西田幾多郎 「思索と体験」の現代的改定+補足

このnoteは、西田幾多郎の著作を現代語的に書き換えることを意図したものです。書き換えを行う筆者は大学等で哲学を学んだことは無く、哲学的素養に関しては完全に素人です。読解の助力になることを願い書いたものですが、私の誤読が介入してる可能性があります。読まれる方は、このnoteを鵜呑みにされず、必ず現本を読まれてください。誤読と思われる箇所があればご指摘いただけると助かります。また、没後70年を経過しているため著作権は失効していますが、同一性保持権に抵触すると判断される可能性があり、その場合すぐ削除することを宣言します。

※筆者の独断により、“~”、「~」等の記号を付け加えています。
※西田自身が補足としてつけているかぎ括弧は、【】で表しています。
※筆者が分からない部分は?をつけています。お判りになられる方がいたらご指摘いただけると幸いです。

前著 善の研究
https://note.com/kind_murre555/n/nc117d69af5eb

次著 自覚に於ける直観と反省
https://note.com/kind_murre555/n/nf0e74a78b84b

※思索と体験においては、筆者の独断により、次著「自覚に於ける直観と反省」において読解の役に立つと思われる以下の三つの論文を抜き出しています。

思索と体験


認識論に於ける純論理派の主張に就いて


 一、現今、認識論の学派の中で、全くその立脚地を異にしているものは二つあると思う。一つは、カントが知識の発生に関する問題と価値(価値の定義に関しては後述される)に関する問題を分かち前問題(知識の発生に関する問題)を論じる英国経験派の立場からは、到底後問題(価値に関する問題)を論じることはできないと考え、(カントが)批評哲学という新たな立脚地から知識の価値問題を論じたように、明らかに右の両問題(知識の発生と価値の問題)を区別し、カントよりも一層厳密にカントの立脚地を維持して、これから認識論を構成しようとするのだ。例えばウィンデルバント、リッケルトなどのような人々だ。また全く系統が異なっているようだが、フッサールのような人も同一主義の人だ。私はこれらの人々を総括して、ここに純論理派と名付けておく。これらの人々の特徴は皆、実在ということから完全に離れて真理の基礎を立てようとするのだ。もう一つは純粋経験ということを唯一の立脚地として、論理的価値の問題も純粋経験から論じようとするのだ。従来の経験学派と同一のものではあるが、一層徹底的なものと見てよいだろう。これらの人には種々あって、純粋経験そのものの定義に関しても一致していないようだが、このような傾向は大体、思惟経済とか実用主義とかいうようなものになるのである。反対派(純論理派)の人々はこれを心理派というのだが、私は純粋経験派と名付けておく。さてこういう二つの立脚地(純論理派と純粋経験派)があって、そのいずれを取る方が良いか、両方の主張は何処まで正しくて、どこまで誤っているのか。またこの二つの立脚地は到底調和することのできないものなのだろうか。これらの問題は認識論を志す者が十分研究して見なければならない問題であるとは思うが、私は今先ず純論理派の主張について少し、これらの問題を考えてみたいと思うのだ。
 二、純論理派はその議論の出立点として認識が可能であることを仮定している。認識と言えば無論、客観的知識という意味だ。客観的でない、真でない知識ということは自家撞着(矛盾)だ。何らかの意味において客観的知識、すなわち真理というものが可能でなければならない。しかしここで客観的知識というのは、決して経験界(個人の意識内容)以外の実在界の認識という意味ではない。このような認識(経験界以外の実在界)を仮定するのは、非常な独断だ。ただ何らかの意味において、個人の意識内容以上に、誰もが一致すべき一般的、必然的知識がなければならないということに過ぎない。こういう仮定がなければ認識論の問題がない。すなわち認識論というものがなくなるのだ。この考えはリッケルトの「認識の対象」において明らかに認めることができ、純論理派の一般的な出立点であると思う。ウィンデルバントは「批評法か生成法か」という論文の中に次のような意味のことを言っている。批評法は規範的意識の存在ということを仮定している。すなわち我々の思惟でも、感情でも、意志でも、一般的価値(誰もが一致すべき一般的、必然的な意味)を得るには、その原則(規範的意識)を承認しなければならない意識が存在しているというのだ。規範的意識の存在を疑う者とは、批評哲学は何の議論も戦わすことはできない。規範的思惟の要求を無視する者には論理学者も議論の仕様がない。このようなことを言えば、批評法は循環論証(証明すべき結論を前提として用いる論法。この場合、純論理派は一般的価値を承認する意識、つまり規範的意識が誰にでも存在するということを前提に話を進めている)をなすようであるが、ロッツェも言ったように、避けることのできない循環論証は明らかにこれを為さねばならないのだ(≒避けることのできない循環論証は、それを否定することはできないのだ)。
 純論理派の議論の根底に右に言ったような仮定(規範的意識が前提として存在するという仮定)があるとすれば、すぐこのような議論はすでに独断(規範的意識があるという前提)の上に立つものではないかという疑いが起こるだろう。しかしこの仮定はどうしても避けることのできない仮定だ。疑うに疑いようのない仮定だ。なぜなら、疑うということはすでにこの仮定を許しているのだ(疑うということは、規範的意識が存在するということだ)。疑うということはすでに何らかの意味において、(規範的意識の)認識の可能を許しているのだ。リッケルトは次のように言っている。疑うということは、問うということだ。問うということは、その断定が真か、反対の断定が真かということだ。いずれにしても、(疑うということは)一つ(の断定)が真でなければならないということを仮定しているというのだ。ウィンデルバントが避けることのできない循環論証というのはこれ故だ。
 右に言ったようなわけだから、何らかの意味において(一般的価値の)認識の可能を許さなければならない。すなわち規範的意識というものを許さなければならないとして、さてこのような一般的、客観的知識はどのような性質のものでなければならないか、この知識の(認識が)可能であるならどのような条件を要するのか。こういう風に議論を進めていくのが純論理派の方法だ。これがいわゆる批評法だ。完全に哲学、心理学を離れ、単に真理そのものを本として立論するのが(純論理派の)特徴だ。純論理派はこのような仕方で、完全に知識の経験的内容(意識内容)を離れ、純論理的に知識そのものの形式的性質、及び条件を定めようとする。ウィンデルバントは前に引いた論文の中に明らかにこのことを言っている。批評法は一般的価値がなければならないという仮定から、そのような価値の実現に欠くことのできない精神活動の形式を明らかにするのだ。そしてこれを為すには、完全に経験の個己の性質(意識現象)に関係なく、すなわち先験的(経験に先だち、すなわち経験から独立して、経験を可能にするように条件づけるさま)に為さねばならないという。
 これまで述べたところによって、純論理派の出立点及びその目的と方法が明らかになったと思うから、少し純論理派はなぜ心理的説明を基礎とする認識論に反対するか、この派の人々が心理派と言っている一派の立論に反対する理由を述べておこうと思う。純論理派は先に言ったように客観的知識の可能ということから出立するのだ。さて仮にも客観的、すなわち一般的知識というものがあるとすれば、それは、これを知る個人的主観を超越したものでなければならない。真理はこれ(一般的知識)を知る知的作用と関係のないものだ。誰がいつ考えても同一のものでなければならない。いや、人が考える考えないに関せず、それ自身において不変のものでなければならない。重力の法則は初めてニュートンが考えたのだが、ニュートンの思惟作用と重力の法則という思想は完全に別物だ。重力の法則はニュートン以後も幾人か考えたかもしれない。こういう考えはリッケルト及びフッサールが極力主張するところだ。それであるから個人的主観(意識内容)の事実から一般的真理の規範を立てることはできない。誤った思惟も正しい思惟も、共に同一の事実だ。「かくある(個人的主観)」ということから「かくあらねばならぬ(規範)」という規範を立てることはできない。真理の基礎は真理そのものの性質に求める外はない。だがいわゆる心理派が論じるところをみると、精神現象の事実から真理の性質を説明しようとしている。すなわち経験的事実から理想的規範を論じようとしている。このような方法は単に誤っているのみならず、純論理派の眼から見れば、実に本末を転倒したものだ。心理派はこのような説明(経験的事実から規範的意識を論じることを)を試みる前に、すでに(規範的意識が存在するという)論理的約束を仮定しているのだ。経験派(心理派)の人は事実ということを議論の根拠にするのだが、認識論(純論理派)の方から言えば事実(経験的事実)は最終の根拠ではない。事実は疑うことはできないという(規範的)思惟の要求があって、初めて事実が疑うことのできないものとなるのだ。リッケルトの言うようなKategorie der Gegebenheit(与えられたカテゴリー=範疇?)というようなものに入って、初めて事実(経験的事実)が疑うことのできない真理となるのだ。
 三、右に言ったようなわけだから、単に認識作用の心理的性質を論じて、これによって認識そのものの性質を説明しようとするのは根本において誤っている。それでは純論理派の立場から厳密に考えて、認識とはどのようなこととなるか、この派の論拠から見た認識の意義性質を明らかにしたいと思う。この派では、前にも言ったように、何らかの意味において客観的知識(規範的意識)がなければならないというのが、疑うことのできない仮定である、ということから出立するのだから、主観的認識作用(意識現象の作用)を超越した客観的対象(真理)があるということ、及び何らかの仕方においてこれを知り得るということは、最初から問題にならない。これらを疑うのは前の出立点と矛盾することになる。問題はただ、この超越的対象はどのようなものであるか。これを知る認識作用はどのようなものでなければならないかということになる。そしてこの問題を明らかにすれば、この派の有する認識の意義性質を明らかにすることができ、純粋経験などの考えとどのように異なるかが分かると思う。
 それでは、純論理派の言うところの知識の客観性の基礎である超越的対象とはどのようなものか。まずこの超越的対象と、超越的実在(カントの言う、物自体)は、厳密に区別されなければならない。超越的対象というのは決して物自体(カント哲学で、われわれが経験的に知り得る現象としての物とは別に、それ自体としてあると考えられる物そのもの。 これは我々の感官を触発して表象を生じさせるが、それ自体がどんなものであるかは不可知であるとされる)というようなものを言うのではない。超越的物自体(超越的実在)の存在というようなことは、仮にも批評的な認識論の初めから許すべきものではない。このような実在の存在は推論されたものだ。このような推論をなす前に、どのような基礎によってこの推論が成立するかを問わなければならない。超越的対象というのは、このような推論に客観性を与えるものだ。言い換えれば、この(超越的)対象に(推論が)合うことによって推論が真となるのだ。純論理派は自ら称するように観念論(精神的なものと物質との関係において、精神的なものの側に原理的根源性を置く哲学説)だ。いかなる形の実在論にも反対するものだ。純論理派は意識内容を唯一の実在として出立するのだ。この点においては、かえって内在的哲学(ある現象がその根拠,原因を自己自身のうちにもっている事態をいう哲学)と同一の立脚地に立つものだ。それでは認識の対象というものを意識内容の中に求めるかというと、決してそうではない。純論理派は観念論ではあるが、先験的観念論(認識をすべて主観の所産とする経験的観念論に対して、空間に認識される事物の実在性を疑いはしないが、それは物自体ではなくて現象であり、人間の認識主観の先天的な直観形式である時間・空間と、先天的な思惟形式である範疇とによって整理構成されたところに生じるものとする論)だ。この点においては内在的哲学と完全に反対の立脚地に立つものだ。客観的知識の対象を意識内容の中に求めることはできない。意識内容もある意味において対象と言い得るだろうが、それは要するに主観の内容に過ぎない。主観から独立した対象ではない。客観的知識の対象は、超越的なものでなければならない(主観から独立したものでなければならない)。
 純論理派の超越的対象というのは、外、超越的実在界に属するものでもなく、内、意識内容に属すべきものでもない。単に「認識の対象」だ。我々の知識に客観性、すなわち一般的妥当性を与えるもので、すなわち知識の正誤を分かつ規範となるものだ。普通には知識は実在の模写であり、その忠実な模写が真理であると考えられている。しかし知識が模写したものが実在であるということはどのようにして言い得るのか。このような知識(実在の模写であるとされる知識)に客観性を与えるものは何であるか。このような知識(実在の模写であるとされる知識)を仮定することで、知識に客観性を与えようとするのは、hysteron proteron(倒置法…時間の順序が逆になっている修辞技法のこと。つまり本末転倒)である。それでは純論理派が極力主張する知識の対象とはどのようなものか。リッケルトが千九百九年の「カント研究」雑誌に掲げた「認識論の二途」という論文によれば、この(超越的)対象を求める途は二つあると言っている。一つは事実上の知的作用を分析し、真と言われる知識の対象を明らかにして、これによって超越的対象に達するのだ。これを先験的心理学という。もう一つは知的作用を顧みず、直ちに超越的対象を論じるのだ。これを先験的論理学という。リッケルトが「認識の対象」において取ったのは前者(先験的心理学)の方だが、氏の考えでは、前者の出立点は心理現象だ。心理現象からはどうしても超越的対象に達することはできない。前者の方ももちろん欠くことのできない研究ではあるが、むしろ後者(先験的論理学)を主とした方が良いというのだ。
