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過剰に「正しい」世界で、息をするための基礎理論



はじめに

 現代社会を生きるということは、暴走する規範に断罪され続けるということである。

 私たちは、過剰に「正しい」時代に生きている。この漂白された世界で、私たちは呼吸さえできないでいる。

 本論は、この現状に抗うために書かれている。人間を無視して「正しく」なっていく世界で、人間の居場所を守るために書かれている。


 私は、規範の暴走を批判する。
 私は、倫理の膨張を拒否する。
 私は、不当な「正しさ」を遠ざける。

 代わりに私は、人間に息をさせるような規範を思い出させたい。


 本論が、窮屈な現代に違和感を覚えている人の、一助になれば幸いである。



問題意識

 現代を生きていれば、過剰な「正しさ」に触れる機会は極めて多い。
 そのため、それらを全て示すことは到底できないし、する必要もないように思われる。

 代わりにここでは、過剰な「正しさ」が暴走してしまい、ガタガタと音を立てながら故障している例を、いくつか示そう。


1.「当事者」という問題

 以上の記事では、まず次のように言われている。この一文を特に頭に置きながら、記事を読んでみてほしい。

友人のトランスジェンダーの女性と話しながら、私はこの人を無意識に傷つけているかもしれない、と考えることがある。

知った瞬間、世界は変わる『トランスジェンダー入門』を読んで

 

 既に該当記事は読まれたものだと思って、話を進めたい。 
 この記事に表出されているエートスは、簡単に言えば、次のようなものになろう。

「知らない」ということは、無意識に加害してしまうということだ。
 だから「知る」ことで自らの加害性に気がつけるのだ。
 私たちは加害しないために、「知らなければ」ならない。

私の要約①

 そんな無意識の加害の例として、この記事は次のようにさえ言って見せる。

この社会を形づくる(価値観や制度・法律など)ほぼ全てのものが、トランスジェンダーの人権をおびやかす構造になっている

知った瞬間、世界は変わる『トランスジェンダー入門』を読んで

 過剰である。社会を形づくるほぼ全てのものがトランスジェンダーへの加害であるなど、乱暴と言うほかない。
 冷静に考えれば、この「おかしさ」には誰でも気がつくことができる。

 しかし現代では、これが「正しい」のだ。
 私たちは、常に「無意識の加害者」として断罪され続けなければならないのだ。
 そして、その過剰な「正しさ」を内面化することこそ、倫理的なのだ。

 この問題を捉えるために、もう少し深く考えてみたい。

 当該記事には、当事者と第三者の二つのグループが想定されている。
 そして基本的には当事者が被害者で、第三者は(潜在的な)加害者である。
 私たちは「知らない」せいで、常に加害者に転落する危険に晒されている。「知らない」ことは罪なのだ。「分かりやすい」ことは、罪なのだ。「分かりやすい」説明は「知らない」ことを覆い隠すから。
 つまり私たちは、(潜在的な)加害者なのである。

 トランスジェンダー当事者でない私たちは、当事者ではないということ(=「知らない」ということ)だけで、加害者になりうるのである。

 しかし冷徹に考えれば、私たちは後天的にトランスジェンダー当事者になれるわけではない。「知らない」ことは、私たちマジョリティに課せられた宿命のようなものである。

 では私たちは常に、加害者に転落する危険におびえ、自己を律しなければならないのか。

 そうなのである。現代では、そうしなければならないのである。
 私たちは、自分の「加害性」に気がつかなければならず、気を付けなければならない。
 これこそ、過剰に「正しい」現代の社会なのだ。


2.「専門家」という問題

 特にコロナウイルスが隆盛した時期に顕著だったと思うが、ある種の専門家は素人の意見を異常なほど嫌悪し危険視した。

 本記事には、以下に引用するように、一部の専門家の態度が批判されている。

素人がコロナについて語ることを、専門家は怒るんですね。「素人のくせに俺たちの専門領域について、デタラメなことを言って」「テレビにまで出やがって」みたいなセリフをよく目にします。

