行動改善の難度について。雑記

 季節柄天候がぐずついて雨天の多い日が増えた。ここでいつもの日常に小さな変化が伴う訳だが、いくら小さかろうとヒトに対応力があるという幻想から生み出された共同幻想は確実に忍びよっているようだ。

 毎日利用する電車の駅への通路に当たり前の階段が有り、上り下りの動作も当然いつも通りにこなしているのに雨天故に傘を多くの人が携帯する羽目になると事情が一変するらしい。傘を階段の上り下りの際に横に持つと後続の人間の丁度目の高さに当たるので、危険だからやめろとの批判がネット上に浸透してきている。

 たかが傘の持ち方を変えるだけ。しかし簡単だろうと思えば思うだけその想定に沿わない人間を見ると激怒して叱責したいだけではなく、人間としての尊厳を傷付けかねない処罰を望むまで内心が掻き乱されていると感じる意見が時間と共に目立つようになってきていると感じる。

 危険だと予め分かるなら生命線である眼を守る為に2〜3段の余裕を取って上れば安全対策は講じられるのに、態々雨の日だから顔を上げて階段を上ってやる労力をかけたくないのか、或いは費用対効果か、タイムパフォーマンスが悪いとか、経済効果がどうのとか、遅刻すると怒られるのは自分だからとか、悪いのは相手の方だからとか理由を挙げて自分の一生を預けている眼を危険に曝してしまうのは何故か。

 距離を取らない理由は全て正当で、非の打ち所が無いのは自明なのだが、とどのつまりヒトはたった一日、二日の雨の為に行動を変えるなんて大それた能力は有していない。自分の眼を守るための正当な権利主張を、職場での立ち位置や労力を余分に犠牲にしてまでやるなどといった理性的自己保存機能なんてこれっぽっちも働かない。

 しかしその割には、経験値から出てくる眼の価値の情報と、社会的規範から推測される自分の権利と、解決したくてもできなかった無力な自分と煩雑な社会構造摩擦が、目の前を傘の先端が過ると優秀な怒りの着火剤として脳内で忽ち駆け巡る。安全な環境を作りたくはないが、安全な環境にいたいという事後的な認知を修飾すべく、「階段の上り下りの際に傘を横に持つ奴は、配慮が足りない社会的モラルの欠けた経験の足りない未熟者なんだ」と自分の精神的、思想的内面世界で文章化し、他者との共感を経て注意喚起をする側に回るとここぞとばかりに...。

 こうして自分の内面世界に外界を服従させようという行動は、知識や事実関係はさておき、群れの中でより良いポジションを取っていく上では非常に優秀なスキルとなる。闘争の危険も伴うが、共感する仲間がいれば恐くない。的は無数に有れば直に相手は諦めるだろう。

 こうして内面世界をより濃厚にすると、共感が得られる限りはもう止まらない。この時人間は自分が妄想に生きているなんて疑うはずがない。順って辛うじて理性的な意見があっても審議にかけるなんて夢のまた夢だろう。

 事程左様に健常者でありながら、時々健常者であることよりも自閉的であることを選ぶ習性は然程珍しくない。共感こそ社会性であり、社会性を欠く個体は罰しても良いのだというモラルは一日、二日のそういう雨の日に再生産されていたりする。昔はどうであったか知る由もないが、少なくとも現代人は内面世界にかなりトリップしている。

 SNSで日々発信している精神科医や心理学者でさえこれを指摘する声は見かけない、どころか私が知らないだけで注意喚起の手伝いさえしているかもしれない。もちろん一々社会と個人の精神的変動の予想なんて真っ当な人間はやらないに決まっている。真っ当なのだからやらなくていい。従ってここに問題はなく、ただ罪人と裁定があるだけ。まさか人間が高々傘一本で因縁を付けるはずはない。そういう世界のはずだ。

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