 それでは知的作用の外に、認識対象を研究できる事実があるだろうか。リッケルトはこのような事実として文章をとるのだ。文章にも知的作用のように真ということがある。このように言えば、直ちに文章は我々の思惟作用を現すものとして真であると言うものもいるだろう。しかし思惟作用(という意識作用)そのものが真であるのではない。思惟されたものが真であるのだ。すなわち思想(の内容)が真であるのだ。例えばここに白紙があって、自分はこれを知覚する。知覚作用(という意識作用)がなければ色を知ることができないのは勿論だ。しかし知覚作用が色ではない。こういう区別を明白にしたのは、Bolzano,Wissenschaftslehre(1837)であるとのことだ。フッサールの「論理研究」の書も完全にこのような考えが基礎となっているようだ。それでは文章において真というのは、何物を真というのだろうか。単なる言語の結合としての文章に真偽の別がないことは明らかだ。文章において真たり偽たるものは、その意味だ。ならばこの意味とはなんであるか。この意味というものは、「有 」の範疇に属しないことは明らかだ。ある物が有る、ということは、すでに有という意味を仮定している(超越的対象とは、知識に客観性を与えるものである。前にも述べたように、"有る"ということは"意味の仮定"であり、意味の仮定は知識に客観性を与えることはできない=意味の仮定は超越的対象ではない)。あるいは有ということのできないものなら、何物も無いではないかという非難が起こるかもしれない。しかし有ではないある物がある。それは価値 Wertだ。意味とはこの価値の範囲に属するものでなければならない。価値ということと有ということの区別は、否定に対する関係によって明らかにすることができる。有の否定には一意義しかないが、価値の否定には二意義ある(よって価値と有は区別できる)。有の否定に対しては単に無と言い得るだけだが、価値の否定には「有に対する無というような“無価値”」と、「善に対する悪というような“無価値”」との二意義あるのだ。この標準によってみれば、意味というものはこの(善に対する悪というような意味での)価値の一種であることは言うまでもない。このようにして“知的作用を超越した認識の対象”は「価値」であることが明らかになった。すなわち外、超越的実在界に属せず、内、意識内容に属せず、完全に知的作用を超越した客観的価値界というものが建設されて、これによって知識の客観性が与えられるのだ。
 「認識の対象」においてはリッケルトもなお先験的心理学の(知的作用を分析した)方法を取ったのだから、右の対象(価値)を現すのに当為 Sollen(なすべきこと、あるべきこと。あること(存在)、あらざるをえないこと(自然必然性)に対する哲学用語)という語を用いているが、当為という語は要求、規範、規則などの語に似ていて、主観的色彩から脱することができない。「認識論の二途」において意義、価値などの語を用いて、(超越的対象の)客観的意義を明らかにしようとしたのは、純論理派の考えとしては一歩を進めたものと言わなければならない。先験的心理学では、我々の心内の経験であるEvidenzgefühl,Urteilsnotwendigkeit(証拠の感覚、判断の必要性=当為…こうであるべき?)ということを根拠として、これから意味とか価値とかいうもの(超越的対象)を仮定する。だがこの方法ではどのようにして、精神現象の中から超越的対象(意味とか価値)を見出し得るかを説明するのは困難だ。これに反し、(超越的対象をいきなり論じる)超越的論理学では、まずこの対象(意味、価値)が明らかになる。すると前に言ったような感情、すなわち内在的標準であるもの(証拠の感覚、判断の必要性=当為)が、精神現象でありながらしかも超個人的意義を有し、内在的でありながらしかも超越的意義を有することが明らかとなる。何故なら、意味とか価値とかいうもの(超越的対象)は、超越的であっても、我々がこれを理解する以上は、我々の知的作用は単なる主観的状態以上の意味がなければならないからだ(我々の知的作用には単なる主観的状態以上の、超越的な意味がなければ、そもそも意味とか価値とかいう超越的対象を理解できない)。この意味を現すものが、Evidenzgefühl(証拠の感覚?)というような内在的標準だ。ただしここで、(そもそも)どのようにして我々は超越的価値を知ることができるかという問題が起こってくるのだが、リッケルトはこの問題は認識論において不可解であると言っている。
 四、さて以上述べたところで認識の対象(価値)が明らかになったとすれば、こういう見方から認識作用とはどのようなものでなければならないかということが、自ずと明らかになってくると思う。前に言ったような超越的価値が我々の心内に内在的意味として現れたものが、純知識的当為だ。この当為(超越的価値)を是認するのが認識だ。すなわち認識作用とは価値(という当為)の是認であるということになってくるのだ。(つまり)我々の精神作用の中で、認識作用というべきものは判断の外にない。表象作用というようなことは認識ではないということになってくる。表象は経験的事実として皆同一の価値を持っている。表象に真とか偽とかいうことはない。ただ、表象作用がある超越的実在(物自体)を模写するものとして初めてその真偽を言い得るのだが、超越的実在というものが真偽を分かつ標準となることができないのはすでに論じたとおりだ。判断は全くこれと異なった精神作用だ。判断というのは本来真理を対象とした精神作用だ。このように考えて初めて判断という精神作用を理解することができるのだ。判断は単なる表象の関係とか結合とかいうことではない。これ以上に、ある物が加わらなければならない。すなわち単純な表象関係を疑問となし、これを肯定しまたは否定するところに判断の本質があるのだ。否定判断についてこの性質はすでにシグヴァルトによって注目されているが、肯定判断においても同じだ。肯定的判断において肯定の意識は心理的に現れていなくても、論理的にはその判断の意味の中に(肯定の意識が)含まれているというのだ。判断の問題は価値の問題だ。すなわち判断の対象は当為でなければならない。このようにして判断の肯定、否定の意義が解せられるのだ。
 右に言ったように、認識は価値の是認であって、判断が唯一の認識作用であり、そしてこの派(純論理派)ではこの作用(判断作用)の前に真知識というべきものがないのだから、我々の知識は判断によって知識となるのだ。知覚というようなものでも、単なる知覚だとまだ知識と言えないことになってくる。普通にある物の知覚といっていることはすでに判断によって形成された知覚だ。決して単純な知覚ではない。カントもこの点を明らかにしていないというのだ。それでは、判断はどのようにして知識を構成するのか。単なる知覚とか、表象とかいうものに何物を付加するのか。判断は知識の内容を与えるのではない。ただ知識の形式を与えるのだ。例えばある物があるといっても、この「ある」ということ(判断)はその物の内容に何物も加えない。「色がある」という判断について見ても、(意識内における)単純な色の表象も(外界に)存在する色の表象もその内容においては同一だ。ただ「ある」というExistenzialurteil(実存的判断?)の形式が判断をして判断たらしめるのだ。我々の意識の事実が判断の形式(範疇)に当てはまって、すなわちいわゆる範疇の中に入って、はじめて知識となるのだ。単なる意識の事実と知識との区別は、その内容が異なるによるのではなく、ただ(判断作用によって生じる形式に当てはまって)形成されているかいないかによるのだ。「この白紙」の単純な表象は知識ではない。「この紙は白い」という物と性質との関係を定める判断の形式(範疇)に当てはまって、知識となるのだ。我々が知るというのはこのような意味において意識内容を組み立てることだ。判断の形式とはすなわち、前に言った超越的当為(価値)であるから、これ(超越的当為)によって意識内容を構成するということ(により知識と)なるのだ。実在を知るということは実在の知識を構成することとなってくる。我々が知ろうとするのは単純な意識内容の事実ではなく、このようにして組織された統一(超越的対象)にあるのだ。これ(組織された統一、超越的対象)が前に言った認識の対象である当為であり、価値だ。
 終わりに上に述べた認識論の立場から、認識主観はどのようなものでなければならないか、すなわち前に言ったような超越的対象(価値)に対する主観はどのようなものであるかを一言しておかなければならない。この主観を明らかにすることは、これまで言ったことをなお一層明らかにすると思う。リッケルトに従えば主観と客観の対立は、三通りに分けられる。第一は自己の肉体と肉体外の物体界の対立。第二は自己の意識と意識外の超越界の対立。第三は自己の意識とその内容の対立だ。この三対立の中、第一の対立は認識論となんの関係もない。認識の対象が超越的でなければならない(自己の意識から超越したものでなければならない)と言えば、第二の対立の意味において、(客観は)我々の意識を超越した客観でなければならない。しかしその主観が心理的主観、すなわち我々の意識内容というようなものであったならば、第三の対立におけるように、更にこれ(心理的主観、意識内容)を内在的対象として見ることのできる主観、即ち真の主観と(心理的主観のことを)呼ぶことはできない。このような主観(心理的主観)に対してならば、超越的でなくても、我々の意識内容に属さない実在は、皆客観として対立することができるのだ。真の認識主観というものは、第三の対立においての主観の意味をどこまでも推し進めたものでなければならない。すなわちBewusstsein überhaupt(純粋統覚…カント哲学で、あらゆる経験に先立ち、それらの経験を可能にする、認識の究極的根拠としての自己意識)というようなものでなければならない。このようにして主観そのものの範囲が極小となる(主観の意味が第三の意味では純粋統覚となり、意識内容ではなくなる)と共に、全ての経験界が内在的対象(意識内容)としてこの主観(純粋統覚)に属することとなり、これとともにすべての内在界(意識界)を超越する超越界(上述した客観的価値界)の意義も明らかとなってくる。認識の超越的対象(価値)というものはいかなる意味においても内在的対象、すなわち意識内容となることができないものでなければならない。我々の知覚、感情、意志と関係するものであってはならない。リッケルトは知覚、感情、意志の心理的作用そのものも、認識主観(純粋統覚)から見ればすでに内在的対象(意識内容)であると言っている。前に認識対象は価値であるといったが、この価値の語を少しでも感情、意志と関係あるように見てはならない。純粋な理論的価値だ。純認識主観(純粋統覚)とは、内在的対象となり得るものはことごとく対象となし、どのようにしても対象となることができない最後の主観だ。即ちdas urteilende Bewusstsein überhaupt(?)である。
 五、以上は主としてリッケルトの説によって純論理派の主張の要点を述べたつもりだ。純論理派を叙述するなら、フッサールやコーヘンを十分に研究すべきはずだが、私の知るところではリッケルトとフッサールは大体において同一主義の人であり、特にリッケルトが近頃主張する超越的論理学において知的作用を超越する客観的価値界を説くあたり、ますますフッサールに近づき、フッサールよりなお一層明白にフッサールの言おうとするところを言い表しているのではないかと思われる。それだけでなく、リッケルトなどはカントから出ただけ、それだけ認識論的問題を明らかにしているようだ。コーヘンもカントから出て純論理派を主張しているのだが、氏が思惟と直覚の対立を打破し、純思惟を創造的となすあたりはむしろフィヒテ、ヘーゲルに似ていると思う。
 カントの主義を一層厳密に維持すると宣言するウィンデルバント、リッケルトなどと、カントの差異はどこにあるか。この派の人々の考えでは、古来哲学は知識の客観性を実在との一致に求めてきた。そしてこの事が前後顛倒(本末転倒)であるためその結果懐疑論に陥るほかなかった。独りカントに到って客観的知識の基礎を一般意識(純粋統覚)の統一に求めた。これは実にカントの批評法の特色で、認識論における千古の卓見であった。しかしカントにはなお独断論の残り物や心理派の混合物がある。物自体とか、与えられた感覚などということは、知識の客観性になんの関係もない。かえって後者(知識の客観性、超越的対象)によって前者(物自体、与えられた感覚)の客観性が与えられるのだ。transscendentale Aesthetik(超越的美学?)の前にtransscendentale Logik(超越的論理学?)がなければならない(この点はコーヘンなども同意見だ)。客観的知識というものがあるならば、それは必ず論理の範疇に当てはまったものでなければならない。それで、カントの問題であった数学、物理学の根拠というようなことよりも、極めて一般的な、「何らかの客観的知識があるならば」という単なる規範的知識の仮定から出立するのだ。それからカントでは、超経験的ではあるがなお自覚の統一というような事実を基礎としているが、この派では事実と真理を峻別し、もし真理を欲せば必ずこれ(真理)に従わなければならない手段となった。すなわちteleologischer Kritizismus(目的論的批判?)というような考えとなってくるのだ。しかしこれとともに、一方ではこの形式は完全に我々の知的作用を超越した客観的価値界に属するものとならねばならないのだ。