「素人がコロナを語ると専門家が怒る」という日本は明らかにおかしい

 これは現代では、きわめて一般的に見られる現象である。
 つまり、ある種の専門家は「専門家vs素人」という二項対立を好んで使用する。
 そして、専門的訓練を受けていない素人が安易に(メディア等で)発言することを問題視するのである。正確でない、厳密でないと言って。
 要するに、素人がテキトーなことを言うことによる悪影響を懸念しているのである。

 この現象はコロナウイルスの文脈から離れて、現代ではあらゆるところに見出すことができる。
 例えば、メディアにおいて学問がテキトーに扱われることを批判するアカデミズムがそうである。前の記事『「ゆる言語学ラジオ」批判の根本的無理』で私が批判したのも、そういう潔癖な精神だった。

 これらに表出されているエートスは、だいたい次のようにまとめられると思う。

「知らない」ということは、無意識に誤情報を拡散してしまうということだ。
 だから「知る」ことで自らの発言のどこに問題があったのかに気がつけるのだ。
 私たちは誤った情報を拡散しないために、勉強もしくは沈黙しなければならない。

私の要約②

 過剰である。間違った情報を拡散するのは確かに危険だが、だからと言って私たちは全ての分野の専門家にはなれない。これは、学問が細分化した現代における、人間の宿命のようなものである。

 では、自分の専門分野以外の分野では、私たちは沈黙しなければならないのだろうか。

 そうなのである。現代では、そうしなければならないのである。
 私たちは、自分の「非専門性」に気がつかなければならず、気を付けなければならない。
 これこそ、過剰に「正しい」現代の社会なのだ。



n.まとめ

 以上で示してきた例はいずれも、「規範」との関わりとして整理することができる。

 当事者や専門家は、彼らが大事にする「規範」を内面化できる立場にある。
 しかし、全ての人がそうなのではない。「規範」が大事だとは思いつつ、「規範」を内面化できるわけではない人々もいる。私たちは、トランスジェンダー当事者にはなれないし、全ての分野の専門家になれるわけでもないからだ。

 そういう訳だから、私たちは「規範」を完全に内面化できない人として、「規範」から糾弾されなければならない。私たちは潜在的な差別主義者であり、潜在的な疑似科学者である――ということになる。

 しかしそうはいっても、私たちとしては、加害者や疑似科学者とは距離を取っているつもりなのである。

 確かに私は当事者ではない。無意識に誰かを傷つけているのかもしれない。しかし、差別主義者ではない。
 確かに私は科学者ではない。無責任に誤情報を拡散しているのかもしれない。しかし、疑似科学者ではない。

 こういう違和感が、どうしても私の頭をかすめるのである。
 ここに、現代の病理を観察することができるように思う。

 つまりこういうことである。現代では、「専門家と素人」とか「当事者と第三者」とか「加害者と被害者」とか、とにかく二項対立が語られることが極めて多い。社会が、二つに分けられているのである。

 しかし私たちの視点からは、本当は社会は三つに分かれているのだ。
「科学者と疑似科学者。それと、科学へのリスペクトはあるけれど専門的な議論についていくのは難しいなあと思っていて、かつ疑似科学には染まりたくないなあと考えている私たち」。
「被害者と加害者。それと、被害者にはなれないからその苦しみを理解することはできないけれど、しかし加害者とは一線を画しているはずなんだけどなあと感じている私たち」。
「専門家と素人。それと、専門家ではないけれど、完全な素人ってわけでもないんだよなあと困惑している私たち」。

 現代では、上述の二項対立によって、そのどちらにも入りきれない私たちの居場所が奪われている。
 私たちは当事者でないがゆえに差別主義者にならざるをえず、専門家でないがゆえに陰謀論者にならざるを得ない。そんなラディカルな世界で、息もできないでいるのだ。

