10章 ー 奇跡 ー

「レポート、書けたのか?」
 父の道房が夕食時に尋ねてきた。

「あ、うん。えっとね……なんだっけ……」
 箸先を口元に当ててやや上の方を見ながら考える美沙。

「あ、そうだ。いいニュース。福音って、いいニュースなんだって」

「ほう」

「何がいいニュースなのかってね……ええと……なんだっけ」
 レポートを取りに行こうとする美沙。

「ああ、いいよいいよ、食べ終わってからで。料理が冷めちゃう」
 サクサクとエビフライをほおばりながら父がたしなめる。

「でもまあ、パッと思い出せないあたり、大したニュースじゃないのかもなあ」
 美沙はうつむいた。なんとなく自分が責められているような肩身の狭い思がしたからだ。

「……はて、父さんも聞いてたはずなんだけどな。何だったかなあ」
 箸先を口元に当ててやや上の方を見ながら考え込む道房。美智子は二人の所作を見ながら、似てるわねえ、と内心微笑んだ。

「ね、お父さんが行ってた……なんだっけ?聖書……」

「聖書研究会か」

「うん、そうそれ。それって、どんなだったの?」

「大学生7ー8人が毎週集まって、テキストとかを使いながら聖書を開いて、ああでもないこうでもないって議論してたんだ。よく議論したので覚えてるのは、『キリストは本当に奇跡を行ったのか』って事かな」

「奇跡?」

「何だ、知らないのか?」
 こくり、とうなずく美沙。

「キリストはな、いろんな奇跡を行ったと聖書に書かれてるんだ。嵐を静めたり、パンを増やしたり、病人を一瞬で癒したりとか」

「……ああ、そういえば学校でもそんな話してた気がする」

(ただのありがたい人じゃなかったんだ。奇跡。すごいなあ)

「それでそれで?」

「うん、奇跡が起きたと信じてた奴らは、『聖書は文字通り受け取るべきだ』と主張してな。父さんは到底信じられなかったから、いろいろ説明しようとした。パンが増えたのは、キリストが自ら自分のパンを与えたのを皮切りに、みんなが隠し持ってたパンを取り出したからじゃないか、とかいう具合にな」

「ふんふん」

「だって、これだけ科学が発達した今、奇跡って言われたって、『はいそうですか』って簡単に信じられないだろ?」

(そうかな……)と信じやすい美沙は思う。

「だけど、どっちかって言うと、あの頃は奇跡を信じたくなくて無理矢理に理屈をこねていた、と今は思うなあ。父さん、信じられなかったんだ」

「……ふーん」

(奇跡。テレビで時々やってる。事故から奇跡的に守られた、命が助かった、とか、そういうやつかな。いずれにせよ、普通だったら起こりにくい事、起こり得ない事が起こるんだ。だから奇跡と呼ばれるんだろうな。で、その人の周りでたくさん奇跡が起こったとしたら、やっぱりその人はただ者ではない、という事になるんだろう。)

「美沙、ご飯が進んでないわよ」
 母に言われて思考の深みから浮上する。父はもう食べ終わってお茶を飲んでいた。


 美沙は奇跡の事が気になってネットで調べてみた。しかし、出てきたのはほとんどが「奇跡なんてアホらしい」という否定的な意見ばかりだった。使われる言葉や態度の乱暴さにややげんなりしていると、こんな事を書いている人がいた。

「奇跡は、科学的に証明しようのないものなのです。もし証明できたとしたら、それは『信じる・信じない』ではなく『知っている・知らない』という区別になります。法則を証明された重力を信じる、信じないと論ずる人はいないように」

(……確かに……)

 いろいろ不思議なことを経験してしまったものの、他の人から見たら奇跡とは思われないようなことばかりかもしれない。しかし、どうにか落とし所を見つけたい、自分が体験したことが何だったのかを理解したい、という思いを持っている美沙は、この意見に救われた気がした。

(それに、うまくいえないのだけれど、奇跡を信じられない人生って、何かさみしいもの、味気ないものになるんじゃないかな。もちろん、奇跡の話しに騙されたり振り回されたりするのは嫌だけど……でも……)