 一、以下に、少し上に述べた純論理派の議論と、厳密な意味において純粋経験から出立するものの考えを比べてみようと思う。純論理派では知識の客観性ということが議論の根拠となっている。もとよりこの客観性というのは普通の考えのように、外界の客観的実在との一致という意味ではない。単に我々に必然で、一般的妥当であるということだ。すなわち個人的主観を超越しているというのだ。純論理派ではこの特性によって知識と経験的事実を分かち、経験的事実からは知識の特性を説明することはできない、かえって経験的知識ということはすでにこの特性(知識の客観性=単に我々に必然で、一般的妥当であるという特性)を仮定していると考える。全て何らかの議論をなすには、まずこの特性を仮定しなければならない。これを疑うと言えば、疑いそのものがすでにこの特性を仮定しているというのだ。このようにして純論理派に特殊な立脚地と方法が出てくるわけだが、こういう出立点にはもはや何の議論を容れ得る余地はないのだろうか。
 右に言ったような知識の客観性ということは、これを純粋経験の事実として見れば一種の要求だ。詳しく言えば意識統一の要求とも言い得るだろう。しかし知識の客観性ということと、このようないわゆる心理的事実を同一視することは、純論理派が大いに反対するところだ。なぜならこのように考える時、真理は個人性、少なくとも人間性に従属することになり、真理の必然性、一般妥当性が失われてしまう。それだけでなく、このような考えは例のhysteron ptoteron(倒置法。本末転倒)に陥るのだ。それでは純論理派は心理的事実を離れてどこにこの知識の客観性を求めようとするのか。まずこの派の思想の根源であるカントについて考えてみよう。カントははじめて知識の客観性を外界的実在の模写に求めず、知識成立に関する主観の統一作用に求めたと言われている人だ。カントに従えば、我々の知識は外界から与えられた材料を純統覚(純粋統覚)において統一することにより成立するのだ(統覚…哲学で、知覚表象などの意識内容を自己の意識として総合し統一する作用)。この純統覚とは経験的統覚、すなわち心理学者のいわゆる統覚とは厳密に区別すべきものであって、経験成立のsine pua non(不可欠なもの)である。完全に先験的(本質上経験に先立つこと。経験と共にあるが、初めから理性に由来する普遍妥当性を持つこと)なものだ。このようにして知識の必然性、一般妥当性の説明はできるのだが、カントは知識の客観性ということを、たとえ超個人的であり先験的であっても、単なる主観の統一(純粋統覚)というようなものに求めたとは言われない。カントにはなお実在論的要素がある。統覚の形式である範疇は、感覚的経験に当てはまることによって、すなわち直覚の形式である時間、空間の根本条件として、客観的妥当性を有するのだ。カントの対象の考えは様々に解し得られるかもしれないが、主観の統一(純粋統覚)が対象を定めるのではなく、かえって対象が主観の統一(純粋統覚)を定めると見るのが真意だろう。だがウィンデルバントなどの目的観的批評論では、カントの感覚的要素の方面は完全に閑却され、規範的意識(当為)というものが唯一の客観性の維持者となった。しかし規範とか当為とかいうところに基礎をおいては、到底主観的意義を脱することができないので、リッケルトは「認識論の二途」において意味とか価値とかに客観性を求めるようになったのだ。
 それでは、カントだの、現今の純論理派の人々などは、果たして厳密な意味における純粋経験以外の基礎に立つことができたであろうか。これらの人々の基礎は、要求とか意識統一とかいうことと、完全にその類を異にしているものだろうか。私はこの事を論じる前に、まず厳密な意味における純粋経験の立場というものを明らかにしておかなければならない。純粋経験は心理的説明であると考えられている。しかし私の考えでは、いわゆる心理的説明にはその背後に多くの仮定がある。経験は個人的であって空間時間因果の範疇(形式)に当てはまったものというような独断が基となっているのだから、心理的と考えられるのも無理ならぬことではあるが、このような考えはすでに経験に若干の独断を加えたもので、真の純粋経験とは言われない。このような考えから出立すれば、hysteron proteron(本末転倒)に陥るのは当然だ。要求とか、意識統一とかいうことであっても、これを個人的性癖であるとか、連想の結果であるとか、ないしはSystem C(?)というようなものを基として説明するようでは、これらの事実とカントのいわゆる純統覚というようなものは違うものと言わなければならない。しかしすべての仮定や独断を離れ、経験そのものとして考えてみたならばどうであろうか。元々真に直接な経験そのものは雑多な要素の集合ではなく、(統一的或者の)自発自転的統一(体系的発展)だ。我々の純粋経験における要求といい、意識統一というのはこのような(自発自転的)統一であって、すなわち経験そのものの成立に欠くべからざるsine qua non(不可欠なもの)だ。カントが第一版の「純理批評」において概念における再認の総合を論じるところに、統一の意識によって雑多なもの、段々と直覚されたもの(西田が言う統一的或者)が一つの表象になるということを言っている。カントがこのように概念的知識について言っていることが、我々の欲求の成立などについても同じく言い得るのではないだろうか。純粋経験の立場から見れば、この事がすべて直覚成立の性質を言い表したものと見ることができないだろうか。もちろんカントをこのように解するのは異論があるだろう。第一版においては認識成立の心理的分析が著しく見えるが、カントは決してある一派の人々が考えたように、いわゆる心理的分析の上に議論を立てたのではない。第二版においてはカントは完全にこれらの説明を後にして、Verbindung(結合)という概念から出立している。結合の基には統一(統一的或物、動的一般者)がなければならない。この統一作用は我々がこれを意識していると否とに関せず、全ての知識はこれ(統一的或者)によって成立するのだ。現実の知識成立の基となるのみでなく、すべての可能的知識の基となるのだ。カントの純統覚は完全に論理的なものであることは疑いない。事実上の意識統一ではなく、いわゆる真理成立の条件だ。しかしこのような意味においても、純統覚は私の言うところの純粋経験の統一と完全にその立場を異にするものだろうか。我々の経験本来の形は活動だ。知覚のようなものすらも一種の無意識的理解と見ることも出来る。雑多な感覚というようなものは分析によって第二次的に作ったものに過ぎない。直接経験の世界は理解の世界、意味の世界だ。感受の世界、事実の世界ではない。純粋経験の統一というのはこのような(統一的或者の)内面的自動の統一(体系的発展)、すなわち意味的統一だ。我々はこの統一と合一することはできるが、これを意識対象とすることはできない。意識された統一(対象化された意識)は統一ではなく、すでに別個の意識だ。この統一(統一的或者の体系的発展)は時間空間因果の範疇によって限定されるべきものではなく、これら(時間空間因果)の範疇は後からこれ(意識内容=統一的或者の分化発展)を統一する一種の形式(範疇)に過ぎない。もちろん純粋経験と言えば経験として一面直覚的であり、現実的であるということから、カントの純統覚というようなものとその類を異にすると考えることも出来るだろう。現実と可能の区別は純粋経験では分かつことのできない両面だ。可能とは、その統一的方面(体系的発展の方面)を言うのだ。現実を離れた可能はなく、可能を離れた現実はないのだ。しかしこのような区別は一方(現実の方面)に経験を時間空間のような範疇によって分けるから、一方(可能の方面)にこれを結合する可能性の独立的存在が必要になってくるのだ。真に客観的なものは両者の統一だ。単なる可能はIdeen(イデア?)にすぎない。カントの統覚も統覚として知識構成の作用をなす。その理由は論理的可能であってしかも直覚的現実を離れないところにあるのだ。理解力の範疇が直覚の形式と結合するところに、知識の客観性を立することができるのだ。カントが客観的知識構成の統一作用として言った純統覚と、私のいうところの純粋経験の統一とは全然別物ではない。純統覚は純粋経験の一種とみなすことができる。純粋経験の統一はカントのいわゆる純統覚に限らない。カントもアンチノミー(二律背反)の終わりにおいて自由と自然的必然を結合しようとするところに、行為を両方面から見ることができ、この両方面の統一が互いに矛盾しないと言っている。ただしカントは時間空間を経験本来の形式と考え、範疇もこの(時間空間という)形式との関係において客観性を得ることができると考えていたから、自然的因果だけが唯一の経験の形式となり、理性の命令的因果は単なる概念となったのである。しかし時間空間が経験本来の形式であるという考えを除去してみれば、必然も一つの当為であって、こういう区別は無くなってしまう。実際、純粋経験の形は発展的だ。いわゆる具体的理念というべきものであって、その直接の統一は当為だ。ただ、純統覚、すなわち理解力の統一は、完全に経験の内容を離れたもっとも一般的な根本的形式であるということにおいて、他の経験統一と区別することができるようではあるが、元々具体的な純粋経験はさまざまな方面から統一することができるので、その一つを最根本的と定めることはできない。例えば、円錐形はその見方によって三角とも見え円とも見え、あるいは楕円にも見えるかもしれないが、そのいずれも根本的とは言われない。一般と特殊との関係は、統一の中心と方向によって変わってくる。すなわち系統の定め方によるのであると思う。例えば一つの建物であっても、形を主として見れば用は特殊となるだろうが、用を主として見れば形は特殊と言い得るようなものだ。内容と形式の区別のようなものも、絶対的にどれを内容とし、どれを形式と定めることはできまいと思う。純論理派の人々は判断を経験の唯一の統一作用とするから、論理的範疇というようなものが最根本的形式となるのである。
 二、以上カントについての議論が主となったようであるが、ウィンデルバントの規範的意識、リッケルトの価値についてみても、同様の論を立て得るだろうと思う。純粋経験の統一は当為だ。規範だ。規範とか当為とかいうことは意味の要求であり、すなわち我々に最も直接な何らの仮定なき経験の自発的傾向だ。リッケルトが近頃、完全に主観的認識作用を除去して、単なる価値から出立しなければならないというのは、一方から見れば、一層純粋経験の立場に近づくものと見ることができる。純粋経験の世界は価値の世界である。意味とか価値とかいうのが経験の直接状態であり、ある主観がこれを知るというようなことは後から付加した考えであると思う。カントが経験的統覚に反して純統覚を明らかにし、リッケルトが先験的心理学から先験的論理学に転じたのは、かえって純粋経験の自発の真面目に到ったものと見ることができる。厳密な意味の純粋経験説といわゆる純論理派が相容れないのは、経験と統覚の根本的相違にあるのではなく、経験は雑多な材料であるとか、時間空間によって限定されたものであるとかいうような、純論理派の独断的仮定によるのだ。純粋経験の立場から見れば純統覚というようなものも一種の経験統一だ。実用主義の人々が軽視するにもかかわらず、私はいわゆる純統覚によって構成された知識とかいうようなものは経験の一面の統一であり、一面の意味であると思う。ただ、これ(知識)をもって経験の唯一の統一となし、すべて経験は知識によって成立するというような考えには一致することはできないのだ。もちろん、リッケルトのように論理的範疇によって経験されないものは経験と言われないと言えば、議論は単に名称上のこととなるのだが、論理的判断の加わらない前にすでに直観的或者(統一的或者)があるではないか。リッケルトはこれをdas Ursprüngliche, das Bekannteste(最もよく知られるオリジナル?)として不可解であるとしている。この者(直観的或者)が論理的に不可解であることは言うまでもないことだが、論理的に不可解であるから、混沌たる雑多であってすべての意味において無意味とは言われまい。我々の具体的生活は論理的にその根本を理解することはできないかもしれないが、意、意と相触れ、情、情と相応じ、知情意未分以前の経験の具体的体系を有するものとするならば、理解以前の理解ということもあり得るではないだろうか。これも、それは認識ではないから認識論の範囲外であると言ってしまえばそれまでのことだが、仮にもこのような根本的直観があるとすれば、これ(根本的直観)と論理的理解の関係を十分に考究する必要はないだろうか。いわゆる純論理派はこの点に対してあまりに独断的であると思う。
 もちろん、上に論じたようにいわゆる純統覚を純粋経験の統一の一種と見なし、純粋経験を以って認識論を始めるというのは、純論理派の立場から様々な非難が起こるだろう。このような考えがどのようにして知識の客観性を維持することができるかとか、またこのような考えも知識である以上は、すでに論理的規範を仮定しているではないかというような議論が起ころうであろうと思う。しかし経験から知識の客観性、すなわち一般妥当性を説明することができないというのは、経験を時間空間等の形式に当てはまったものと考えて後のことではあるまいか。客観的ということを一般的妥当の意味に解するならば、直接経験はすべてある意味においてこのような要求を持っているのではないだろうか。このような要求、すなわち当為、言い換えれば何らかの意味がなくては、経験は成立することができないのだ。具体的事実としての直接経験は我々が見る色、聞く音も、皆意味を持っている。すなわち一種の当為に基づいている。ましてや意志、感情などはいうまでもないのだ。このような一種の要求(当為)を基としてこれから経験を統一していけば、この統一的中心(要求=当為)は被統一者(知識など)に対して客観的となり、一般的妥当となるのだ。どのような内容の目的であっても、各自の範囲において一体系の中心として、ウィンデルバントの言うような規範的意識となることができるのではないだろうか。独り論理の要求だけが超越的ではない、全ての要求はそれぞれの意味において超越的だ(意味を持っている)。問題はただ、どれが根本的であるかということにすぎない。私の考えでは前にも言ったように、経験の真の中心は論理的要求にあるのではない。かえって我々の思慮を超越する自発自転的経験の具体的統一(統一的或者の自発自転的な体系的発展)にあると思う。この点から見て、純論理的統一はカントの言う様に単なる主観的なものとも言える。カントが範疇の客観性を経験的材料との合一に求めたのは、かえって深い意味のある事と思う。ただ、カントの言う様に形式と材料が合一したところに客観性があるのではなく、この両者の未分以前に(客観性が)あるのだ。
 次にどのような知識もすでに論理的規範を仮定しているという議論について純粋経験の立場からの考えを述べてみよう。リッケルトなどでは直接経験の事実ということはKategorie der Gegebenheit(状況のカテゴリー?)に当てはまって初めて認識となるという。例えば現前の色覚は「この色がある」という判断の形になって初めて認識となるという。このような考えは極めて深く鋭い考えではあるが、元々、経験の直接状態(純粋経験、この場合現前の色覚)というものがあってKategorie der Gegebenheit(という範疇)があるのか。それとも、この範疇(Kategorie der Gegebenheit)があってこの状態(純粋経験、この場合現前の色覚)があるのか。意識がなければ論理的範疇が現れないと言い得るだろうが、論理的範疇がなくても意識があるということは、前に言ったように、リッケルトなどでも許している。もしこのように考えるならば、意識は範疇以外に立つものであるということができる。「ある」というのはすでに論理的範疇であると言うかもしれないが、意識するということはとにかく範疇的「有」の以前になければならない。このdas Vorbegriffliche(前段階の概念?、この場合意識するということ)は私が主張するように、統一的、発展的なものだ。範疇は意識以外に別の根源を有するのではなく、この中(?)に含蓄的なもの(統一的或者)が発展につれて、顕現的となってくるのではないだろうか。例えばKategorie der Einheit(単一のカテゴリー?)について言えば、直観は即ち統一だ。リッケルトはこのような統一を考えることはできない。ただ体験し得るのみだ。そして我々がこれを体験するという時、すでにこの統一を破ると言っている。しかしこのように反省することのできない、思惟の対象とならない直接な活動的統一を反省して、いわゆる統一の範疇が出てくるのではないだろうか。カントがすべての範疇の本であるからといって、統一の範疇から区別して純統覚の統一を説いているところにも、このような面影がある。すべての範疇はこのようにして出来るものではないだろうか。意識内容が範疇に当てはまって客観的知識となるというのも、すでに直接経験の中に含まれている意味が別個の意識として現れ来るということではないだろうか。経験と思惟を厳密に区別する人もあるが、経験ということを一種の意味に限ればとにかく、全ての経験を離れた純粋思惟というものがあるのだろうか。経験それ自身の転化合一(分化発展)というものがなかったなら、思想の三法則というようなものも出てくるのだろうか。Vernunftschluss(理性の結論?)の無限の進行というようなものも、デデキントが数の無限ということを体系が体系を写すということによって定義したように、自覚の事実に基づいて自ら証明できるのではないだろうか。経験の発展なくして思惟の発展があり得るだろうか。経験の発展なくして思惟の発展があり得るのだろうか。もちろん右のような議論に対しては、純論理派の方からは、これは意味と事実を混同したものだという反対が起こるだろう。リッケルトは白色の知覚作用は白にあらず、理解作用は真にあらずと言っている。しかしこのような作用というのは直接経験を離れて作為された概念ではないだろうか。私が今言った転化とか統一とか自覚とかいうのは、このように心理的作用として考えられたものを言うのではない。ただ直接自証の事実を言うのだ。この自動的現実を離れて意味も理想もないというのだ。思惟の内容と作用が分かれるのは分析の結果、作為されたものを見るからだ。思惟は真に思惟の経験に純一になることによってその発展を見ることができる。数学者は直覚的曲線にはすべて接線があるはずであるが、厳密な分析では接線のないものがあるという。しかし前者は後者の象徴にすぎない。両者(直覚と分析)は別個の経験だ。分析は一種の内面生活に純一になることによって徹底的となるのである。
                        (明治四十四年八月)