「それと、~私たち」の余地が、両側から圧迫されているのである。



議論のための方法

問題の整理

 ところで、これらの事例を観察すると、この問題をどのように定式化するべきかが見えてくる。

 上述の問題群は要するに、規範をどれだけ内面化しているか、という問題だった。
 改めて整理してみよう。

 まずこの社会には、大変潔癖な「規範」がある。
 しかしこの「規範」には、「知らなければ」追いつけない。当事者性ないし専門性がなければ、「規範」を内面化できない。

 そこで、大多数の人々が「規範」を尊重しつつも「規範」から脱落する。
 こうして、現実的な平衡点としての「現状」が生まれる。

 けれどもその中には、「規範」それ自体を拒絶する人々も現れる。
 彼らは自身の暴力性を省みることがないため、「規範」に厳しく糾弾されることになる。


 この観点から、私たちは、現代社会を三つのグループに分類することができる。

 まず、「規範」を内面化することのできるグループ。
 当事者、専門家などが該当する。

 次に、「規範」を尊重しつつも「規範」に追いつけず、完全には内面化できないグループ。
 多くの場合、一般市民はここに分類される。

 最後に、「規範」に背を向け、その内面化それ自体を拒絶するグループ。
 差別主義者、歴史修正主義者、トンデモ科学者、陰謀論者などが該当する。


用語の定義

 私は便宜的に、これらのグループにそれぞれ名前を付けておきたい。

「規範」を内面化できる最初のグループが、社会集団A。
「規範」を尊重しつつも内面化できないグループが、社会集団B。
「規範」それ自体を拒否するグループが、社会集団C。

 以上の議論から私たちは、現代社会を分析する三つの用語を手に入れることができた。

 現代の問題は、この三つの社会集団の相互作用として整理することができる。



理想的社会の展望

各社会集団の理想

 ところで、これらの社会集団A、B、Cは、それぞれどのように関わりあっているのが望ましいのだろうか。

 社会集団Aから見れば、肝要なのは社会集団Cから距離を取ることである。差別主義者や疑似科学者とは、縁を切っておくほうが望ましい。
 そして可能な限り、社会集団Bから社会集団Cへの移動を妨げ、社会集団Bから社会集団Aへの移動を推進するのが理想的であろう。

 いっぽう、社会集団Cから見れば、社会集団Aを否定し社会集団Bを仲間に引き入れることが望ましい。そして社会集団Cのなかで結束力を高め、社会集団Cからの離脱を阻止するのが理想的だろう。


 では、社会集団Bはどうだろうか。AとCのはざまで、どのように振る舞うのが理想的だろうか。

 私たちが一人の人間として生きることを宿命づけられている限り、差別の当事者にはなれず何等かの分野の専門家にもなれない(かもしれない)。すなわち、社会集団Aに行くのは相当に難しい。
 しかしだからと言って、当事者を傷つける差別主義者になりたいわけではないし、専門家をバカにするトンデモ研究をしたいわけでもない。当事者や専門家に対するリスペクトは、確かに持っているのである。要するに、社会集団Cに行きたいとも思っていない。

 そうであれば、社会集団Bにとっては、社会集団Aに溶け込めないことを自覚しながらも、社会集団Aに可能な限り接近していくことが理想的であろう。


理想的社会の展望

 以上、私はそれぞれの社会集団にとって、どのように振る舞うのが理想的かを議論した。
 では、これらの理想に従って、各社会集団が動いた際、社会全体としてはどのようになるだろうか。

 論理的に考えれば、答えは明白である。

 社会集団Aがあり、社会集団Bはそこに接近しようとしている。しかし社会集団Bは社会集団Aにはなれない。
 社会集団Cは社会集団Bから人を引き抜こうと画策している。ところで、社会集団Bから社会集団Cへの移動が起こることは、社会集団Aにとってさえ危機になる。差別主義者や陰謀論者が増えることを望む当事者や専門家はいない。

 そういうわけだから、社会集団Aは社会集団Bを包摂しようとする。社会集団Bを可能な限り包み込みつつ、社会集団Cから距離を取らせようとするのだ。

 つまり最終的に、社会集団Aと社会集団Bが相互に接近しあい、社会集団Cが孤立する。これが理想的な社会であり、自然な社会であろう。
 具体的に言えば、専門家が一般市民を啓発しつつ、トンデモ科学を批判するのが望ましい。
 当事者が一般市民を啓発しつつ、差別主義者の醜さを告発するのが望ましい。

 要するに、社会集団Aと社会集団Bがくっつき、社会集団Cだけが宙づりにされるのが理想的だ。
 つまり、「社会集団Aおよび社会集団B」と「社会集団C」との間に、濃く太い境界線を引くべきでなのある。



