一途なの。

 スガが指輪をずっとはめていたのは、彼の誠実さの表現なのだろうと思う。

 なお、ここでのナツメのセリフについて、一つコメントしておきたいことがある。
 多分本当は、アスカは「事故で亡くなっちゃった」のではない。
 事故にあったことまでは事実かもしれないし、その後病室に入ったということもあるかもしれない。

 しかし恐らく、アスカは(ヒナの母親のように)消えたのである。そしてスガだけが、それを知っている。


■スガと廃ビル

 しかし、以上の議論には大いに反論があろう。
 その一つとして、スガが「雨女」アスカを知っているならば、どうして彼がオカルトを信じていないのかと問われることと思う。

 しかし、僕がわざわざそう書くということは、再反論の準備があるということだ。
 ホダカがヒナを取り戻すため、廃ビルに行った場面を思い出そう。

 そこには、どうしてかスガが待っている。スガはホダカがこのビルを目指していたことを知らないにも関わらず、である。
 彼が知り得たのは、「代々木の廃ビル」にホダカが向かっているということだけだ。この情報は、ナツメからの電話で聞き出すことができただろう。

 しかし「代々木の廃ビル」が一つだけとは限らないし、何よりスガが廃ビルの中で待っていたことにも説明がつけられない。ビルの中に入ると視界が狭くなるのだから、人を探している時は入口の外で待つだろう。

 なぜ、スガはビルの中にいたのだろう。
 それは彼が、ホダカがビルに来ることを予め分かっていたからだとしか解釈できない。

 ではなぜスガは、ホダカがあのビルに来ることを予想できたのか。
 それは彼が、あのビルの屋上と「天気の巫女」が関係しているということを知っていたからだ。

 ではなぜ、スガはあのビルの屋上と「天気の巫女」との関係を知っていたのか。
 スガの妻アスカが、「天気の巫女」だったからに違いない。


『天気の子』序盤を思い出してほしい。ホダカが東京に来て、少し経った後のことである。

 そもそも、オカルト雑誌の記事作成を仕事にし、数ある都市伝説の中から「晴れ女」をホダカに探させたのは誰だったか。
(結局ホダカは偶然ヒナと出会ったけれど、その偶然がなければ)ホダカと「晴れ女」との出会いを作っていたのは誰だったのか。

 スガである。

 スガは、「晴れ女」を探すことで、「雨女」アスカに関する情報を得ようとしていた。
 こう解釈すると、(僕は)スッキリ理解できるのである。


補:アスカの母親

 ところで、これはただの間接的な傍証でしかないけれど、アスカの母親には興味深い特徴がある。
 スガが子供と出会うために交渉していた、あの素敵な叔母様である。

 スガとアスカ母はホテルのロビーらしきところでお茶を飲んでいる。この時の、アスカ母の行動に注目してほしい。

 彼女は、非常に短い間隔で、お茶に口をつけている。
 僕が計測したところ、彼女は一度お茶を飲んでから、約20秒後に再び口をつけている。
 彼女は、「同じ場面で二度コップに口をつける人物」として描かれているのである。

 もちろん、晴れ女は実在します。そして雨女も実在します。
 晴れ女には稲荷系の自然霊が憑いてて、雨女には龍神系の自然霊が憑いてるのね。
 龍神系の人は、まず飲み物をたくさん飲むのが特徴。水が恋しいのね。気が強くて勝負強いけど、大雑把で適当な性格。
 稲荷系の人は勤勉だけど、気の弱いところもあるので、リーダーには不向き。美男美女が多いの。

 僕は、このセリフを思い出さずにはいられない。
 アスカの母親は、「飲み物をたくさん飲む」龍神系の人、「雨女」が所属する龍神系の人として描かれているのではないだろうか。

 であるならば、そんな彼女の娘であるアスカは――

――これ以上は根拠不十分なので、本稿では沈黙しておく。


結論:そもそもなぜ、東京は雨に暮れていたのか

 以上の議論により、僕は『天気の子』を解体してきた。

 本稿での議論を整理しながら、スガを主人公として読み替えた上で、『天気の子』を改めて見直そう。

 スガは、消えた「雨女」の妻アスカを探すため、形見の指輪を大切につけながら東京を出ていた。だから彼は、去年の東京の天気を知らなかった。
 そして東京に帰ってくる途中で、家出少年ホダカと出会う。そして彼に、話題の「晴れ女」を探させる。「雨女」のヒントを求めてのことである。
 さらに「天気の巫女」の取材にも行く。そこで神社における「天気の巫女」が「祈祷師みたいなものですか」と確認する。これは多分、空に祈っていた妻アスカが、「天気の巫女」なのかどうかを知りたかったのだ。
 そして最後に、スガは自ら「晴れ女」ヒナに接触する。子供と遊びたい親心を理由にして、「晴れ」をヒナから買うのだ。