論理の理解と数理の理解


 我々が「分かる」とか「分からない」とかいうのに様々な意味があることは明らかだ。このように(「分かる」「分からない」と)異なった意味のことを一つの語で表すのは語の不精密であると言えばそれまでのことだが、そこには何か深い根底があるのではないだろうか。私は様々な意味における理解の関係を論じてみたいのだが、ここにはまず論理の理解と数理の理解との関係について考えてみようと思う。
 理解とはどのような事か。最も厳密な意義において理解ということができるのは論理的理解だろう。普通に論理的理解と言えば、特殊なものを一般なものの中に包摂する事である。いわゆる推論式(=三段論法…論理学で、大前提・小前提および結論からなる間接推理による推論式。例えば、「人間は死ぬ」(大前提)、「ソクラテスは人間である」(小前提)、故に「ソクラテスは死ぬ」(結論)の類)とはこの形式だ。しかしこのように包摂するということは単に過去の経験を想起し、これを繰り返すということではない。我々は推論式によって、大前提の中に含まれている過去の記憶を引き出すのではない(経験の繰り返しではない)。経験の単なる繰り返しは何らの知識を構成せず、また何らの理解を与えるものでもない。再認というようなことすらすでに経験の単なる繰り返しではないのだ。我々の論理的推論というのはいつでも一般から特殊に行くことだ。すなわち一般的なもの(西田が言う統一的或者、動的一般者)が内から必然的に己自身を発展することだ。論理学者が推論の根底に体系があるというのはこれによるのだ(推論は統一的或者の体系的発展だ)。これ(統一的或者の体系的発展)によって我々の知識は証明を得、我々は理解し得たというのだ。
 私の右のようにすべて論理的理解ということは、一般的なる或物(統一的或者)の内面的発展である、すなわち一種の想像作用と考えることができないかと思う。ここで一般的と言うのは普通のいわゆる抽象的一般(言葉や数字によって抽象されたもの)の意義ではない。一種の内面的想像力(統一的或者)をいうのだ。この考えを明らかにするため、まず最も純粋な論理的理解である思想の三法則の理解というようなものについて考えてみよう。もちろんこのような法則は理解の約束とするべきものであって、これを理解すべきものではないという考えもあるかもしれないが、とにかく我々は自同律のようなものを自明の真理として、これについて論理的確信を有し、かつこれと他の二法則との間にも論理的必然の関係があることを理解するのだ。これらの確信、理解は何を意味するのだろうか。普通の論理学によれば、自同律とは「すべて物は己自身に同一である」ということである。この命題は様々な意義に解せられるのだが、まずこれを物の実在的同一を言い表した形而上学的原則の意義に解してみよう。この意義において物が己自身に同一であるというのは、物はいかに変化するも物自身においては同一であるという意義でなければならない。このように解することにおいてのみ、右の命題は実在の原則として意味を有するのだ。何らの意味においても絶対に変化を排斥する自己同一は実在の原則としては何らの意味も持つことはできない。「甲は甲である」というようなことは論理の原則としてはいくらか意味を有し得るかもしれないが、実在の原則としては完全に無意義だ。物は種々の関係に入ってしかも己自身を維持するところにその実在性を有するのだ。絶対的に単一であって何らの関係に入り込まないものは、抽象的思惟においてはあるいは単に「彼」として指示し得るかもしれないが、何らの実在性を付与することはできないのだ。このように考えてみると、物の実在的同一ということは単なる同一の意義ではなく、とどのつまり内面的必然の意義でなければならない。真の実在はそれ自身に内面的必然を持ったものでなければならない。デカルトのsubstance(実体)がライプニッツのmonad(モナド)となって来ったのも、このような論理的必然の経路を進んだのだ。もちろん自同律の真の意義は形而上学的ではなく、論理的でなければならないと言い得るだろう。それでは、論理的思惟の原則として自同律はどのような意義でなければならないか。「甲は甲である」ということが単に同語反復に過ぎないならば何らの理解すべき意義もなく、また論理の原則としても何らの力を持つことも出来まい。シグヴァルトはこの原則を解して、観念内容の不変に基づく一致の原則と見ようとしている。しかし観念の内容を固定するということはこれ(内容)を抽象することで、すなわち同時にこれ(内容)を一般化することであるとも言い得るだろう。少なくともこれ(内容)に種々の思惟の内容となり得る一般性を与えることだ。判断の基となる観念内容の一致ということは、このような一般性(抽象化、一般化)によって成立するのだ。論理の原則として自同律の真意義はむしろ、観念内容の不変的固定を言い表したものと見なければならないと思う。そして論理的に観念の内容を固定するということは前にも言ったようにこれ(観念の内容)を一般化すること(抽象すること)であって、ある観念の内容が論理的に己自身に同一であるということは、その一般性を意味することとなる。そして一般的なものは自動的なものであって、一面において自己同一であると共に一面において分化発展を意味しているのだから(一般的なもの=統一的或者であり、統一的或者は己自信を体系的に発展させるものてあるという意味)、「甲は甲である」という論理的自同律はこのような一般的なものの内面的発展性を言い表したものとして、論理的自明性を要求し、論理的理解の原則となることができるのだ※。もちろんこのような一般的なものをそれ自身において発展的と考えることについては種々の異論もある事だろう。(一般的なものとされる)論理的意味というようなものは我々の特殊な経験(個別的経験)を超越し、それ自身において同一不変なものと考えることも出来る。しかし完全に特殊を拒絶し、特殊と対立する一般(それ自信に同一不変な一般)はかえって一つの特殊に過ぎない。真に一般なものは特殊なものの内面的構成力でなければならない。判断はこのような一般者(真に一般的なもの=統一的或者)の分化作用だ。「甲は甲である」という判断は一方において向自作用(自己同一)であると共に、一方において向他作用(分化発展)だ。あるいは論理的意味を判断作用から離し、事実的判断とは完全に関係ない意味の世界に属するものと考える人もあるが、意味の世界は我々の判断作用に対する当為の世界としてその意味を有するのだ。そうでなければ完全に我々と没交渉(無関係)だ。以上論じたように論理的自同律の意義を一般的なものの内面的発展の要求と解し得るならば、前に述べた物の自己同一という形而上学的自同律の意義(物はいかに変化するも物自身においては同一であるという意義)も同一の要求(一般的なものの=統一的或者の分化発展の要求)に基づくものということができるだろう。(形而上学的な意味での)実在的同一ということは論理的同一の発展したもの見ることができると思う。
 自同律の意義及びこれに対する我々の論理的理解を以上論じたように解釈するならば、これ(自同律)と他の二法則の関係に対する論理的理解についてはどのように考えるか。私はこの理解を明らかにすることによって、一層右に述べた理解は一般的なものの内面的発展であるということの意義を明らかにすることができると思う。まず矛盾律とはどのようなことか。アリストテレスが言った本来の意義では「同一のものに同一のものを同一の関係において肯定するとともに否定するを得ず」ということであるという。シグヴァルトなどは単にこれを自同律の補充と見て、自同律と同じく観念内容の不変を言い表したものとしている。しかし全然同一のものならば、別の法則として何らの意味を持たないこととなるが、私は自己を肯定する自同律に対し、その他面に含まれている自他の区別を表すものとして、この法則が特殊な意味を持っていると思う。それでは甲を甲として肯定することと(自同律)、これを非甲と区別すること(矛盾律)はどのようにして同一の思想と考えられるのであるか。甲と非甲を区別するには、この二者を統一する一般者(統一的或者、動的一般者)がなければならない。この一般者の統一において両者の区別、両者の対峙が成立するのだ。これに反し、甲を甲とするということは、上に言ったように、これ(甲)を一般化すること、すなわち様々な対峙を内から統一すること(抽象化すること)であって、一方においては(非甲というように)区別することだ。厳密に言えば、論理的に物を区別するということはすなわち統一することで、これを統一するということはすなわち区別するということだ。論理的一般者(統一的或者、動的一般者と同義…?)は一方において個物相互の排斥であると共に、一方において個物相互の牽引だ。このようなそれ自身における矛盾が論理的一般者の内面的性質であって、また論理的理解の真相であるということができる。普通の論理学のいわゆる排中律(二つの相矛盾する命題のどちらかに真理が存することをいう。その形式は「AはBであるか、Bではないかのどちらかである」)というのがこのような動的一般者(論理的一般者)の内面的必然の作用を最もよく明らかにしたものではないだろうか。甲か非甲か中間者を許さないということは、かえってこれらの関係(甲と非甲の関係)を超越し、しかもこれらの関係を成立させる第三者(動的一般者=統一的或者、論理的一般者)によって言い得るのだ。動的な真の一般者は思惟の対象となることはできない。これ(一般者、統一的或者)を思惟の対象として思惟の範疇の中に当てはめようとすれば、矛盾に陥る。このように自ら矛盾なるが故によく動的であるのだ。以上の論証は不十分ではあるが、いわゆる思想の三法則も、またこれらの法則相互の必然的関係も、右のような動的一般者の内面的発展ということによって理解し得ると思う。