現状批判

1.「当事者と第三者」という詐欺

 前述の議論にも関わらず、「当事者と第三者」という二項対立は、この理想を破壊する。
 この図式は、先ほどの言葉で言えば、「社会集団A」と「社会集団Bおよび社会集団C」との間に、境界線を引くという発想だからだ。
 社会集団Aを特権化するあまり、社会集団Bと社会集団Cとの距離を近づけてしまったのである。

 だから私たちは、当事者ではないゆえに、加害者になり得るということになる。社会集団Aから突き放され、隣を見れば社会集団Cがいるのだから。

 私たちは、いつ社会集団Cにのみこまれるか分からない!

友人のトランスジェンダーの女性と話しながら、私はこの人を無意識に傷つけているかもしれない、と考えることがある。

知った瞬間、世界は変わる『トランスジェンダー入門』を読んで

 この一文は、上述の危機感が端的に表現された一例に他ならない。

 私はトランスジェンダーではないから、その苦しみが分からず、加害してしまうかもしれない。
 私は社会集団Aにいないから、社会集団Cに堕落してしまうかもしれない。


 しかし、そうではないのだ。社会集団Bにいる私たちは、社会集団Bにいるということを忘れてはならない。
 自分が社会集団Aにいると思いあがるのも考え物だが、社会集団Cにいると妄想することもまた危険である。

 私たちは、社会集団Bである。


2.「専門家と素人」という詐欺

「専門家と素人」という二項対立も、同様の罠にかかっている。
 この図式もやはり、「社会集団A」と「社会集団Bおよび社会集団C」との間に、境界線を引くという発想だからだ。
 社会集団Aを神聖視するあまり、社会集団Bと社会集団Cとの距離を近づけてしまっている。

 だから私たちは、専門家ではないゆえに、危険な素人だということになる。社会集団Aから突き放され、社会集団Cが横にいるのだから。

 私たちは、いつ社会集団Cにのみこまれるか分からない!

 私は専門家ではないから、厳密な議論が理解できず、誤った情報を拡散してしまうかもしれない。
 私は社会集団Aにいないから、社会集団Cに堕落してしまうかもしれない。


 しかし、そうではないのである。
 私たちは、社会集団Aでもなければ、社会集団Cでもない。

 私たちは、社会集団Bである。



n.まとめ

 以上、私は現代の病理を記述してきた。
 私たちの世界では、いま、おかしなことが起こっている。

 本来「社会集団Aおよび社会集団B」と「社会集団C」とに分けるべきところを、「社会集団A」と「社会集団Bおよび社会集団C」とに分けている。
 その結果、社会集団Aに包摂されるべき社会集団Bが、社会集団Cにのみこまれかけている。
 しかもそれを、社会集団Aにいる人々の一部が積極的に推し進めている。

 社会集団Bにいる人が、社会集団Aにいないという理由で、社会集団Cに転落させられているのである。

 これこそが、定式化された現代の病理である。
 これこそが、過剰な「正しさ」の正体である。


 この病理の暴力性は、個別具体的な「専門家ではない人の発信が危険だ」等の問題を、その深刻さではるかに凌駕している。

 社会集団Bを社会集団Cと同列視し、社会集団Cを活気づけているのは、むしろ社会集団A(の一部)なのだ。
「専門家ではないから」とか「当事者ではないから」とかの言葉で社会集団Bを突き放し、社会集団Aを特権化してしまった。「所詮男性には分からない」と言ってフェミニズムの理想を守る現象などは、この典型例である。

 これにより、BはCと接近してしまったのである。BはAに反発してしまったのである。
 フェミニズムに第三者として突き放された男性は、フェミニズムに反発してしまうのである。

 その結果喜ぶのは、社会集団Cだ。すなわち、差別主義者だ。彼らは巧妙に、社会集団Bを仲間に引き入れている。

 陰謀論の流行やフェイクニュースの拡散、アンチポリコレや歴史の捏造など、社会集団Aによって批判されている現象がある。しかしこれらは、社会集団Aの自己特権化に(ある程度)由来すると言わねばならない。
 社会集団Aが社会集団Bを包摂することを怠ったから、BはCに接近しCは活性化したのである。