 スガは『天気の子』において、ずっとアスカを探しているのである。
 彼がアスカの指輪を最初から最後まで身に着けていること、寝言で彼女の名を呼ぶことに、それは表現されている。
 そういうわけだから、同じような境遇のホダカに感情移入し、時には涙を流し、時には警察にさえ反抗してしまう。
 そして何より、ヒナを探すホダカの行動を、先読みすることができるのである。


 以上の議論から、本稿はタイトルで提示した問に、ようやく答えることができた。
 そもそもなぜ、東京は雨に暮れていたのか。


 それは、スガの妻であり「雨女」だったアスカが、神隠しにあってしまったからである。



考察3:『天気の子』の裏側

■スガの視点

 ところで、スガの視点に立ってみれば、興味深いことが分かる。

 スガは、800年前の天井画を見ている。
 この画は、天気の巫女が見たとされる景色を描いたものである。

 ところで、天気の巫女の記憶が描かれたということは、800年前の天気の巫女は雲の上から帰ってきていたということに他ならない。そうでないと、彼女が見た景色は描かれることができないからだ。

 ここでスガは、消失した天気の巫女は(なんらかの方法で)帰ってこれることを知った。

 

 さらにスガは、ホダカが天気の巫女であるヒナを連れ戻したところを、間近で見ている。
 つまり、ホダカがヒナを連れ戻した方法――あの鳥居をくぐる――も、彼は知ったのである。

 ここでスガは、消失した天気の巫女を連れ戻す、具体的な方法を知った。


 そして最後のピースとして、スガの性格をもう一度指摘しておこう。

何年か前に、奥さんを事故で亡くなっちゃったんだけど。あれで意外にまだ一途なの。

 実際彼は、酒を飲んで寝込んでいる時に「アスカ……」と口にする。
 彼の中で、アスカへの気持ちはまだ冷めていないのである。


 ここまでの分析を踏まえれば、ホダカがヒナを連れ戻した後のスガの行動は、容易に推測できる。

 彼は、アスカを連れ戻しに行ったに違いない。


■スガは、アスカを取り戻せたのか

 ではスガは、ヒナを取り戻したホダカのように、アスカを取り戻せたのだろうか。
 この点については、僕は何とも言えない。むしろ、スガは取り戻せていないのではないかとも思う。
 第一、もし「雨女」アスカが帰ってきているのだとしたら、東京の空は晴れているだろう。しかし東京は、3年間も雨に打たれ続けているのである。


 そもそもスガは、アスカを取り戻す以前に、鳥居をくぐって空に行けたのか。この点から怪しい。

 ヒナは「思わず強く願いながら」鳥居をくぐったらしい。ホダカも「どうか、どうか、どうか」と強く願っている。
 さらに、ヒナは明らかに「稲荷系」であり、ホダカもおそらく「龍神系」だ。「○○系」でないと、鳥居をくぐっても空には行けないのかもしれない。
 この二点が、雲の上に行くための必要条件だとしたら、スガがアスカを取り戻しに行けたかどうか、相当に怪しい。

 どこか冷めているスガは、「強く願いながら」鳥居をくぐるようなタイプには見えない。スガが「稲荷系」か「龍神系」だと言うのも、オカルトを(表面的には)否定しているスガには似合わないような気がする。


 しかし僕は、スガはアスカを取り戻していると思う。
 なぜそう思うのか。

 まず一つには、彼が龍神系の人間だと考えられるからである。

龍神系の人は、まず飲み物をたくさん飲むのが特徴。水が恋しいのね。気が強くて勝負強いけど、大雑把で適当な性格。

「飲み物をたくさん飲む」と聞けば、冒頭でホダカにビールを要求したスガが思い出される。
 そもそも、大雨に降られた船のデッキで、スガはホダカを助けている。つまりスガはホダカと同じように、雨の中で屋外にいたのだ。
 もしかしたらスガも、雨を心待ちにしていたのかもしれない。彼は、「水が恋しい」のかもしれない。

「気が強くて勝負強い」かどうかは分からないが、「大雑把で適当」はスガにぴったりの言葉だ。
 数年前に地元を飛び出して大恋愛をしていた頃のスガが、「気が強くて勝負強かった」可能性も低いとは思えない。

