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【時をかける兵藤 ②自己のはなし】


着いたのはなんてことのない一軒家で、テツさんの家だった。
無言で2人で車を降り、テツさんが家の鍵を開けた。
「ワンッ!!」
犬が誰だという声を出すが、同時に尻尾も降っている。そして廊下の遠くには小さな白猫が見えた。
「あ、おかえりなさい、あらあなたがヒョウドウさん?いつもお世話になってます、どうぞ上がって」
「え、あ、お邪魔します」
テツさんの奥さんだろうか、年齢の割にはあどけない少女のような笑い方が目についた。
テツさんは特に言葉を発することもなく、自然と家に入っていった。
「お風呂湧いてるから、お客様からどうぞ」
「え、いやでも僕は」
「いいからいいから!これ着替えとタオルね!そんな工場臭い匂いさせてないで早くはいってらっしゃい!」
半ば強引に奥さんに脱衣所に詰め込まれた。
まだ状況を把握しないまま、とりあえず作業着を脱ぎお風呂に入った。
まあ、職場の先輩だし、変なことはないだろう…もし変な夫婦だったら、とも一瞬よぎったがなぜかテツさんに限ってはそんなことないだろうなと思った。
自宅の寮ではユニットバスだから、湯船につかるなんてことはなくシャワーで済ませていた。

身体を洗い、久しぶりに湯に浸かった。
「あぁっ…」
予想もしてなかった。口からそんな声が溢れていた。
久しぶりに浸かる湯船はちょっと熱くて、でも心から気持ちの良い時間だった。
少し締まりの悪い蛇口、よく響く木の桶の音、ところどころタイルが剥げている壁、曇りガラスの外に見える蜘蛛の巣、懐かしいお湯の匂い、遠くに聞こえる奥さんの笑い声、なぜだかすべてが大切なことのように思えて精一杯今の時間を味わった。
久しぶりに浸かったからかお湯が熱くて、5分も経たずにあがってしまったのだけれど、鏡に映った自分は不思議と口角が上がっていた。
洗面所には大きなカレンダーが貼ってあって、一週間後の日付に花丸がしてあった。
『みっくん誕生日』


「お風呂いただきました」
キャッキャと子供のような笑い声のするリビングへ顔をのぞかせてみる。
「おお、俺も入ってくるかな」
「ねえヒョウドウさん、この人ったらもう飲んじゃったの、乾杯待ってって言ったのに。だから私ももう飲んじゃった。ふふ」
告げ口をする女の子のように奥さんが僕へ駆け寄り、持っているコップでグビ、と一口飲んでみせた。
「あぁもう始まっちゃってるんですね」
僕もなんだかこの2人の仲に入れた気がして、演技がかった悔しそうな顔をしてみせた。
「はいこれはヒョウドウさんの」
「ありがとうごさいます!」
冷たいグラスにビールを注いでくれた。この体の隅々に行き渡る最高の液体。
「ぷっっはぁあ」
「随分美味しそうに飲むこと、あ、結局乾杯誰ともしてないや」
また奥さんが声を出して、少女のように笑った。
特に会話はしてないが、テツさんは微笑んでいて立ち上がるとお風呂へ向かったようだった。

「好きなとこ座ってて!まずこれは茄子漬けたやつね」
「うわぁ最高ですね、いただきます」
ダイニングテーブルに腰掛けすぐ口に運ぶ。
「めっっ、めっちゃ美味しいです…」
なぜだか泣きそうになるほど染みてきて、思わず目を押さえてしまう。
「大げさな人!でも嬉しい、ありがと」
奥さんは手際よく料理を作ったり、取り分けていた。僕は思わずキッチンにいる奥さんに見とれていた。
「なぁに、そんなに見て、何も出ないからね」
「あっいやすいません」
思わず目線をテレビの方へ移動させた。
一瞬脳内では人妻シリーズのエッチな動画が再生されたが、なんだかちょっとここは違う空間なようにも感じられた。
実家、とでも言ったらいいんだろうか。奥さんが「母親」に見えたのかもしれない。あどけなさの残る奥さんは可愛らしさの中にも強さが見えて、この人があの「大人」なテツさんを支えているのかと思うと合点が行った。

