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コロナ禍にPCR検査場で働いたことがどんなことだったのか記録する。


明日は2024年4月1日。
4年前の今頃、私はコロナ禍で医療系ベンチャーに入社し神奈川の病院でPCR検査場の運営をしていた。
個人的な体験としてもかなり強烈で人生で一番スリルのあった期間だったので記録として書き記すことにしました。

運転の練習とマスク売りの2ヶ月

2020年3月31日。2月初旬頃に報道された横浜フェリー内集団感染から2カ月弱。段々と「これはやばいんじゃないか」という空気が世に蔓延し始め、私は医療現場に行くことにものすごく恐怖心を抱いていた。中国人の友達が現地で感染していて、症状についてもリアルタイムで共有されていたことも私の恐怖心を煽っていた。加えて両親は「お前、死ぬかもよ」レベルで脅してきて、入社するのを辞めようかと本気で考えていた。

ただ両親の発言を「脅し」と呼べるのは結果論であって、当時はコロナウイルスがどんな疫病か皆分からなかったし、致死率がある程度高くひどい後遺症が残ると思われていた。ニュースでは数少ない重症患者やひどい後遺症を負った人ばかりが取り上げられ国民の不安を煽った。皆の記憶にも鮮明に刻まれているだろう。
とはいえ職を失う訳にもいかないと思い入社する。入社後はまず現場見学という感じで、2週間ほどクリニックに所属し訪問診療の帯同をする予定だった。
しかしコロナ禍真っ只中、介護施設や個人宅への入室に人数制限があったため、「帯同」と呼べる行為は1、2回程しかしなかった。ほぼ運転の練習とラーメンを食べた記憶しかない。
クリニックの事務長が大層良い人で、不安に駆られて死んだ目をしている私を元気づけるために色んな冗談を言ったりラーメンを奢ってくれた。元気かな。元気だといいな。
クリニックに配属されたほぼすべての人はこの見学後SSと呼ばれる医療職をサポートする職種に就くのだが、人数制限の関係で追加の人員が要らないことと、あまりにも死んだ目をしていたことが理由で私は本社に戻された。

本社ではテレアポでマスクを売ることになった。
当時、とにかくマスクが品薄になっていた。医療系ベンチャーとしてはこのマスク品薄問題についてなんとかせねばならない!となり、のちに共に働くこととなるNさんが大量の日本製マスクを静岡の工場から仕入れてきた。
外国製のマスクは性能が規格基準を満たしていない等いろいろな理由で、特に医療現場では日本製マスクの需要があるという話だった。当時電車内では不織布マスクを二重にしている人やN95をしている人、中にはガスマスクですっぽり顔を覆っている人までいた。今振り返ると異様な光景であるが、当時はコロナに罹ったらどうなるのか、何をすれば予防できるのか、情報が錯そうし皆パニックになっていた。母親は2022年頃秋ごろまでほぼ毎日全国のコロナ患者数、死者数を家族LINEに報告していた。数えることに何の意味があるのか分からず無視していたが、そんな不安や強迫観念に苛まれた人がたくさんいたように思う。

そういう訳で、毎日100本ほど病院やクリニックに電話をかけた。平常時業者から仕入れる値段より数倍高い価格設定だったので詐欺師呼ばわりされることも時たまあった。そりゃそうである。災害時などの異常事態ほど犯罪は増えるというから、その警戒心は全く正しいと思う。
そんなこんなで毎日電話をかけ、そこそこな結果を出し、営業の皆さんにかわいがってもらう日々を2ヶ月ほど過ごした後、神奈川行きを命じられた。

いざ神奈川へ

全く知らない土地、医療現場という独特で閉鎖的な職場環境、何度も言うがコロナ禍という異常事態。本来不安に思うべき状況ではあるが、能天気な私はに新しい職場に少しわくわくしていた。