 以上論理的理解の性質について論じたから、これから数学上の理解及びこれと論理的理解との関係について論じてみようと思う。数学と論理学の関係については、近時、ラッスセル、クーチェラなどのように、数学を厳密に純論理学的仮定から導き出そうとする人々に対し、一方にはポアンカレのように有力な反対者がある。ポアンカレによれば、アリストテレス以来のいわゆる論理学は純分析的で、何らの新知識を与えるものではない。つまり自同律の外に出ることはできない。完全に同語反復だ。だが数学はこれに反し純分析的とは言われない。数学的帰納法においてのように、特殊から一般に進む(帰納法…観察された事実やデータ等の具体的な事実から、一般的な法則を導き出す等、「特殊なケースから一般的な結論を推論する手法」)。しかもこれは経験によるのではない。ここには一種の精神的想像力がなければならない。氏に従えば、この力(精神的想像力)というのは"我々の精神が同一の働きを無限に繰り返し得ると自覚する力"である。氏は数理の根拠をこの(上記の自覚の力の)直覚に求め、ラッスセル等の論理的数学論に反対し、ラッスセルの命題論理学はet, ou(and, or)というような接続詞を入れ、大いに論理から数理を説くのに便宜ならしめたると共に、すでに従来の論理学の範囲を超えていると言っている。しかしこの問題については、リッケルトが「ロゴス」第二巻大一冊に掲げた「一者、統一、及び一」と題する論文において、数の概念を得るには純論理的概念にどのような非論理的要素を加えねばならないかということを詳論しているから、以下に少しリッケルトの説によって考えてみようと思う。リッケルトはまず純論理的思惟の対象として、単に思惟の対象というだけで、内容的には完全に不定な或物、すなわち一者を挙げ、次にこれ(一者)に対して論理的必然に考えねばならない対立者、すなわち他者を加え、終わりにこの二者を総合統一する統一者を考え、これだけが我々の思惟そのものの性質に基づく純論理的対象であるが、これ以上のものはすべて非論理的である。そして数の概念が右の純論理的概念から導き得るかというと、決してそう考えることはできない。純論理的対象の一者と数の一は完全に異なった概念である。ただ、一者と他者がその性質的対立を失い、自由にその位置を交換し得るということによって、1=1という方程式が出てくるのである。しかしこのような位置の自由交換ということは決して純論理的概念から導き出すことはできない。論理的である「異質的媒介者」に代わる、「同質的媒介者」によってはじめて可能である。このような(ある物と他を結合する)媒介者の同質性が数の概念の成立に必要な非論理的要素であると言っている。
 リッケルトの説について専門的数学家はどのように考えるか知らないが、まず氏の説によれば右に言う様に、同質性ということが数の概念の基礎となる。これ(同質性)がすなわち、数学的知識において私が前に言ったような理解の基となる一般者(統一的或者)となる訳だ。リッケルトの同質性というのは、ポアンカレのいわゆる無限の繰り返しの可能の基礎となるもの(=統一的或者)と解することができるだろう。それではこのような同質性の数学的一般者とはどのようなものであるか。これと異質性の論理的一般者との関係はどのようなものであろうだろうか。リッケルトの言う様に、純論理的思惟の対象と数は別物であって、純論理的概念である一者、他者、統一(者)から数の概念を導き出すことはできず、またポアンカレの言う様に、数学は単に自同律の外に出でずと考えられている従来の論理学とその基礎を異にするものであることは、何人も異論はあるまい。しかしここで問題となるのは、論理的推論というものが、果たしてポアンカレの言う様に、自同律の外に出でずと解すべきものなのだろうか。また純論理的区別の基である異質性と数の概念の基となる同質性とは、リッケルトの言う様に、全然無関係なものなのだろうか。かえって異質性の一面には何らかの同質性があるのではないだろうか。これらの人々のように思惟を完全に抽象的(一般化するもの)と見なすのが思惟の完全な見解なのだろうか。すなわち議論は論理的思惟をどのように見るかという議論となってくるのだ。リッケルトは一者すなわち同一者は己自身に同じものであって、論理的には他者とその位置を交換することはできない。ある物はある物であって他物となることのできないところに、純論理的区別の意味があるというのだが、内容的に完全に不定な(内容がない)、単なる論理的対象というべきある物(上述の、単に「彼(または甲乙)」と指示されるだけのもの。)は他物と区別することはできまい。両者(甲と非甲=乙)の区別はただ、甲から乙を見るか、乙から甲を見るかという、見方の相違があるのみだ。氏は甲を甲としてこれ(甲)から乙を見るというThesis, Heterothesis(?)の一面の見方のみを考えているようだが、この見方の裏面にはこの関係を翻し得る(非甲=乙から甲を見る)という反面(反対)の見方が含まれているのではないだろうか。物を他と区別するにはこの二者を統一する一般者がなければならない。この一般者は甲を乙から区別するように、乙を甲から区別するのだ。もちろん、このような論理的媒介者と数の基である同質的媒介者を同一視してはいけないことはリッケルトも詳論しているが、この二者はどのような点において異なっているだろうか。
 リッケルトも言っているように、「一」が数となり得るには、単に他の「一」に等しいということのみでなく、この二つの「一」が結合して「二」を作るということがなければならない。すなわち1=1のみならず、1+1=2でなければならない。数学的媒介者、すなわちポアンカレのいわゆる直覚の特色は、系列を作るにあるのだ。そしてこの系列を作るというのは我々の想像力の働きであるということができるだろう。想像力というのは「観念を配列してその全体の上において新たな直観的統一を見出す力」である。「一」を連続的に考えその全体において新たな統一の意味を見出す系列の考えは、このような想像力によって成り立つものと考えねばならない。カントが数を"想像力の所生である図式"の一つとして考えたのもこれ(想像力)によるのだろう。それでは、もし数の概念の基である同質的媒介者の性質及び成立がこのようなものであるとするなら(我々の想像力により系列を作る物であるとするなら)、これによって異質的な論理的媒介者と(同質的媒介者を)根本的に区別することができるだろうか。私が前に言ったように論理的理解というのは、一般的なるもの(統一的或者)が己自身を発展することだ。自同律の理解のようなものすらこのように(統一的或者の発展したものと)考えることができるのだ。論理的理解の真の形式は、一般的なものが無限の(系)列において己自身を発展し限定していくことだ。一般的なものが己を限定するということは、更にこの者(限定されたもの)が己を限定し得るということを意味している(たとえば、私は人間だ。人間は、動物だ。動物は、生き物だ…と無限に続く)。真の動的一般者(統一的或者)はそれ自身に無限の進行ということを含んでいる。(無限の進行という)生産的想像力というのがむしろ思惟の真相であって、この点において普通の形式論理学よりも、数学の方が一層よくこの形式(無限の進行という形式)を現していると見ることができる。
 我々の意識内容はすべて、それ自身の性質によって他と区別し、己を発展していくのである。ベルグソンが「変化の知覚」において言っているように、もし我々の直覚が無限の力を持っているものならば、我々は理解の力を要しないだろう。しかしこのような(統一的或者による)自発自転的意識の体系の矛盾衝突から、これらを統一するいわゆる関係の意識(意味、判断)というものが出てくる。そしてこの意識の方面(関係の意識の方面)を極端まで進めていったものが、完全に無内容な対象の意識、すなわちいわゆる論理的意識となるのだ。しかしこのような論理的意識といっても、右に言ったような、自らの内容によって発展する直覚的意識と絶対的にその性質を異にしたものではない。完全に無内容ならば意識として成り立つことはできない。論理的意識は単に対象となり得ること、すなわち「ある物(彼)」ということを内容として発展するのだ。普通の倫理学も数学もこのような同じ意識(単に対象となり得る「ある物」を内容とした意識)の発展によって創造されるものではないだろうか。
 それでは純論理的対象である、ある物(彼)の意識はどのように己自身を発展するのだろうか。単なる「ある物はある物である」という自己同一の考えからは、他物ということすら導き出すことはできない。nicht identitätとAmdersheit oder Verschiedenheit(?)は同一でないことは明らかだ。しかし肯定の裏面には否定がなければならない。ある物を肯定することはこれを他から否定することであって、すなわち他物を許さねばならない。このようにしてリッケルトの言う様に一者、及び他者ができ、これを結合する統一が発展してくる。リッケルトはここまでは純論理的であるが、これ以上は非論理的であって、結合の媒介者が異なってくるという。しかしここで考えて見なければならないことは、この論理的媒介者、すなわち統一とはどのようなことであるかということだ。すべて判断の根底には直観的統一(統一的或者)があって、判断はこの(直観的)統一を分析することによって成立するのだ。いわゆる純形式的判断(無内容な純論理的判断)においても同様だ。リッケルトも、Thesis und Heterothesis sind nur durch Analysis der ursprünglichen Synthesis begrifflich isolierte Momente des Logischen(?)と言っている。このような無内容な純形式的判断の基である統一は、リッケルトの言う様に異質性と考えねばならないのだろうか。異質性とか、一者と他者とその位置を交換できないとかいうことは、すでにいくらかの性質的内容を考えた上でのことではないだろうか。完全に無内容なある物は、上に言ったように(同質的媒介者のように)一者と他者を翻し得るものだ。一者から他者を区別する見方は直ちに他者から一者を区別する見方だ。ヘーゲルはこの二者の関係を論じて、二者ともにunmittelbar Daseyendeすなわちetwas(何か?)であって、また各々が他となることができる。ラテン語では両者が同一文章にあらわるときは、共にaluidという語を用いると言っている。このような無内容な純論理的対象の交互的対立(たとえば、甲と乙)を結合する統一(媒介者)はかえって(異質性ではなく)同質性と考えねばならないのではないだろうか。そしてこのような対立(無内容な純論理的対象、例えば甲と乙の対立)の関係はすなわち1+1=2の関係だ。私の考えでは、一者と他者との分析の基となる統一(異質的媒介者)と、1+1=2の基である同質的媒介者は同一である。