「なんかね、人を呼ぶのたまにあの人、すっごい突然なんだけど。困るんだけど、でもなんかね、私人間が好きっていうか、誰かいるのすっごい好きなの。今は子供も自立してるし、うちは犬と猫と私達だけだし。たまに知らない人に会えるのがね、好きなの」
女性特有の脈絡のない話し方だったが、奥さんの人柄が全部この会話に詰まっているような気がした。
「なんだか、僕と真逆な人間な気がします」
「真逆なの?あなた暗い人?」
「めちゃはっきり言うじゃないですか」
「ふふごめんごめん、でも人が嫌いなの?」
「嫌いってわけでもないんですけど、関わるのが苦手なんです。考えが変って言われるんですよ、ズレてるって。でも空気読むなんて学校じゃ教わらないじゃないですか。仕事も難しいし、友達も離れていってしまうし、もちろん恋人なんていないし、もう人生消化試合ですよ」
「ネガティブね!考えも自己完結型の人?」
「…そうかもしれないです、プライドは高めで…」
「随分客観視できてるじゃない、きっと大丈夫よ」
「大丈夫ってなにを根拠に」
「ほらほらそういうとこ!これでも食べてあたま空っぽにして!そして飲んで!」
奥さんがビールを注ぎ、目の前に美味しそうな鶏肉のてりやきが並んだ。
「いっ、、いただきます!!」
それはそれは癖になる旨さで、どんどんお酒も進んでしまうやみつき具合だった。
「う、うますぎる」
「きゃはは、やったぁ胃袋つかんだわ」
誰かと会話がスムーズに続くのは久しぶりな気がして、ふと前に付き合っていた女の子を思い出した。今日はあの子をよく思い出すな。

「あ、きたきた。これ美味しいって、ヒョウドウさん。褒められちゃった」
テツさんがダイニングテーブルの向かいに座り、奥さんがすぐに冷えたグラスに注いだビールとお箸をさっと出す。
「ふう」
ごくごくとビールを流し込み、茄子を食べながらテツさんが一息ついた。
特に美味しいとか、ありがとうとか言わないのか、これが夫婦ってもんなのか。でもなんだかその2人の空気に違和感がなくて、心地よかった。
「仕事はどうだ」
目線はテレビのまま、鶏肉を口に運びながらテツさんが言う。
「あ、仕事…仕事自体は苦じゃないんですけど、こう、繰り返しの毎日の中でぱっとしないなぁというか…」
「自分の人生を受け入れてない?」
テレビを見たまま、テツさんが言った。なんだか芯をつかれたような気がして、身体に緊張感が走った。
「…まぁ、そうですね。今まで何者かになれるって思ってたんですよ。だから若いときはフリーターでしたし、本を書くとか好きなことだけやって、なんにも責任持ってない立場で生きてきましたし。今の職についたのも履歴書とか経験がなくても出来て、寮付きで、ちょっと都心から離れてて、特に誰とも会わずに暮らしていけるからですし…。
でも周りの人と比べちゃうんですよね、自分は本当にだめなやつだって。この世は地獄だなって」
「…でも生きてる。…生きてるよな、お前はちゃんと」
「えっ」
「生きてれば大丈夫なんだよ、きっと」
「それさっきも奥さんが」
「はーい!おまたせ!特別餃子!しそとれたから!めちゃ美味しいよ!」
奥さんが大皿をどん、とテーブルへ置いた。
餃子を酢醤油につけ、テツさんが口へ運ぶ。
「今日、いま、ここへ来てどう思った?」
「ここへ来て…」
「はいはい!!私は今日も楽しい!!」
料理を終えた奥さんが急に会話に入ってきたが、テツさんは気にする様子もなく餃子を食べている。
焼けた餃子の皮を近くの犬にあげながら、テツさんは続ける。
「俺はな、もともとプロ野球を目指してたんだ。でもあとちょっとってとこで甲子園も行けなくて、もういままでの人生何だったんだって思ったんだよ。ガキながらにも。もうこんな人生消化試合だって。でもさ、すぐ近くにこれがいたんだよ。ハナが。そしていま仕事もある。子供もいる。犬や猫を飼えて家があって、贅沢は出来ないけど食うにも困らない。風呂入ってうまい飯があって。お前が来てくれるとか、こうやって人と関わりをもてて。俺はめちゃくちゃ幸せな中いきてんなって。生きててしんどいこともあるけどさ。ずっと幸せなやつにはなんにも気づけないよ。しんどいくらいが生きてることを確かめるのに丁度いいんじゃないか。何者にもなれなかったんだけど、俺はすごいホコリ持ってるよ」
テツさんは少し照れくさそうな口元を隠すようにビールを一口飲む。
奥さんはというと、聞いてないようなふりをしているのか、本当に聞いてないのかテレビの近くで寝ていた猫をくしゃくしゃと撫でているところだった。
「…それは、それはいいなぁって僕も思います。ここに来て、今日の事故のことも忘れるくらい、幸せを分けてもらってる気がします。いいなぁって。僕はすぐに落ち込んじゃうし、毎日地獄みたいで、しんどくて負けそうになる日の方が多いんですけど。…それから、ハナさんも。僕にはそんな人がいないから。そんな場所がないから。いや、僕が全然だめでモテないだけなんですけど」
「言い訳!?それって言い訳!?」
猫を抱えながら奥さんが戻ってくる。
「ホラ!モテないやつの言い訳だ!これは!」
猫の前足を使い、僕の頬を押してくる。
「いやちょっとやめてくださいよ、テツさんこれ止めてくださいよ!」
「ほら!ほら!!」
テツさんはほほえみながら、続けてビールを飲んでいた。


