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備えるということ

経験則による
お葬式のことを書く。
「縁起でもない」と思って、頭の中から削除できる消去できる人は、それでいいよね。

だけれどもすべからく人は、死ぬ。

そこで問題になるのが「お葬式」。

「私はちゃんと自分で考えて準備しているわ」

最近じゃ、TVのCMでも
「自分プロデュース」を謳うお葬式CM、花盛りだったりする。

とはいえ、そういう人も
「自分のお葬式を「現場で」自分で仕切ることは、できない」
という現実を、ついつい忘れがち。

そうなのだ
結局いくら孤や個を気取っても、最後まで、人は人に頼らざるを得ない。

高齢の親の葬式に、そんなにお金をかけるつもりはない、という娘、息子の立場の人も増えているようにも、思う。

だからこそ(?)
そこに落とし穴も、ある。

例えば日本人の約8割は病院で亡くなるって現実があるけれど
(もちろん、各病院の差はあると思うが)臨終を告げられて、30分もすれば「さあ、今後の対処を早く」と病院側から急かされる。
その事実を知る人は、案外少ない。

死を日常に持ち込まなくなった日本人は、身近な人の死を前に激しく動揺するので死の事実・現実は、軽いパニックを呼ぶ。

「どうしたらいいのでしょう」

何も用意していなかった人は、病院に問い合わせ、病院側が推奨する業者に決める・・・というパターンも多くあるけれど
病院側が推奨する業者=自分の要求、思惑通りであるとは、限らない。

だったら、病院側の推奨する業者を丸のまま受け入れるのではなく
とりあえず「遺体搬送だけを頼む」というやり方もあるはずなので
そこは、冷静に判断することが大切なのではなかろうかと、わたくしは思う。

何より大事なのは
自分が動揺しているということを認めること。

普通の精神状態ではないのに「すぐに判断しなければならない」状況であるという現実は、「全て業者にお任せ」を生み出しやすい。

まして普段は「葬式仏教」であるとすると
「ここは、こうするべきですよ」と言われれば、「ハイ」の連続。

終わってみれば「一番簡素なものを希望していた」にも関わらず
高額になっていた・・・ってケースも沢山見聞きする。

そして業者側もまた
「家族だけで安心のお見送り」を謳っていても
そこは嫌な言い方だけれど「商売」なのだ。
わたくしは、この「家族だけで安心のお見送り」という言葉は、
本当にデンジャラスだなあと思っている。

2007年度の日本消費者協会の調査によれば
「身内に葬儀のあった人」が葬儀にかけた費用の総額は、
全国平均で1,998,861円。
http://www.sougisupport.net/hiyo_average.html

「商売」だからこそ、死者に手向けるお花代ひとつにも
ランクがある
という事実を知っておく必要が、ある。

入口は広く低く、しかしながら実態は・・・という業者も存在するのだ。

そうそう。

田舎と都会の差もあるとは思うけれど
自分たちは「家族葬」で、全て終わらせたつもりが
その後、毎日のように人が自宅に「お線香をあげさせてください」とお参りに来て、それが長い間続くので、とうとう家族が倒れてしまった等というケースもよく、見聞きする。

「こんな事なら、家族葬ではない方が良かった」

故人が高齢で、「社会との繋がり等ない」と思っていたけれど
実はそうでは、なかった
という、ケース。

そこら辺は、故人に一番近い人(生活を共にしていた人)に聞く、判断してもらうのが一番だよね。

山に海に
遺灰を撒く

わたくしの知人には、葬儀から年を重ねて
同じ場所にお参りに行こうにも身体がついていかない
舟を手配しようにも・・・と嘆いた人がいる。

亡くなる本人の満足は尊ぶべきだと思うけれども、
残された人にそういう想いがあることも知っておくべきだと思う。

死のことを考えるのは
まして身内の死のことを考えるのは決して「楽しい」話じゃない。

けれどいつか、訪れるその時に、備えるという事は大事なことだ。

そして業者の選択を
自分が「落ち着いた状況」で、しておく
ということ。

死を悼む・・・そこに余計なものを持ち込まないように
備えるという事は大事なことだなあと想うのだ。


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