ただ、論理的見方はこの関係を分析し、ある者から他物を、また他者からある者を見る抽象的見方(一般化した見方)であって、数理的見方はこの関係の全体を直観する具体的見方であると思う。論理学のいわゆる排中律はすでにこの交互的対立の関係を現しているのだが、数学の1+1=2はこの関係の直観的全体と見ることができる。リッケルトなどの考えからすれば、後者(同質的媒介者)においては例えばカントの想像力の図式といったような、非論理的要素が加わってこなければならないのだが、氏が純論理的と言っている一者と他者との関係の基に、すでに直観的統一(関係の全体の直観)が含まれているのではないだろうか。思惟(論理)と想像(数理)を完全に独立の作用とみるのが普通の考えであるが、私の考えでは動的一般者(統一的或者)が己自身を発展する上において、その具体的全体の意識が想像であって、その部分的関係の意識が思惟である。すなわち(想像作用、思惟作用)共に同一作用の異なる方面に過ぎないと思うのだ。いわゆる純形式的思惟(純論理的判断)というものにもその他面には想像作用が含まれている。リッケルトのいわゆる統一がすなわちそれだ。この統一の真相、すなわち具体的発展が数の関係を生じるのだ。動的一般者(統一的或者)の発展の過程は、まず全体(統一的或者)が含蓄的に現れ、これから分裂対峙の状態に移り、また、元の全体に還り来って、ここにその具体的真相を明らかにするのである。ヘーゲルの言う様にan sich(即自…ヘーゲル弁証法で、事物の弁証法的発展の第一段階を示す用語。発展の要素をすべて潜在的に含みながら、なお未発展の状態にとどまっている段階)からfür sich(対自…事物の弁証法的発展の第二段階を示す用語。内在する矛盾・対立によって自己と他者に分裂し、この他者との対立において自己を自覚する段階)に移り、それからまたan und für sich(即自かつ対自。事物の弁証法的発展の第三段階を示す用語。an sichの段階から、他者との対立において自己を自覚するfür sichの段階に発展し、さらにこの対立が統一されて一段高い状態に止揚された段階)となるのである。芸術家の創作的作用について見ても、始め一種の衝動的感情が起こり、これから右一歩、左一歩と段々とその具体的全形が発展するのだ。戯曲家オットー・ルードキッヒは自分が何か一つの捜索を企てる場合には、まず一種の音楽的情操が起こり、それから様々な形象が発展してくる。しかもその発展の過程はまずいずれか一つの、必ずしも重要でない形象が現れ来り、これによってあるいは前に、あるいは後ろに発展して、ついにその全体を形成するに至ると言っている。すべて動的一般者(統一的或者)の発展、すなわち我々の精神的想像力の作用はこのような形式を取るものであると思う。純論理的対象である「ある物」を内容とするいわゆる形式的精神の創造的発展(純形式的思惟)もこの例に漏れないのだ。一者と他者との関係はfür sich(即自)の形であって、1+1=2はan und für sich(即自かつ対自)の形と見ることはできないだろうか。多くの人は空間と時間の同質性から数の直観性を論じようとするが、後者(数の直観性=精神的想像力)がかえって前者(空間と時間の同質性)の基となるので、前者が後者の基となるのではない。数の直観性は(時間空間の同質性よりも)なお一層深い根拠を持っているものと思う。リッケルトはundとplusの相違を論じているが、undというのはある物から他物に移る抽象的な一面の関係であって、plusというのはこのような関係(抽象的一面の関係)の基となる具体的全体の直観だ。このような直観がなければ、一者と他者を翻えすことはできない。後者は前者のtotum simul(全体同時?)である。
 次に純論理的対象である「ある物」の意識から、どのようにして数学における無限の系列の考えを発展し来るかについて考えてみよう。無限の系列ということはいわゆる直覚によって与えられるものではない。時間空間の無限というのも(時間空間の)直覚の形式に理性(思惟)の無限な総合を当てはめて生じるものだ。無限の性質は思惟の中に求めなくてはならないことは明らかだ。それでは、思惟の中にはどのような無限の意味を具しているのか。無限とは単に有限の否定ではない。すなわち単にdas Endlose(果てしない?)ではない。このような無限はヘーゲルのいわゆるschlechte oder negative Unendlichkeit(?)であって、かえって有限であるとも言える。真に無限なものは己自身の中に変化の動機を蔵しているものだ。すなわち己自身にて分化発展するもの(統一的或者)だ。ヘーゲルの語を以って言えば、他との区別を自己の中にaufheben(止揚…幾つかの矛盾・対立する事象、立場を合わせ調整し、より望まれる状態へ導くこと)している独立者、すなわちdas Fursichseiende(?)である。しかしロイスはヘーゲルの無限の定義をなお不精確であるとし、数学者のカントルやデデキントなどの考えを以って無限に関する最も明も明晰な定義と考えている。デデキントによれば、ある体系が自分の中に自分を写し得る時に無限である。すなわちロイスのいわゆる自己代表的体系(自己のなかに自己を写し得る体系)が無限である。それではどのようなものがこのような自己代表的体系であるのか。ヘーゲルが「我」というものをFursichsein(向自有…「それ自体で存在する」ということ)の一例としたように、デデキントも「自分の思想の対象となり得る自分の思想界は無限である」と言っている。すなわち、ある物が自分の思想の対象となることができるという思想は、また自分の思想界に属するのだ。我々は我々の反省的意識において、“自己を思惟の対象とすること”を、また自己の思惟の対象とすることができる。このようにして、あたかも鏡の間に映じる影のように、またロイスが挙げている“英国にいて英国の完全な地図をひく例(自覚に於ける直観と反省を参照)”のように無限に進んで行くのだ。ここにいわゆる無限の真相がある。時間、空間の無限というようなことも、このような思惟の無限性によるのだ。カントは宇宙的理念の起源をある条件によって与えられたものに対し、条件の上に条件を定め、ついにその絶対的条件を要求する理性の要求に帰した(カントは宇宙的理念の起源を理性の要求に帰した)。この要求の基もここ(思惟の無限性)にあるのだろう。そして思惟の無限性ということは、“妥当(当為)の意識としての思惟の性質(真理の意識)”からも明らかだ。思惟というのは単なる表象の意識ではない。妥当の意識だ。すなわち真理の意識だ。真理の意識というのは、ボルツァーノが言ったように、ある命題が真理であるということは、(次の命題において?)この命題が真理であることを含む。このようにしてまた無限に進むことができるのである(たとえば、これは動物だ。動物ということは生きている。生きているということは…と無限に進行する)。すなわち真理の意識、妥当の意識である思惟は、それ自身において右に言ったような意味の“無限性”を含んでいると言わなければならない。そしてこのように妥当の意識としての思惟が無限性を含んでいるように、一般の意識としての思惟もまた無限性を含んでいるということができるだろう。一般の意識(例えば「木」と言われれば、一般的に皆同じものを想像する)はすなわち妥当の意識だ。ある意識内容を一般化(抽象化)するということは、これを固定的なものとするのではない。これを自己実現の力を有する(体系的発展の力を有する)自発自転的なものとなすのだ(たとえば、木は植物だ。植物は…)。ロイスの言う様に、全ての概念はembodied purpose(具体化された目的?)だ。我々が(推論式=三段論法におけるように)一般と特殊の関係を形式的には、どこまでも無限に考えていくことができるのは、これ(思惟が含む無限性)によるのだろう。もし以上述べたような理由によって、思惟そのものが根本的性質において、無限性を具えているものとすれば、数の無限の系列ということもこれ(思惟の無限性)から導き出すことはできないだろうか。思惟の統一を上に言ったように、“単に一者と他者の関係を翻して並列的関係を作る”というような静的統一と見るのは未だその真相をうがちえたものではない。思惟の統一の真相は、自覚の統一におけるように、自己の中に自己を写す自己代表的体系の統一であって、すなわち“自己の中に変化の動機を蔵し、己自身にて無限に進み行く動的統一”であると言わなければならない。我々がある物を考えるということ、すなわちある物を思惟の対象となすということは、またこの考え(ある物を考えるという考え)を思惟の対象となすということを含む。このようにして無限に進むことができるのだ。デデキントに従えば、このような思想の体系において、完全にその対象の特殊な性質を除去し、単にその区別性と相互の関係のみを見たものが自然数の系列となるのである。換言すれば、純論理的対象、すなわち“いわゆる無内容なある物の意識”、すなわち“抽象的思惟の自己代表的体系”が、数の系列を形成するということができるだろう。数における無限の系列の成立を説くのに、時間のような直覚的形成を以ってするのは、物の本末を顛倒したものと言わなければならない(無限の系列の成立の自覚から、時間空間のような直観的形成が成立するのであって、その逆ではない)。いわゆる想像力の(所生である)図式というようなものは思惟の体系の発展的進行の方面に過ぎないのだ。リッケルトはanderes(ほかの?)を幾度繰り返しても、これを一列に貫通してnoch anders(?)ということはできないというが、これは思惟がそれ自身の中に変化(無限性)を含むという自己代表的体系であることを考えないことによるのではないだろうか。ロイスの言う様に、one single purpose(単一目的?)の中に無限の系列の意味を含み得るのだ。
 数の性質について全く専門的知識を有しない私が数の性質について論じるところの浅薄蕪雑なのは言うまでもないことだが、私が上に論じた主意は、すべて我々の思惟作用というのは動的一般者(統一的或者)が己自身を発展する過程であって、この発展の進行がすなわち我々の理解となるのだ。カントが想像力の(所生である)図式と言っているようなものは、外から思惟に加えられた非論理的要素と見なすよりも、むしろ思惟そのものの発展的方面を現したものと見ることができる。コーヘンの言う様に思惟の特徴は結合ではなく、かえって生産であるということができるのだ。このようにして論理の理解も数理の理解も、いわゆる無内容な純論理的対象の意識、すなわち論理的一般者の発展の作用として解することができるのである。そして私はなお一歩進んで、芸術などにおいて、直覚的理解というようなものも、右と同じく、動的一般者の内面的発展の作用と見なすことができると思うのである。(大正元年八月)
この論文は次の著書「自覚に於ける直観と反省」へ私の考えを導いたものである。(昭和十二年十二月)