迎えた初日、私の元上司、Nさんに大層歓迎されて一日が始まる。
Nさんは人を動かすより自身がたくさん動きたいプレイヤータイプだった。
Nさんは色んなことを一気に始め、同時並行で動かし、そして色んな事を取りこぼしていく、という仕事スタイルのようであった。(もちろん功績も多々ある。)
一日中一緒に過ごしていると上記のようなことが段々分かってくる。
「神奈川に行って手伝ってこい」としか言われていない私は一体何をすべきか分からなかったが、彼を見ていると、まず必要なのは彼の仕事を補うことだと感じた。
それから私はNさんの秘書のような役割を果たしていた。Nさんが急にどこかに行ってしまったら詰め所でお留守番をして訪ねてくる人とやり取りをし、Nさんが会議中寝ていたら起こし、Nさんの大量の愚痴を聞き、リアクションし、約束の時間に遅れていたら呼びに行く、みたいなことを最初の方はしていた。
それが功を奏したのか、Nさんも私を娘のようにかわいがってくれ、大量のみかんをくれたり、毎日車で宿まで送ってくれたりした。
役に立っていたかは不明だが第一段階としてとりあえずNさんと良好な関係を築くことに成功した。
問題は病院との付き合いだった。私は初手から大きく転んだ。

絶対PCR検査場を立ち上げたい会社v.s. 絶対院内感染を防ぎたい病院

私は大きな失態を犯した。これが致命的にいけなかった。大袈裟ではなく、この失態が数か月間私の信用を失墜させたと感じていた。
弊社のビジネスモデルは、病院に弊社の人員を送り込んで常駐させて、業績向上を主な目的としてコンサルティング(ほぼ実務)を行い、お金を頂いているというものである。
だから病院の事務長も弊社の人間ではあるのだが、病院の業績を上げる責任があるので、ややこしいが利害関係としては病院の人間と言って差し支えない。まず私はその事務長を敵に回してしまった。

今から考えたら本当にあり得ないことなのだが、病院からもらった切手を無くして、ロクに探さず放置した。理由を問われても分からない。強いて言えば根本がだらしない人間だからである。普通の会社でも経費で買ったものを無くした上に探さない等あり得ないだろうが、病院でそんなことしたら一気に信用をなくす。しかもどこの馬の骨の人間かもわからない新参者がいきなりそんなことをしたのだから、事務長に目をつけられ、「常識のない新入社員が入ってきてしまった」という空気が一気に出来上がった。
事務長は私に対し強く当たるようになり、その後別の人の命令で動いたことに対してもひどく叱責するようになった。
それから数カ月間私は怯えきっていて病院の備品を使うことができず、わざわざレターパックを郵便局に買いに行ったりしていた。極端すぎる。(打ち解けてからはどれだけ備品を使っても大歓迎のムードだった。)

後から振り返ると、私に対するひどい態度はこんな些細なことだけが原因でなかったことがよく分かる。
事務長は会社と病院の板挟みになって本当に辛い立場だったのだ。
会社側のPCR検査場を立ち上げたいという野望と、病院側の院内感染を起こす訳にはいかないという断固たる姿勢の狭間で動かなければならなかった。特に病棟を抱える病院だったため、入院患者のことを思うと院内感染は絶対に避けなければならない。コロナがすぐ収束して、投資が回収できずに赤字で終わるという懸念も大きかっただろう。また医療職は絶対にやりたくないという強い意志を示していて、PCR検査場の立ち上げに反対していた。それはもう、猛烈に反対していた。
つまり病院側からしたら、色々な意味で病院を危機に晒そうとする会社の人間は「敵」だったのだろう。「敵」の人員が増えたこと自体にまずムカついていたのだろうと想像する。それに加えて「敵」が病院の備品を無くした上放っておいていれば、普通にムカつくしそれ以上に、怒りのはけ口となるのは想像に容易い。

PCR検査場の立ち上げにおいて、院内にラボを作るというのが一番の反対ポイントだった。陽性疑いの検体を大量に院内に持ち込むのだから、そりゃあそうである。
それでも動線を完全に区切る事でなんとか決着し、保健所に申請をし、検査会社の力を大いに借りて、ラボを作った。
そうこうして、病院の駐車場でドライブスルー方式で検体を取り、ラボに運んで検査、という流れができあがった。
始まった当時は、追い風しかなかった。検査員も看護師も外部の人間を連れてきて、病院側は場所を貸すだけ、院長以外は一切関与しない、という座組だった。