「なにこのプレゼント!あんた本当にセンスない!!うふふ」
「え、ごめん気に入ってない!?え、ごめん!ごめん」
「きゃはは、でもこれでいいの、ううん、これがいいの、あんたのそういうとこが好きなの。絶対に手放さないわ」
赤い口元でニヤリとわらう、丸い顔のあの子。落書きみたいなダサいタトゥーがちらりと顔をのぞかせ、やけに色っぽく見えた。

あの子と過ごした夜の、幸せな夢をみた。どのくらい時間が経っただろうか。
久しぶりに笑って、顔の筋肉がつかれているのがわかった。
コーヒーメーカーの音がした。気づいたらリビングに引かれた布団の上で寝ていた。
キッチンからは美味しそうなスープの匂いがしていた。
「あたまいてぇ…」
「あ、起きた!おはよ!!」
朝からテンションの高いハナさんがおたまを持ったまま、近づいてきた。
「あ、おはようございます…そうか昨日お泊りまでさせていただいたんですね…」
「すごかったんだから朝まで!二人してさぁ!近づいたらマユリカの漫才が聞こえるやつやろとか、めっちゃ笑ったけどさあ!」
「なん、なんですかそれ」
「しらないけどめっちゃ笑ったわ!すぐ朝食だから顔洗って!歯ブラシもあるから!」
洗面台で顔を洗う。歯を磨く。人の家だというのに、すごく安心感のある朝だった。これも、あのハナさんのおかげなのだろうか。
リビングに戻ると、テツさんがコーヒーを飲み新聞を読んでいた。
「あ、おはようございます」
「おう」
特にテツさんは目も合わせずに、新聞を読んでいた。
朝食もこれまた一般的なトーストとスープ、目玉焼きとコーヒーなのに、猫がテーブルに座っているからなのか、映画に出てくるくらい画になるような食卓に思えた。
「はいこれ、作業着」
ハナさんが渡してくれた昨日の作業着は、きれいに洗濯されていて、テツさんとおんなじ花のようないい香りがした。今日の作業でこの匂いがきえないといいなぁ、なんてうそみたいなことを本当に思った。



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