アイデンティティークライシスについての記録

 一時的なものかもしれませんが、この頃「虐待サバイバー」とか「精神疾患患者」とか「治療法のない基礎疾患を持っている」とか、そんな逃れようのないアイデンティティーが薄らいできました。それはもう本当に重大な絶望的要素だし、辛すぎるのだけれど、別にアイデンティティーにまでする必要ないよなって。そんなことは私の10パーセントも説明できないただのスティグマであることに納得し、もう誰に打ち明けても良いような気がしてきたんです。打ち明けてみたからそう思うようになったのか、どちらが先でどちらが後なのかは分かりませんが。姉との関係性の変化など、他にも色々な原因があるだろうと思います。

 そうすると今度は自分が何者なのか分からなくなるというアイデンティティークライシスが、おそらく通常よりは少し遅めに到来しました。(と言っても、周りの友人たちもいまだに悩んでいるようなのでそんなに遅れていないのかも)

・寂しがり屋
・恥ずかしがり屋
・可愛いものが好き
・詩作が好き
・アフリカが私を呼んでいる(7歳ごろから)
・猫が好き
・犬も好き
・紅茶が好き
・NZが好き
・宮崎が好き
・「アルケミスト」が好き
・ドライブしてみたい
・キャンプもしたい
・モロッコに行きたい
・砂漠に行きたい
などなど。
他にもたくさんあります。パニックや鬱で、実現できるか・楽しめるかは置いといて。

 仰々しく定義なんてしなくても、こんなくだらないことがいっぱい集まったのが私なんだなって最近は少し思います。そして、「強くなりたい弱っちい人間」でもあります。(こんなふんわりとした感じなので今就活なんて絶対無理だし、将来について途方に暮れています。)


 鬼滅の刃の挿入歌『竈門炭治郎のうた』が好きです。「傷ついても傷ついても立ち上がるしかない」「失っても失っても生きていくしかない」という歌詞に背中を押されるんです。こんなこと、前までは恥ずかしくて馬鹿らしくて言えなかったけれど、素直な気持ちです。本当にたくさんのものを失ったし(あるいは最初から与えられなかった)傷ついたけれど、それはそれとして、私も人生を自分の力で生きていけるのかなと、そうだったらいいなと思います。

「どんなにうちのめされても守るものがある」
こういう歌詞もあります。
高校3年で解離が酷かったとき、生きるために部活でペットを飼ったんです。みんなが進路を考えて真剣に勉強している中、私は勉強に手もつかず、ペットのお世話も続かず(顧問がしてくれました)、高校3年生という時間がまるまる抜けていることがコンプレックスでした。「なんでこの大学・学部に来たの?」なんて聞かれようものなら瀕死になっていました。そういうこともあって自分を定義するのに焦ったのかもしれません。

 でもこの歌を聴くと、当時生きることを諦めず、がむしゃらにもがいた自分をもっと誇りたいと思えるんです。適当に決めた学部に進学したし、子どものころからの夢に挑戦すらできず諦めたけれど、そんなこと恥じる必要はないって思えます。もっと大切な決断をいっぱいしていたのだから。


 今回は特に、とりとめのないメモです。またスティグマに囚われることも絶対あります。というか、そんな私とこれを書いている私は併存していて、今この瞬間もある面では囚われているし、死にたいし、絶望しています。そして、囚われなくなったことで「自分が何者なのか分からなくなる」という新たな課題も出現しました。だけどそれも私だし、なんというか自分を恥じ誤魔化して隠れるのではなく、もう少し素直に生きてみてもいいのかなと少しだけ思っています。(今この瞬間は。)そしてそう思えたのは友人のおかげでもあります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?