一生懸命動き回る姿を見せつけろ

こんな感じの駐車場で検体採取をしていた

病院側の反応が変わったのは、単純だけど、我々が夏バテでバタバタと倒れてからである。
検査場は病院の屋外駐車場を使用していたので、炎天下で交通整備や備品の補充や受付等を行っていた。熱中症対策を行っても無駄なくらい暑く、案の定倒れる人が続出した。
事務員より暑かったのは看護師で、所謂防護服を着ながら炎天下で毎日数時間の検体採取をしていたので、本当にヘロヘロになっていた。
涼しい室内で働いていた事務長や病院職員たちはさすがに同情したのか、我々のいる詰所まで氷や色んな差し入れをしてくれた。病人に無条件に優しいのが病院の人の特徴と言える気がする。どんなに敵対していた人でも、病人には手厚くケアしてくれる。そのギャップに驚いたことを鮮明に覚えている。
検査場が軌道に乗ってからは、午前は予約受付(1日平均50件ほど)、午後は検査場の運営(誘導、予約票の配布、クレーム対応等)、夜は電話で結果報告、という1日を送っていた。
馬鹿みたいに動き回っている我々への同情心が芽生えたのか、院内に入る事が許可されたり、事務長や事務員が運営を手伝ってくれるようになった。院内の看護師さんたちも体調を気遣う声掛けをしてくれたり、雑談もできるようになった。ここから何十倍も働きやすくなり、楽しくなってきた。(もちろんその背景には心情面だけでなく、検査数が順調に増えて「儲かる」ことが分かったからという経営面も大きな理由としてあると思うが。)  
病院側の対応も優しくなり、信頼できる好きな看護師や検査員と働き、患者さんにも感謝してもらい、充実していたしかなり楽しくなってきていた。


恐怖は続かない


私が一番驚いたことは、コロナへの恐怖はそうそう続かないということだ。
2020年4月時点では、本当にこの世の終わりくらい恐怖していた。コロナに罹ったら入院することになるんじゃないか、一生味覚障害が残るんじゃないかと戦々恐々としていた。この恐怖はずっと続くと思っていた。
しかし毎日何十人もの陽性疑い患者と至近距離で接していると、そんな怯えきっていた自分からは想像ができないくらい感覚が麻痺していった。
人類は危機に直面しても、その度その環境に慣れ色んなことを乗り越えてきたんだろうと想像した。

恐怖が消えたもう一つの要因として、正しい知識を用いて防備すればウイルスに罹らないということを体験したという点もある。医療知識は偉大だ。毎日みっちり看護師さんに衛生管理や防備方法を伝授されていたおかげで病院勤務中にコロナに罹ることはなかった。
休日、友人や知人と仕事の話をすると、心無い言葉をかけられることもあった(冗談ではあるが「じゃあ○○の方を向いて話さない方がいいね」等)が、対策せずに飲み歩いている人より安全なのになと思った記憶がある。
この経験はコロナ禍以外の場面でも応用できる重要な学びを与えてくれたように思う。


PCR検査場、大盛況

そうこうしているうちにNさんが周辺地域に宣伝しまくったおかげで、PCR検査場の情報は近辺に知れ渡り、周辺病院や医師会、企業からの依頼も増え、予約件数が1日100件を超えるようになった。
また、その場で検体を採取するだけでなく、スポーツチーム等の団体で予約が入ったり、海外渡航前の集団検査等もあったため、完全に人員不足となった。
需要が日によって急激に増減することが、PCR検査事業の難しい点の一つと言える。人員を増やそうにも、急に予約数が凹んだりするので、会社としても何人どの程度増やしていいか分からず、結局増員しない、という結論に至って歯がゆい思いをした。
万年人員不足で動き回っていたので、着実にミスも増える。私は特におっちょこちょいなのでヒヤリハットを何度経験したか分からない。すぐパニックになる私をいつもなだめてくれた看護師姐さんたちには本当に頭が上がらない。
そういう周りとの精神的つながりができ、かなり働きやすくなっていった。とはいえ体に限界が来ていた。