 あるサイトに目が留まる。ここの語調はさらに冷静だった。

「……元来人は奇跡を求める存在であった。……しかし、都市文化の中で災害など自然の驚異にさらされにくくなった人々は、科学技術万能と錯覚させられる日常の中で、己が有限で弱い、死にゆく存在であることを忘れてしまう。それでも、事故や病気、大切な人の危急などに際し、万策尽きる時、なす術なく神に祈り奇跡を願い、自らが弱くはかない存在だということを思い知らされる。そうしてやっと、人は神や自然を前にして非力な存在であることを思い出し、謙虚になることを学ぶのだ。その時初めて、私たちは奇跡という非日常をもう一度求め始めるのかもしれない」

(そっか、昔の人たちは自然界の中で命の危険にさらされて、謙虚になることを知ってたんだ。私は……どうかな?神さまを恐れたり、自然の前に謙虚になること、できるのかな……)


 もう一つのサイトに目が留まった。全体的に明るいデザインで、所々に十字架のデザインがモチーフとして使われている。どうやらクリスチャンのサイトらしい。「奇跡について」というリンクをクリックしてみる。

「あなたは奇跡を信じていますか?」

  「はい」   「いいえ」

(? なにこれ?答えろってこと?)

 訝しげに思いつつも、「はい」をクリックしてみる。

(なんか怖いことにならないといいけど……)
 次のページには、こう書かれていた。

「奇跡は今も起こります。しかし、愛に満ちた聖なる神ご自身も、そして邪悪で残忍な悪魔も、いわゆる【奇跡】というものを起こすことができます」

(なんなの、これ?)
 だんだん怖くなってきたので、ページを閉じようかと思ったところで、もう一つの質問に目が留まった。

「あなたは、【奇跡そのもの】を追い求めていますか?
 それとも、【奇跡を行われるお方】を追い求めたいですか?」

 美沙は質問の意味がわからず、しばし考えた。

(「奇跡そのものを求める」っていうのは、例えば危険から助かったり、病気が治ったり、要は【自分が得をしたいです】ってことかな。悪く言うと、自己中心な願い方、って言えるかも。それで、「【奇跡を行われるお方】を追い求めたいですか?」っていうのは……ええと……)

 よく見ると、ページの下の方に

「質問の意味がわからない方はこちら」

 というリンクが小さなフォントで張ってある。色も薄い水色で見えにくく、まるで見つけられないようにしてあるみたいだ。

(……親切なんだか不親切なんだか……)
 そう思いながらリンクをクリックした。


 突如、映像が始まった。
 映画「パッション」。キリスト十字架刑の最後の12時間を描いたメル・ギブソン監督の大作。その映像が抜粋して流された。そして、説明とおぼしき字幕もつけられていた。

ー迫害されていた貧しい者たち、弱者たちに寄り添いー

ー病人を癒し 悪霊を払いー

ー公正と正しさを貫きー

ーそして、決して愛することを止めなかった方ー

ーこの方を、私たちはー

ー十字架に付けた……ー

 むち打ちで全身の皮が裂け、血が流れ肉がむき出しになった無残な姿のキリストが映し出された。人間の肉体が釘で柱に打ち付けられるという、あまりのむごたらしさに美沙は思わず口を押さえた。突然すぎて、心の準備ができておらず、美沙は軽いショック状態に陥った。

 また、人々を愛し、教え、守り、寄り添うキリストの姿も映し出された。

ーこの方は殺され、墓に葬られたー

ーしかし、三日目にー

ー蘇られたー

 やがて映像が終わり、画面に文が現れた。

「キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは……あなたがたを神に導くためでした」
ペテロの手紙第一 3章18節