高橋(里美)文学士の拙著「善の研究」に対する批評に答う



 哲学雑誌第三百三号から三百四号にわたって、高橋文学士が拙著「善の研究」の為に書かれた詳細な批評に対し、私は氏が拙著に対し多大な批評の労を執られたことと、私が氏の批評によって啓発されたことの多かったことを謝すると共に、いささか私の考えるところも述べてみたいと思う。氏は五項に分かって批評しておられるから、私も順序に従って各項について私の考えを述べることにしよう。
 第一に氏は、私が純粋経験の性質を論じて、思慮分別を絶した(排した)直下の(現前の)意識状態であるとか、主客未分以前、また主客合一の意識状態であるとか、未だ何らの意味もない事実そのままの意識であるとかいったことに対し、もし私の言う純粋経験が真にこのようなものであるなら、それは絶対的なものでなかればならない。すなわち一つの純粋経験について、その一部は純粋経験であるが、他の一部はそうでないとか、ある程度までは純粋経験である程度までは純粋経験でないとか、(純粋経験の程度が)深いとか浅いとかいう一切の程度比較を許さない、全体的(絶対的)な純粋事実、純粋経験でなければならない。だが私は純粋経験に程度の差別をつけている。そしてこの程度の差異を、統一が厳密であるか否かに求めている。しかし、もし私の言うように純粋経験が程度上のものであるとすれば、純粋とか直接とかいうことも、結局のところそう思われ、そう感じられるだけで、実際は、純粋とか直接とかいうことが言えなくなる。あるいは私の考えが、各統一(思惟、意志、知的直観など)がそれぞれ(程度において)異なった統一の程度を有しながら、同じく純粋経験であるというのなら、意味の起源は到底説明ができず、全てが意味であるとも言えればすべてが事実であるということも出来る。ここに私の言う純粋経験の根本的矛盾があるというのだ。
 右のような氏の批評に対し、私はまず氏も想像しておられるように、統一の弱いものは弱いながらに、強いものは強いがままに、それぞれその統一の程度を有しつつ、同じく純粋経験であると言ってよいと思う。私はこれまで往々、純粋経験と不純粋経験との区別はなんだ、不純粋経験は純粋経験からどのようにして出てくるかなど聞かれたこともあるが、私の考えでは絶対的な純粋経験というものもなければ、絶対的な不純粋経験というものもない。すべてが見方によっては純粋経験とも言えると思うのだ。私は元々純粋経験と非純粋経験とか、事実(純粋経験)とか意味(非純粋経験)とかいうように、互いに独立対峙する両種の意識状態を認めているのではない。このような区別は一つの意識の両面に過ぎない。すなわち一つの物の見方の相違という様に考えているのだ。すべての意識は統一の方面(統一的或者の発展の方面)と差別の方面(統一的或者を分析した方面)を具えている。すなわち一にして多だ(統一的或者は差別相を具えている)。ただこの両方面(純粋経験と非純粋経験、事実と意味)を対立させて言えば、統一(体系的発展)の方面の著しいものが純粋経験であり、差別(分析)の方面の著しいものが非純粋経験と見られるのだ。この意味においては私は一見、いわゆる純粋経験と全く異なっていると見える思惟の根底にも直観的統一(統一的或者)があり、これに反し、完全に純粋経験と考えられている知覚のようなものも、複雑なものの(統一的或者)の統一(体系的発展)と見ることができると考えるのだ(思惟と知覚は程度の差だ)。私が第一編「純粋経験」において論じたところは、純粋経験を間接な非純粋な経験から区別することを目的としたのではなく、むしろ知覚、思惟、意志、及び知的直観(という統一の形式)が、同一型であることを論証するのが目的だったのだ。私は何処までも直覚(事実)と思惟(意味)を完全に別物と見なす二元論的見方を取るのではなく、この両者を同一型と見なす一元論的見方を主張したいと思うのである。
 もし右のように言えば、氏のこれに対する非難は、だとしたら意味の起源が説明できず、したがって意味と対立する事実としての純粋経験ということ自体が無意義となり、全てが意味とも言えれば事実とも言えるということだ。しかし私の考えは、意味と純粋経験の事実を独立対峙させようとするものではない。我々に直接な真の純粋経験においては、事実即意味、意味即事実である(純粋経験が即意味であり、意味が即純粋経験。意味と純粋経験は一つの物の両面であるということ)。ここに独立自動な純粋経験の真面目があると思う。わたしがかつて(認識論に於ける純論理派の主張に就いて、という論文において)リッケルトなどのいわゆる純論理派の議論に対し、純粋経験の世界はかえって価値の世界、意味の世界であるといったのは、一見、私が純粋経験を事実そのままの経験などと言うことと矛盾するように思われるかもしれないが、私はそう考えないのだ。事実という語を直接に与えられたものという意味に解すれば、意味に対立する事実(という純粋経験)というのは、真の事実(直接に与えられたもの)ではなく、かえって意味(と同じ抽象的概念)であるとも言える。それで、私の考えでは、かえって氏の言われるように、全てが意味ともいえれば事実ともいうことができ、意味に対立しない事実であるから純粋経験であると言いたいのだ。だとしたら意味の起源が説明できないと言われるのだが、純粋経験を多に対立する一、動に対立する静、意味に対立する事実とみなしては、純粋経験から意味の起源を説明することができないのは当然だ。このように抽象的に分析したもの(抽象的概念と対立させたもの)を独立存在のように考え、一から他を導き出そうとするのはかえって私の思想の根本的傾向に反するものだ。私はむしろ、真に我々に直接な純粋経験、すなわち本来の具体的状態においては、自発自転的である(統一的或者の)唯一活動(体系的発展)あるのみであって、意味とか、事実とかいうことはこの唯一活動においてどのようなことを意味しているかを明らかにしたいと思うのだ。私がかくかくの場合において意味を生じると言ったのは、この時以前に含まれなかったもの(意味)が新たに出てくるという考えではない。ただこのような場合に一方面(差別、分析の方面)が著しくなるという意味だ。すなわち明らかに(意味が)意識されると言うまでだ。
 私の考えが以上述べたようなものであるとすれば、氏の言われるように、全てが純粋経験であって、したがってこれに程度上の差異をつけたり、厳密とか、不厳密とかいったりするのは無意義の事なのであろう。しかし私が純粋経験というものは、単なる静止的直観のようなものではなく、活動的「発展」だ(純粋経験は止まることがない)。私が純粋経験の根本的性質とした統一(統一的或者の体系的発展)は、単なる静止的、直観的統一ではなく、活動的、自発自転的統一(発展)だ。私の統一ということには、活動的発展ということと離すことのできない意味があるのだ。このような活動的統一ということと、私が前に純粋経験の定義として挙げたことは、相背くことはないと思う(実際は“思慮分別を加えない”という最初の定義には反している)。ベルグソンが真に直接な意識状態を内面持続としたように、我々に直接な主客合一の純粋経験においては、我々の意識は活動的発展的であるのだ。直接とか純粋とかいうことと、活動的ということは同一であると思う。このように考えたなら、純粋(活動的)ということは、程度の差を認めるということと必ずしも矛盾すると言われないのではないか。氏は純粋経験が程度上のものならば、要するにそう思われ、そう感じられるだけのことで、実際は純粋、直接であるということができなくなると言われるが、私が純粋とか直接とかいうことの意味が右のような意味(純粋とか直接ということは活動的ということと同一)であるとすれば、変化発展がその本質であって、変化発展とともに(変化発展する)それ自身に同一であるということができないだろうか。自動的一般者(統一的或者)の発展の過程とも見るべき純粋経験は、有機的発展におけるように、各自それぞれの意味と発展の「程度」を有しながら、(発展の前後を)同じく純粋経験であるということができるだろう。私が分裂は大なる統一(更なる体系的発展)を意味するというのはこれ故だ。もちろん、私自身も程度の差とか厳密とか不厳密というような単なる量別的区別の語を用いたのは、少なからず不満足に思うのであり、また「善の研究」の始めにおいて純粋経験を論じたところではこの活動的統一(体系的発展)の意味が十分明らかになっていなかったと思うのである。
 第二に氏は私が純粋経験と知覚、思惟、意志、及び知的直観との関係を程度の差(すべて純粋経験の程度の差)としたことについて批評し、このように論じることについて純粋経験を希薄、不純となし、これを主唱し得たと思いながら、実際はこれを否定したのではないか、いわゆる純粋経験は具体ではなくむしろ抽象、事実ではなくかえって意味ではないかというようなことを言っておられるが、これらの議論は上に言ったように、純粋経験の考え方の相違から起こるものであると思うから、別にこれについて論じる必要はないと思う。


第三に氏が論じておられるのは、私が純粋経験を自動的一般者(統一的或者)の自発自転的発展となしたことについて、このような考えと純粋経験ということは一致できるのか(純粋経験を自発自転的なものとすることができるのか)ということだ。これは氏と私との間における論点の最も重要なものだろう。氏の反対されるところは、純粋経験の性質が発展であるとすれば、発展のどの部分、どの階級に純粋経験があるか(ということだ)。経験されるものは単にその(経験の)一部分にすぎない。もし真の純粋経験があり得るとするならば、それは内容としては最終の階級のみにあり、過程としては全体の過程(?)においてのみありうるのだ。しかしこれらは我らの知ることができないところだ。これを知り得るものは神と絶対であるというのだ。私の純粋経験というのは、普通の心理学者の言う様に、判断の対象となった、個々分立した、抽象的な(言葉や数値で分析できる)意識内容を言うのではない。従って氏の言われるような部分、部分の意識内容でないことは言うまでもない。このようなもの(判断の対象となった意識内容)はすでに思惟によって作為したものだ。むしろ(純粋経験は)氏の言われる生きた全体の過程というようなものに近いものだろう。しかし氏はこれに対して、有限な経験の発展においては無限な発展的実在(統一的或者)の全体を知ることはできない。従ってどこにも真の純粋経験はないと言われるのだが、氏の言われる全体の過程とはどのようなことを意味しているのか。無限な発展の全体の過程を知るとはどのようなことを言うのだろうか。無限な発展の全体の過程を知るというのは、単に発展の各階級をどこまでも羅列し結合して見るということではない(直接経験の統一の各階級を羅列しそれを後から結合して考えることではない)。むしろこのような発展の内面的活動そのものを知るということでなければならない。最初の階級と最後の階級を知ることができないから、無限な発展の全体の過程を知ることができないということはないだろう。真の無限ということはヘーゲルの言ったようにdas Endlose(終わりがない)ではなくdas Unendliche(無限)でなければならない。一層正確に言えば、デデキントなどの考えのように、ある体系が自分の中に自分を写し得るということであろう(自覚に於ける直観と反省を参照)。こうして我々はこの最も直接な自覚作用について無限の相を認めることができるのではないか(自覚に於ける直観と反省を参照)。氏の考えではそのような意味の知的作用と私のいわゆる純粋経験は一致することができないと言われるだろう。氏は無限が有限な意識において存在するには、無限がことごとく意識となり得ないが為に、純粋経験と反対の意味において、非常に多くの無意識もしくは低意識の部分を有しなければならないと言っておられる。しかし私のいわゆる純粋経験というものは、上にも言ったように、個々分立した意識内容(対象化された意識)を言うのではない。このようなもの(対象化された意識)は判断の結果として出来たものだ。真の純粋経験とは自動的な生きた具体的事実だ。氏の言葉を借りて言えば、非常に多くの無意識もしくは低意識を具するところに、一層適当に言えば、絶対的活動であるところに、すなわち真に無限なるところに(無限な活動であるところに)、何らの隙間のない直接とか純粋とかの真意識があるのだ(統一的或者の分化発展の過程は途切れることはない)。氏の言われるような有限な意識内容(対象化された意識内容)というようなものはかえって間接であり、不純粋と言わねばならない。氏は普通の心理学者や経験論者のように純粋経験ということを内から見ないで、外からみている(対象化している)のではないか。それでは純粋経験の真相を得ることはできないと思う。氏はまた私のいわゆる純粋経験が主客合一であるということによって、(純粋経験を)直ちに宇宙を包摂する唯一意識と同一視することはできない。それは私が、個々の場合において純一となれば純粋経験である、個々の知覚もそう(知覚に純一になれば純粋経験)であると言っているのを見ても明らかであると言っておられる。しかし私の考えでは、我々が個々の場合において、真に思慮分別を絶した、主客合一の純粋経験の状態に入った時、ここに我々は絶対的活動である宇宙意識に合するのであると思う。氏は個々の知覚のようなものを直ちに宇宙的意識となすことを矛盾と考えられるかもしれないが、それは思惟によって作為された(言葉や数字により抽象化され対象化された)個々の意識内容を考えられているからではないだろうか。私が純一な個々の経験というのは、生きた具体的事実そのもの(言葉により抽象化され対象化された意識ではなく、言葉により抽象する前の現在意識)を言うのだ。ここに我々は個々の場合において神を見るというような深い宗教的事実があると思う。氏は統一的発展ということと絶対ということは相いれないと考えておられるように見えるが、氏の絶対とはどのようなことを言われるのだろうか。もし活動的発展を拒否する静止的統一のようなものならば、ヘーゲルのいわゆるcaput mortuum(死んだ頭?)のようなもので、かえって(絶対ではなく)相対と言わねばならないのではないだろうか。
 氏は私が個々の経験を発展的となし、知覚、思惟、意志の根底にも深い知的直観が潜んでいると言ったことに対し、このように考えれば、純粋経験の真相は、知覚や衝動のような直接な経験らしく見えるものにあるのではなくて、かえって知的直観のようなものにあるのだろう。だが知的直観というようなものは、その直観という点において、日常の知覚等と類似しているであろうが、知的直観は天才か偉人かまたは修養の結果として到達すべきもので、決して知覚や衝動のような直接な意味で、直接な経験ではないと言っておられる。しかし氏が知覚や衝動に対して、単に直接らしく見えるとか、天才や偉人の直観と違うとか言われるのは、真に生きた具体的な知覚や衝動を見ないで、我々の判断の対象となった抽象的な意識内容をみておられるのではないだろうか。我々が普通に直接に知覚と言っているものは、実際は真に直接な知覚ではなく、独断(抽象的な意識内容、言葉や数値により対象化された意識内容)であることが多い。例えば雪は白いもの、水は青いものといような独断だ。だが印象派の画家などには、完全に普通の人と異なったように(描かれた絵が)見える。しかしこれは画家などが我々と異なった眼を持ち、異なった知覚を得るというのではない。我々の知覚と言っていたのは、真の知覚ではなく、(抽象化された)因習的独断であって、画家の知覚が真に純粋な直接な知覚であるのだ。芸術的天才でも、宗教的偉人でもこの生きた純粋経験に何物も加えない。ただ真の真、純粋の純粋に達するまでではないだろうか。氏は経験論者の実在は直接な経験以外にないが、ヘーゲル流の考えによれば直接なものは実在において最貧なものであると言われるが、いかにもそうだ。いわゆる経験論者の直接も、ヘーゲルの直接も私の言う直接ではない。このような直接は思惟(言葉)によって作為された抽象的状態であって、かえって間接であると言わなければならない。私の直接(経験)というものは独立自動な具体的全体(統一的或者の体系的発展の全体)だ。ヘーゲルの概念のようなものだ。なぜなら真に純粋にして直接な経験はこのように(ヘーゲルの概念のように?)生きた経験である故だ。
 第四に氏は私が純粋経験発展の方式(形式)とした統一(体系的発展)と対立、矛盾との関係について論じ、この対立というのは普通に言うような主観客観の対立、すなわち部分と部分との対立でなく(主観、客観は対象化された抽象的概念であり、真の全体である純粋経験=統一的或者の分化発展からみれば、静止した部分である)、むしろこのような抽象的対立(主観客観の対立)とこれら(主観客観)を対立させる全体の統一力(統一的或者)との対立であろうと言っておられるが、これは氏の考えられるとおりであって、私はこれらの対立の区別や、矛盾、対立の意義を厳密に(定義)しなかったため、様々な曖昧な点を生じたことは自分も認めている。しかし氏のように私の純粋経験というのは、対立を抜きにした統一力と言ったようなものと考えられるのは、少し意にそぐわないように思う。このような統一力というようなものは、氏も言われるように差別的原理であって、真に統一された、すなわち独立自動な具体的経験そのものではない。むしろ氏の言われる多を含む全体なる一(差別相を含む一)、活動そのものの全体としての静止というようなものが(構造的に対立を含むので)、私のいわゆる純粋経験の真相に近いのだろう。このように言えば、氏の言われるように、全てが純粋経験となって、純粋経験と非純粋経験との区別、統一と不統一との区別がなくなってしまうかもしれない。私も上に言ったように、具体的全体(統一的或者の体系的発展)としては、全てが純粋経験であって、これ(純粋経験)と対立するものを考えることはできないのだが、ただその全体は(動物のような)有機的全体においてのように、その中に「無限の全体」を許す全体であり、その統一は有機的統一においてのようにその中に「無限の統一」を許す統一だ。そしてこのように一方において無限の独立した全体を許すということが、全体の独立を害するのではなく、かえってこれ(全体の独立)を成立させるのだ(?)。このように一方において一々純粋経験でありながら、一方において階級的差別を認めることができないだろうか。私が統一と対立を以って純粋経験(統一=体系的発展)と意味(対立)との区別をしたというのは、このような体系全体における相対的区別に過ぎない。私が統一の厳密とか不厳密とかいうののもまたこのような(相対的な)差別にすぎないのだ。このように言えば、それでは真に絶対の純粋経験というものが無いということになるかもしれないが、右のような体系(統一的或者の分化発展の体系)においては各経験がそれぞれの動かし難き特殊な意味を持つ独立の経験でありながら、またそれぞれ相対的意味(差別)を持つと考えることはできないだろうか。真の絶対は相対を排斥する絶対ではなく、かえって自己の中に相対を包容する絶対でなければならない。氏は永遠の相から迷妄の見に堕せねばならない理由は何処にあるかと言われるが(統一的或者の分化発展により、矛盾衝突を起こし、何故差別的方向を生じなければならないのかと言われるが)、私の考えでは、独立的対峙の意味において(抽象的概念と抽象的概念の対立という意味において)完全に迷妄という(抽象的概念の)ものもなければ、完全に真理という(抽象的概念の)ものもない。いわゆる迷妄とされたものも、それぞれの意味を持ったものだ。