 にも関わらず、社会集団Aの一部は、この暴力性を全く自覚していない。彼らは自己特権化によって、社会集団BとCを同列視してしまう。
 その結果、社会集団Cへの問題意識を、無根拠に社会集団Bへ向けてしまうことになる。無根拠に、である。


 私が『「ゆる言語学ラジオ」批判の根本的無理』で指摘したのは、まさにこの現象が内包する「無理」であった。

批判者は、特定の文脈における規範意識や問題意識を、全く別の文脈に対して、根拠も吟味もなく適用している。

「ゆる言語学ラジオ」批判の根本的無理

 私たちは社会集団Aの過剰な「正しさ」によって、社会集団Cと同様に危険だと見なされるのである。
 だから私たちは、常に自分の加害性(=社会集団C性)を、過剰に自覚しなければならないのだ。

権利問題の話をするときは、どうにも被害者の方に感情移入しがちだ。ただ一度振り返って、加害者だったかもしれない可能性に目を向けてみる。
大丈夫だ、誰も大丈夫じゃないから。人間誰しも叩けば埃が出る。まずはとっくに汚れている自分の手をじっと見ることからだ。
筆者もそうした。人一倍汚れている手で書いたこの記事が誰かの何かを手助けすることを切に祈っている。

『全裸監督』によせて とっくに汚れている自分の手をじっと見ること【後編】



「正しさ」が過剰な世界で、息をするために

 ここまで議論すれば、私たちが考えるべきことが見えてくる。

 もう一度述べておけば、現代の病理は以下のようなものだった。

 社会集団Bにいる人が、社会集団Aにいないという理由で、社会集団Cに転落させられているのである。

現代の病理

 そういうわけだからこの病理に対抗するためには、私たちを社会集団Cに転落させてくる、社会集団Aの一部を批判しなければならない。

「私は専門家ではない。しかし素人でもない」と堂々と言わなければ。
「私は当事者ではない。しかし第三者でもない」と声を上げなければ。
 社会集団Bの居場所を守らなければ。そうしなければ、息はできないのである。


息をするための諸認識

 そのためには、まず社会集団Bにいる私たちが、「自分は社会集団Bにいるのであって、社会集団Cにはいないのだ」と認識しなければならない。
 認識できるような、条件を整えなければならない。

 ただしこれは、現在の社会では、むしろ危険だと批判されることである。
 なぜなら現代では、「自分が社会集団Cにいない」と考えることは、自分の(潜在的な)加害者性から目を背けるということだからだ。
 安易に「自分は加害なんてしない」と思い込んでいると見なされるからだ。

 しかし、これまでの議論を参照すれば分かるように、私たち社会集団Bが社会集団Bとして存在していることが大事なのである。
 自分はもしかしたら社会集団Cにいるのかも、と思ってしまうということそれ自体が、すでにトラップにはめられた思考なのである。危険なのは、こちらなのである。

 私たちは、社会集団Bである。Cではないのだ。
 Aに接近しつつもAにはなれず、しかしCとも距離を取っている。
 私たちはそんな、社会集団Bである。社会集団Bなのである。


息をするための諸行動

 また、社会集団Aの一部に抵抗するためには、元来の社会の理想的姿を思い出さなければならない。
 すなわち、「社会集団Aおよび社会集団B」と「社会集団C」とに分かれている社会である。

 つまり私たちは、社会集団Bを包摂してくれるような社会集団Aを称賛するのが望ましいように思う。そうしてAにBへの干渉を促すのだ。
 具体的には、アウトリーチ活動に積極的な学者先生や、自身の体験を語り継ぐことに意欲的な当事者である。彼らを称賛し、彼らに包摂してもらう必要がある。

 ほかにも、社会集団Cとの距離を、もう一度取り直さなければならない。しかしこの時、社会集団Aに安易に従ってはならない。
 なぜかと言えば、一部の社会集団Aによれば、社会集団BとCはむしろ距離を取ってはいけないとされている。具体的には、「自分の非専門性や非当事者性を自覚しろ」と説教され、「自分の加害性(=社会集団C性)と向き合え」と叱られるからだ。
 そしてこれに盲従すると、私たちは、社会集団Cから十分に距離を取れない。つまり、問題は解決しない。