 以上の考察から、スガが「龍神系」だった可能性は十分にあると思う。


 次に、スガはアスカが帰ってくることを「強く願いながら」鳥居をくぐれたのか。これも、可能性は高いと思う。

 前述のとおり、スガはアスカが消えた後も、指輪をし続けている。寝言でも「アスカ」と名前を呼んでいる。
 一途にアスカを想い続けているのである。

 そもそもスガは、なぜオカルト雑誌の記事執筆をしていたのだろうか。
 それは彼自身が、雨女であるアスカの情報を集めたかったからではないのか。
 アスカの帰還を、誰よりも「強く願って」いたからではないのか。

 恐らくスガにとって、アスカが帰ってくることを「強く願う」ことは、日常的な、ごく当たり前のことだった。
 だから多分、彼が普通に鳥居をくぐったとしても、きっと「強く願う」という条件は自然に満たせただろうと思う。

 以上の考察から、スガが「強く願いながら」鳥居をくぐれた可能性も十分にあると思う。


 そもそも奇妙なのは、スガに送られてきた写真である。

 ホダカが3年後にスガの元を訪れた際、スガの携帯から受信音が鳴る。それに気づいたスガは携帯を見て、送られてきたと思われる写真をホダカに見せる。

 おかしいことに気がつくだろうか。

 この写真は、構図から推測するに、スガの自撮りによって撮影されたものである。

 ではなぜ、スガ自身が携帯で撮影した写真が、スガの携帯に送られてくるのか。スガ自身が撮影したならば、その写真はスガの携帯に入っているはずではないか。

 少なくとも言えるのは、あの時、スガに写真を送ることができた人物がいたということ。
 そして、スガが事務所で持っていた携帯には、あの写真が入っていなかったということ(そうでないと送る意味がない)である。


 ここからは全て僕の妄想だけど、多分、こういうことなのだと思う。

 スガは、私用のスマホで写真を撮影した。一方、スガが事務所で持っていたのは仕事用のスマホだった。
 そして家に置いてあるスガのスマホを操作し、仕事用のスマホに写真を送ることができた人物がいた。
 だから、スガの携帯にスガ自身が撮影した写真が送られてきた。

 では一体、その人物は誰か。

 あの時間帯は、スガが仕事をしていることと外の明るさから推測するに、平日の昼間である。ナツメは就職して職場にいることだろう。スガの娘もナギも、学校に行っている時間である。
 写真に映っていた人物の中で、あの時スガにあの写真を送れそうな者はいないのである。

 以上により、次の可能性が示唆される。

 あの時スガのスマホに写真を送ったのは、アスカだった。



おわりに

 以上の考察で僕は、『天気の子』の謎に、一つの説明を与えてきた。

 僕の考察によれば、『天気の子』には前日譚がある。家出少年スガと「雨女」アスカの物語である。
 そしてこの前日譚において、スガはアスカを亡くしてしまった。だから『天気の子』において、東京は雨に暮れていたのである。

 そしてスガは、この映画中、ずっとアスカを探している。3年後の場面を除いて、彼の動きはすべてこの行動原理で理解できる。
 そして(多分)、スガはアスカを取り戻すことに成功している。ホダカを見倣って、スガは空に行ったのだ。

 最後に、スガの最終盤のセリフをすべて書き起こしておく。

 一般的には、「ホダカとヒナが世界を変えたこと」の否定として理解されるセリフだが、本稿の議論を踏まえればまったく別の見方ができる。
 スガのセリフは、「ホダカとヒナ"だけが"世界を変えたと思い上がること」の否定として、そして前作主人公から今作主人公へのアドバイスとして読めてくるはずだ。

なにお前、3年間ずっとそんなこと考えてたの。
大学生にもなるっつーのに、相変わらずガキだねえお前は。
お前たちが原因でこうなった? 自分たちが世界の形を変えちまった?
んなわけねーだろバーカ。自惚れんのも大概にしろよ。


お、見てみて。この前娘とデートしちゃった。
ナツミとナギが邪魔だったけどさあ。

お前もしょうもないことグズグズ考えてないで、はやくあの娘に会いに行けよ。今まで何してたんだよ。
ほら行け、今から行け。仕事の邪魔なんだよ、もういっそ家まで行って来いよ。

おい、まあ気にすんなよ青年。世界なんてさ、どうせもともと狂ってんだから。

2023/11/19
アリス

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