文は続いた。

「この全世界、全宇宙を創られた創造主なる神・ヤハウェは生きておられます。そして、あなたを愛しておられます。
 すべての命の源である創造主を愛することを忘れた罪ある人々(神から離れて生きること、神と人とを愛さないことを聖書は【罪】と言う)を、ご自身の大切な大切なひとり子イエス・キリストをその罪の刑罰である十字架刑を身代わりに受けさせることにより、今、あなたを再びご自身との愛の関係へと招いておられます。
 イエス・キリストを信じる人は、天におられる父なる神のふところに抱かれ、新しい人生を始めることができます。この創造主なる神を知ること、そしてこのお方の愛を知り、その愛を受け取り、創造主を愛し、喜びながら生きて行くことが、あなたが今生きて存在していることの究極的な目的です」
「再び、問います。」

「あなたは、【奇跡そのもの】を追い求めていますか?それとも、【奇跡を行われるお方】を追い求めたいですか?」

「奇跡を追い求めたい」   「奇跡を行われるお方を追い求めたい」


「なんなの、この乱暴なサイトは!!!!!」

 滅多に怒りを表に出さない美沙だが、心の準備もなしに残酷な映像を見せられて、ショックのあまり相当腹が立ったようだ。危うくパソコンの液晶画面に手近なものをぶん投げるところだったが、パソコンは悪くない、パソコンは高価、とさすがに自制した。手近にあったクッションをソファーに向かって思い切り叩きつけ、薄い上着を羽織ると、「散歩してくる!」と言い残して、とっぷりと日の暮れた町並みへと出て行った。

 美沙の住む旭ヶ丘はゆるやかに大地が波打つ地形の住宅街で、主要道路以外は車通りも少なく歩きやすい。70年代に整備された、ややいびつな碁盤目状の町並みは、慣れないと自分がどこにいるのかわからなくなりやすいが、生まれた頃からここで育った美沙にとっては自分の庭も同然だった。

「なんなの、なんなの、なんなの!!!」

 頬をふくらませ、まゆをつり上げて美沙は一人ガツガツと歩いていた。速度でいうと競歩に近い。通りを歩く人はほとんどいない。時折、犬の散歩をしている人とすれ違うくらいだった。美沙は何の考えもなしに、通りをジグザグに歩き続けた。

 やがて開けた大きな公園にたどり着くと、街灯の灯る公園を端から端まで力の限り全力疾走した。こんなに限界いっぱいまで走ったのは、小学校の運動会以来だろうか。

「はあ、はあ、はあ、っはあ……」

 蒸し暑い夏の夜、前かがみで息を整える美沙の顔からぽたぽたと汗が滴り落ちる。

「……っとに、なんなのーーーー!!!!」

 近くに人がいないと思い大声を出したら、背後で自転車がキッっと止まる音がした。美沙の全身が総毛立ち、心臓が縮み上がった。

「……美沙か?」
 暗がりから、よく通る聞き慣れた声が聞こえた。

「……千尋ちゃん……?」
 背中を丸めて、ほとんど涙目になりながら美沙が振り向いた。




「好きなの頼みなよ。」

 近くのファミレスに入って4人掛けソファー席を陣取る。

「マンゴーパフェとドリンクバーと抹茶ババロアとたい焼き」

「……美沙、ホントどうしたのさ。らしくないじゃん。……え、たい焼き??そんなのあった???」

 メニューから目を上げた美沙と目が合う。と、またぶわっと泣き出しそうになる。

「あーーーよしよしよし。まったくどうしちゃったんだろうね、この子は。」


 剣道部の帰りに駅から自転車で帰る途中、珍しく公園を寄り道したら、何やら全速力で走っている女の子がいる。へえ。あんな全力疾走する子、久しぶりに見たな、と思っていたら聞き慣れた声で叫ぶ。まさか親友の美沙だったとは。美沙にあんな激しい一面があることを、千尋は初めて知った。

「それで、どうしたっての?」

 ぶっきらぼうな口調だが、千尋は元来こういう性格なのだ。それに、わざとざっくばらんに話すことで深刻なムードにしないように、という配慮もあった。美沙はうつむいて口を開かない。

「ふむ。」

 ウェイトレスのお姉さんが持ってきてくれたフルーツ盛り合わせにフォークを運びながら、「まあ、しゃべりたくなったら話しなよ。」そう言って美沙に時間と空間を差し出した。

 美沙は美沙で、まだ言葉にできるほど処理できていなかった。そもそも、ことの発端はなんだっけ?自分で記憶の糸を辿っていかないと思い出せない。どうしてこうなったんだっけ。なんで自分は公園で全力疾走してたんだんだっけ?