 私たちは、社会集団Aの一部から批判されることを覚悟しつつ、社会集団Aに接近していき、社会集団Cと距離を取る必要がある。
 具体的には、「テキトーだ」「曖昧だ」「厳密じゃない」と批判されながらも学問に接近し、「第三者には分からない」「どうせ男性には」と批判されながらも理想に近づいていくしかない。

 

社会集団Bとして生きるということ

 そもそも、Bとして生きるというのは、アンビバレントなことである。

 Aには追いつけないが、Cほど堕落していない。
 この狭間に居続けなければならないのである。

 具体的には、なぜワクチンがコロナウイルスに効くのかを説明できないまま、反ワクチンから距離をとらなければならない。
 なぜ陰謀論が間違っているかを詳細に説明できないまま、陰謀論を拒絶しなければならないのだ。

 私たちは常に、AからもCからも、「曖昧だ」と批判される。そういう宿命にある。
 しかし、こうやって生きるしかないのである。BはBでしかない。Aほど賢くもなれないが、Cほど馬鹿にもなれない。Bでいることしか、できないのである。


 だから、自分はCかもしれない等と思い込むことは、もうやめにしないか。確かに僕たちはAほど賢くないが、しかしCほど馬鹿でもないじゃないか。
 自分をCかもと思い込ませる過剰な「正しさ」は、むしろCに利するだけだ。Bの居場所を抹消するだけだ。そんなことに、意味なんかないのだ。


 私たちは、社会集団Bである。
 専門家には素人だと下に見られつつ、陰謀論者には盲目だとバカにされる集団である。

 私たちは、社会集団Bである。
 当事者には第三者だと拒絶されつつ、差別主義者には盲目だとバカにされる集団である。


 私たちはBであり、そしてBでしかない。
 Bとして生きる他はない。
 Bとして、不可能だと知りながらもAに近づいて行くしかない。


 それでいいのだ、と私は思う。

 本論が、窮屈な現代に違和感を覚えている人の、一助になれば幸いである。



おわりに

 以上の議論から分かるように、現代社会における「規範」の暴走は、社会集団A、B、Cの相互作用として整理することが出来る。

 今、社会集団Aは社会集団Bから遊離しかけており、社会集団Cは社会集団Bに侵入しかけている。
 もしこの状況が続くのであれば、私たちは、社会集団Aと社会集団Cという水と油しかない世界で生きなければならない。「当事者」でない限り「加害者」と批判され続けなければならない。「専門家」でない限り「疑似科学者」と批判され続けなければならない。

 その世界は、窮屈極まりない。「規範」の完全な内面化か、さもなければ「規範」の完全な放棄しかありえないからだ。

 私たちはこれに抗うため、安易な二項対立を拒否する必要がある。
「規範」をそこそこ尊重しつつ「規範」をそこそこ内面化できない存在であり続けるのだ。

 Bであるがゆえに、Bであり続けるしかないのだ。



あとがき

 最近、文章が冗長だとご指摘いただく機会がたくさんあったので、可能な限り簡潔な文章を心がけてみた。

 少しは読みやすい文章になっていてくれれば、と思うのだが――それが成功したかどうか分からない。

 私としては、簡潔さを目指しすぎて、持論を補強する論拠が少なくなった気がするのだけれど、これくらいが丁度いいのかもしれない。
 少なくとも、公開当初はこれくらい単純でもいいのではないか、と思う。

 ただ、根拠不足との誹りは免れ得ないともやはり思うので、必要があれば項を追加していくことにした。
 問題意識と現状批判で、『n.まとめ』としたのは、そういう理由がある。今はまだ1と2しか具体的に書いていないけど、これから3や4も書くかもしれないという意味を込めている。


 最後に一つだけ。
 noteの機能を最大限に使ってみたいという思いから、記事を有料化してみた。
 一応、無料で最後まで読める設定になっている(はずな)のだが、もしよければ、投げ銭していただけるとありがたく思う。

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