そしてぶっ壊れる

結論から言うと、一年経たずして私の心身はぶっ壊れた。医療現場に徐々に順応したとはいえ、会社と病院に板挟みになりながら健康に働くことはなかなか難しい。どちらかに良い顔をすれば、どちらからに陰口を言われているような感覚が常にあった。(もともとの考えすぎる性格のせいもある。)
人の顔色を窺わず正しいと思うことをやっていきたい新卒ながら思ったのだけど、大抵の場合はどちらが間違っていてどちらが正しいということではなかったのだ。
誰かの言うことを聞くと誰かに怒られる。土日も関係なく鳴る電話。加えて、検査結果を患者に伝える業務を行っていたため、絶対に間違えてはいけないというプレッシャーもあった。
またクレーム対応にもよく動揺していた。当時PCR検査場はまだ珍しくて検査場を盗撮されることがあった。多くの場合は誰も気づかずスルーされたが、時に検査を受けに来ていた患者が敏感に反応してしまい(当然の反応と思う)、大騒ぎになることがあった。今ではPCR検査を受けることなんてどうってことないが、田舎で狭い世界だったということもあって、受けていること自体が恥、と考える人も少なくなかった。
サービス業をしている人は皆共通して経験することと思うが、このようなトラブルがいつ起きるか分からないという恐怖に晒されていたことも心的負担になっていたのかもしれない。
その他色んな不満や出来事が重なって、私の身体はゆっくりと壊れていった。
休職することになり、異動が決まった。

休職後、私はせめて最後のお別れの挨拶がしたくて、再び病院を訪れた。
病院の事務室に入った途端、その場にいた全員から拍手が起こった。全く想像していなかったのでびっくりした。皆から「よく頑張ったね」と声をかけてもらい、それまでの恐怖や不満が半分くらいは吹き飛ぶくらい嬉しかった。頑張って良かったな、と思った。最悪の第一印象からスタートしたので、正直ここまで来られるとは思っておらず素直に嬉しかった。

医療現場ってめっちゃ辛い

会社に対しての不満は色々あったのだけど、そもそも医療現場に関わる事自体が、めっっちゃ大変なのだと思う。
医療現場というのは本当にストレスが溜まりやすい。人の命を預かる緊迫感、わがままな患者、クレーマー、横柄な医者、権力関係。ちょっと居ただけの私でも、それを肌で感じた。
私の場合はどっぷり医療現場に所属していた訳ではないので、少し風通しの良い場所にいたと思うが、逆に会社との板挟みという違う難しさがあった。
ガンガンアクセル全開ベンチャーと保守的な医療現場。それに挟まれる従業員たち。インターネットくらい多様な立場の人が一斉に介しているのだ。
多様性というのは、それによってしか得られない新しい気づきや学びがあるが、それと同時に本当に辛くて面倒くさい。
医療現場で働くことは辛かったけど、毎日新しいことを体験して、そこから学びを得られる刺激的で楽しい日々だった。
(とはいえムカつくこともたくさんあったし、大きなミスもしまくったし、私だけコロナの特別手当がもらえないとか会社の理不尽さに発狂しまくっていた)

何より看護師さんや検査技師さんと一緒に働くのがとても楽しかった。特に看護師さんの強くて肝が据わっていて優しい姿が本当にかっこよくて、何度も感動したし救ってもらった。私がミスしても、優しくどうしようか一緒に考えて行動してくれた。

私にとってのコロナ禍

コロナ禍は不遇の2年間だ、という声をよく聞くが結果私にとってはそうではなかった。毎日外に出て人との精神的つながりを感じて働くことができていたので孤独感や閉塞感は皆無だったし、何より仕事がある事はありがかたった。
大変な思いをしたとはいえ、亡くなってしまった人や後遺症を患った人、リストラされた人やリモートで大学生活がつまらなくなってしまった大学生、大会に出場できなかった高校生、その他想像できない様々な辛い思いをした人に比べたら、割と楽しく過ごすことができたのだと記憶している。

社会的意義ってなんだ

就活生の私は、「社会的意義のある仕事がしたい」という漠然とした思いでこの会社に入社した。その中で、PCR検査事業という、話題性のあるわかりやすい「社会的意義のある」ことをやらせてもらった。願いは叶った訳だ。しかし当時は必死で、自分のやっていることが社会にどのように役立っているのか、その意義について感じることはできなかった。頭では「これは社会の役に立っていることなんだ」と思っても、日々の業務でそれを実感することはほぼなかった。患者さんに「ありがとう」と言われても、その一瞬は嬉しいけど、それが骨身に染みて実感できた覚えはない。楽しい、辛いの感情だけしかなかったように思う。

どんな仕事でも同じだけど、日々自分のやってることを誇りに思ったり、社会的意義について実感することは結構難しい。そう思える日は果たしてくるのだろうか。分からないが人生は続く。



おわり




写真引用元
東北大学病院「東日本大震災の経験に基づいた新型コロナウイルス感染症への対応」https://www.hosp.tohoku.ac.jp/release/etc/23921.html

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