 氏の第一から第四までの批評はもっぱら私の説に対する批評であるが、第五に意識現象の事実と意味との関係を論じられたところでは、いくらか氏自身の考えを伺うことができる。氏の考えによれば、意味と事実は根本的に異なった意識の両面であって、何故意識の事実は事実である外に意味を有し得るかを説明することはできない。ただ意識という事実は意味を持ち得る事実であるというより外にないというのである。氏はこれを証明するために、無の概念は意識事実としては事実だが、この事実なる無の概念を意味し、指示するものは、虚無そのもので、純然たる実在の否定でなければならないということ、また判断は現実の意識事実としては、一切の判断が真理であって誤謬の判断は不可能であるべきはずだが、実際判断が誤謬に陥るという事実がある以上は、判断の事実以外に意味を考えねばならないということなどを挙げて、論じておられるようだ。私の考えも、何の意味のない抽象的な事実というようなものがあって、それから意味が出てくるというのではないことは上にも述べたつもりだが、単に氏の言われるように意識の両面というのみでは、少し不満足に思われるのだ。そう言ってしまえばそれまでのことだが、なお少し進んで考えてみる必要はないだろうか。氏が事実と言われるのはどのようなことを意味しておられるのか。ある個人がある場所ある時にある事を意識したという意味の事実をさしておられるのか。これは一般的には事実ということの意味ではあろうが、このような意味の事実は、すでに我々の思惟によって作為されたもので、真に直接なものという意味においての事実ではない。真に与えられた直接経験の事実というものは「直観の事実」であり、このような意味においての事実(思惟によって抽象化され、対象化された事実)ではない。このような意味の事実というのは、時間、空間、因果律というような範疇(意識内容を統一する形式。最も基本的な概念)によって、直接経験の事実を統一したものだ。すなわち直接経験の事実をある一種の中心、すなわちApriori(前提)から見た、その一解釈にすぎない。このように限定された(対象化された)事実というのはそれ自身すでに意味であって、他に何の意味を持つことはできない。すなわちこのような意味の事実は何の意味においても事実を超越することは不可能だ。氏が意識という事実は、意味を持ち得る事実であると言われるのは、自発自転的な純粋経験の事実において、その現在は「現在の現在(現在というように対象化された現在)」ではなく(統一的或者の分化発展の)過程の現在であり、その部分は「部分の部分(部分というように対象化された部分)」ではなく(統一的或者の分化発展の)全体の部分であるという意味において解するべきではないだろうか。すなわち事実が意味を持つというのは、事実が完全に自身の内容と異なった天外(はるかかなたの)ある物を指示するということではなく、直接経験の事実自身の中に意味を具しているということではないだろうか(直接経験は差別相を具えたものなのではないか)。氏は判断も一つの意識現象である以上、徹頭徹尾現実的でなければならない。従って一切の判断は真理であり、誤謬の判断は不可能だ。だが判断に誤謬が可能であるから、判断の事実以外にその意味を考えねばならないと言われるが、我々の直接経験の事実においては、すべてがそれぞれの意味を持った要求の事実だ。判断について見ても、直接経験における判断の事実はいわゆる心的事実のようなものではなく、かえってリップスの言うような直接な要求の事実だ。すなわち判断そのものだ。このように直接経験の事実は要求の事実、すなわち理想的努力の事実であるとすれば、それ自身に誤謬の可能性を含んでいるということができるだろう。誤謬とか心理とかいうことの性質については様々な議論もあるのだろうが、私は普通の考えのように、知識は実在の模写であるとか、符号であるとかいう風には考えない。むしろカント一派の人々の考えのように、認識作用はある一種の与えられた範疇(時間、空間、因果律など)から経験を統一する構成作用であるという考えに同意するものだ。ただし私はこれらの人々のように、知識の形式と内容が独立の根底を有するものと考え、一方に混沌にして統一なき与えられた経験の内容というようなものがあり、一方にはこれ(経験の内容)を統一し構成する先天的範疇の作用があるという風には考えない。与えられた直接経験の事実はそれ自身にて(統一的或者の)自発自転的活動だ。認識というのもこのような(自発自転的)体系のある一種の中心、すなわちいわゆる先天的範疇(という形式)から他を統一していく作用に過ぎない。先天とか後天とか、形式とか内容とかいう区別も相対的であると考えるのだ【以上の考えについては「認識論に於ける純論理派の主張に就いて」を参照されよ】。もちろんこのような考え方からは、いわゆる絶対の心理とか、絶対の誤謬とかいうことは無くなるかもしれないが、全ての知識はそれぞれの立場においてそれぞれの心理であり、誤謬ということは立場や見方の相違によって種々変わってくるのであろうと思う。氏の言われるように、判断も意識現象の事実である以上、一切の判断は真理であって、誤謬の判断は不可能であるというようなことも、つまり一切の判断は直接経験の事実としてそれぞれの意味と立場を有し、それぞれの見方において真理であるという意味に解するべきではないだろうか。一切の判断が事実としては真理であるということの裏面には、すでにその事実である判断がそれ自身に意味を有し、指示するところがあるということを含んでいるのではないだろうか。判断に誤謬が可能であるからといって、判断の事実に全然異なった意味というものが加わるのではない。芸術的真は心理的真理であると言われるように、夢のような空想もそれ自身の内面的意味と統一を持ったものだろう。これが誤謬であるというのは、完全にこれと異なった立場、すなわち非個人的立場というようなものから見た場合に起こるのではないだろうか。しかしこのような場合の誤謬は、見方の相違、立場の転換であり、この時(立場の転換の時に)初めて意味というものが(事実に)加わってくるのではないだろう。非個人的立場(例えば科学的真理)から見れば個人的統一は誤謬となるかもしれないが、個人的統一から見ればかえって非個人的立場が誤謬ということも出来るだろう。論理上の真は必ずしも芸術上の真とは言われまい。氏が事実である以上一切の判断は真理であると言われるのは、石が落ちる水が流れるという様に、一切の出来事は必然的自然法に従うから、これに反する出来事はないというような意味であるとすれば、一切の判断が真理であるということの背後には、我々の意識現象の自然科学的解釈(必然的自然法)に対する信仰が潜んでいるのではないだろうか。またもし氏の言われるところが、一度起こったことは歴史的事実として永久に消すことができないという意味であるとしても、歴史的事実の唯一性ということは歴史的範疇(という形式)の統一によるのだろう。いずれにしてもすでに一種の意味を認めているのだ。次に無の概念について、氏はこの概念は心理的事実としては実在だろうが、論理的意味としては実在の否定であるということによって、事実と意味の区別を説明しておられるようだが、氏が意識の事実として無の概念と呼ばれるものはどのようなものか。厳密な心理的事実としての無の概念というものは単なる言語文字の心象か、もしくは意識の縁暈(意識の輪郭)というような一種の感情に過ぎないだろう。我々に直接な意識の事実としての無の概念は、意味即事実だ。心理的事実というようなものはこのような直接の要求によって構成されたものであって、かえって真の事実に遠ざかったものとも言える。氏はヘーゲルが無の概念において事実の立場と意味の立場を混同していると言われるが、ヘーゲルの論理的概念というのは言うまでもなく実在の想像力であって、氏の言われる事実というようなものはこのような概念(論理的概念=実在の想像力という統一)によって構成されたものではないだろうか。ヘーゲルが有と無と同一というのも、普通の倫理学で言うような単なる同一無差別という意味でいうのではなく、創造的概念の弁証法的発展を現したものだろう。
 要するに、私は氏の言われる意味と事実は意識の両面であるというような考えに、完全に反対するのではないが、ただどのようんして一つの意識がこの両面を具しているか、この両面はどのようにして一つの意識に結合されているか、意識のどのような方面が意味であってどのような方面が事実であるかを考えて見なければならないと思う。氏のようにこの両面を分立対峙させ、意識の事実は意味を有し得る事実であると言い、単にこれ(意識の事実)を紙の表裏のようにみるということだけでは、なぜ意識はこのような両方面を有し得るかを解することはできない。氏の言われる事実ということが心理的事実(対象化された意識の事実)というようなものであるなら、このような事実は果たして意味を有し得るだろうか。このような事実が意味を有し得るという確信はどのようにして可能であるか。これらの問題についてなお一層深く反省してみる必要があると思う。私の考えでは、直接経験の世界は意味即事実の世界であって、その(統一的或者の)自発自転的要求(体系的発展の要求)がいわゆる意味と見られ、その(統一的或者の分化発展の)発展完成の状態が事実と見られるのであると思う。すなわち事実と意味の区別は様々な立場や、発展の程度によるので、完全に相対的であると思うのだ。私はまだこのような立場から意味と事実との関係や、真理の標準などを詳論したことはないのだが、ここにただ私の考え方を述べるまでだ。
 以上は氏の批評された論点について、一通り私の目下の考え方を述べたまでの事だ。もとよりこのような粗雑な議論を以って氏の精細な批評に答え得たという考えは持たない。私はただ氏の批評に対して、このような方面から考えてみたいというまでのことだ。また私が述べたところが「善の研究」において論じたところと異なっていると見られることがあるとしても、私は全く争う考えは持たない。私がこの文を草した理由は、不完全で未熟な私の著書を弁護するためではない。私はただ氏とここに新たな真理を研究してみたいと思うのである。(大正元年八月)


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