「……ああ……」

 美沙がぽつりとつぶやく。千尋はフォークを口に入れたまま、視線だけ上げて美沙の言葉を待った。

「……ひどい、サイトを見たの」

「ネットの?」

「うん」

「どんな?」

 単刀直入に聞く。千尋はややこしい駆け引きをしない。

「……血だらけの、イエスさまの映像……」

「……ああ……」

 繊細な美沙のことだ。相当ショックを受けたであろう事は容易に想像がついた。千尋は次の言葉を待った。

「……ひどい、ひどい傷で……」
 美沙の頬に涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。

「うん」
 聴いてるよ、というサインを相づちで送る。

「どうして、どうして人が、あんなひどい事されなきゃ、いけないの?」

 千尋は答えない。

「奇跡……そうだ、私、奇跡について調べてたんだ」

「奇跡?」

 こくり、と美沙がうなずく。

「ほとんどの人は、奇跡なんかないって。あ、ネットで調べてて、ね」
 組んだ手にあごを乗せ、視線は美沙から離さずに千尋がうなずく。

「だけど、奇跡はあるんじゃないかって、私思うの。そう、信じたいだけなのかもしれないけど。そしたら、あるサイトに辿り着いて…」

「どんなサイト?」

 エグい事を聞かされるかも、と千尋は半ば無意識に丹田に力を込めた。

「奇跡を信じてる?って質問があって、はいって選択したの。そしたら、えと、なんだっけかな……」

 思い出したようにビタミンカラー鮮やかなマンゴーパフェを口に運ぶ。しあわせな甘さが心に沁みる。

「ん……そだ。奇跡そのものを求めるか、奇跡を行うお方を求めるか、あなたはどちらか?そんな質問があったの」

「……ふむ」
 視線をやや下に向けて千尋は少し考えている風だった。

「それで、説明はこちら、ってリンクが張ってあって、それをクリックしたら……」

「ひどい動画が始まったんだ?」
 美沙にもう一度言わせたくなくて、自分から千尋は言った。つ、と涙が再び美沙の頬を伝う。

「何のね、説明もね、なくて、ね、」
 しゃくり上げながら、美沙は言葉を続けた。

「び……びっくり、した、の……。せ、せめ、て、ね、……なに、か、そう、いう、えい、ぞう、とか、……言っ、て、ひっく、くれ、たら……。」

 ぐしゃぐしゃに泣きじゃくりながら、なんとか言葉を続ける。千尋は美沙がかわいそうでかわいそうで、できるもんならそのサイト管理者をぶん殴って美沙の気持ちを思い知らせてやりたいと思った。

「辛かったな、美沙」

 向かいの席から美沙の隣に移ると、千尋は美沙の肩を抱いて頭を撫でてやった。

「ぅ……ぅゎぁあああああああああん」


 店内に響き渡る声で美沙が号泣する。ウェイトレスの女性は様子を伺うと、少し待てば収まりそうだと判断し、気を利かせて美沙たちをそっとしてくれた。幸い、店内の客もまばらで、ちょっと振り向いた客もいたが、特に気にした風でもなかった。

「美沙を泣かせる奴はなー、この千尋姉さんが許さないよ」

 4月生まれの千尋は3月生まれの美沙と1歳近く違うこともあり、小さな頃から美沙のことを妹のように可愛がってきた。内気で根が優しい美沙は何かと男子にからかわれたりすることもあったが、勝気な千尋が美沙を守ってきた。

(アタシが地球なら、美沙は月かもな。)
 ふっとそんな事を考える千尋だった。


 いつの間にか美沙が泣き止んで、ぎゅううう、と抱きついてきた。

「ん?どうした美沙?」

「……千尋ちゃん、あったかい……♡」

「な、ちょ、やめろ恥ずかしい!」



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