『生き方』to 『死に方』
おはようございます。
気温は1°、昨日は一日中雨や雪がザーザーと降っていましたが、気温がプラスという高いせいか雪は積もらず。今日はどうかな。明日は8歳の友人の娘である女の子と留守番ということで、3月のひな祭りは過ぎたけれど、アフターヌーンティーパーティーみたいに一緒に寿司やらサンドイッチを作って楽しもうと計画中です。
トロントに来て20数年、
年月を得て変化したこともあれば、
年月を得ても変わらないことも多くあるんだなと、
今から14年前の
2008年に京都に妹家族とマイケルと旅をした時を思い出しました。
その頃はトロントから飛行機で成田に着き、そこから電車とタクシーで東京内を銀座では無印良品で自転車をレンタルして街を散策した事を思い出します。そして新幹線に乗って名古屋まで行き、名古屋内は自転車を借りるシステムが旅行者には簡単にできないようで、歩いて名古屋駅と栄をクタクタになりながら地下鉄を使ったりしてレコード店巡りをしました。
妹夫婦の結婚式の年だったのかな。
そして京都だったので、
とても良い日本の旅ができたように思います。
この頃はVISA問題で、とてもココロが不安定で、
そんな中でもバランスよく変化に応じて、自分なりに『生きている』実感があったのも確かでした。
カナダ生まれの子供がいる10年以上カナダに住んでいたメキシコ出身の夫婦がスパーインテンデントとしていましたが、急に強制送還されたようで驚きを隠せなかったのも事実でした。
それと共に、何故?多くの人たちは、弁護士を使わないまでも、仕事をしている上で時間も長く滞在しているにも関わらず、シッカリと移民VISA申請する事をしなかったのかが不思議でもありました。(他のメキシコ出身の家族は弁護士を使って移民ビザで滞在してる人たちもいました。たまたま彼は仕事において労働ビザが出ていたことでその後の更新ビザを忘れたと言っていましたが、その後、紹介した弁護士を通してリフジー移民ビザ申請したようです。)
私は移民ビザ申請中も、しかりと滞在できるビザを永遠に期限内で延長をしていたのでした。普通はVISA申請中は、その国から出られないそうですが、私はずっとテンポラリーの滞在ビザの延長を永遠に更新していたので、日本に行ったり、アメリカに行ったりパナマやキューバにも行けたのだと思います。その代わり、移民ビザまで普通よりも時間が数倍以上かかったのでした。(私の移民申請ビザをいくら問いただしても一向にプロセス中の一点張りで自分自身の書類が行方不明になってることとは5年くらい知らず😅、突然一枚の手紙から期限付きの再度申請通告❗️この事で急に動き始めることに、ありがたい。😉)
それにしても、ルールというか制度というのは縛られるという風に思いがちな人も多いと思いますが,『選択の自由』という意味ではルールや法律があるから守られてもいて平等にある自由なのではないかなと感じるのです。
日本のパスポートの強みもあるのか、普通の暮らしでは、VISAの重みをあまり感じることもないのですが、自ら窮屈さを感じて、初めてイミグレーション制度の在り方も考えさせられることでもありました。
ルールや制度の大切さも秩序を守るということや責任ある行動を取るということで、『自由の選択』と平和と他者への社会を守る為にも必要なことだと思ってもいます。
制度があるから例外もあるというところで他者を救うことへの抵抗なく率先して行動するところもカナダの良いところではないかとも思っています。それまでは、弁護士という人と関わることもないと思っていた私は彼らの貴重さを知らず、このVISA問題で初めて弁護士のパワーを感じたところでもありました。こういう自分自身の経路があったこともあり、ビザの更新の面倒さと忘れる怖さもあって、30年以上移民ビザを更新し続けている友人よりも先に市民権を計画的にサッサと取ったのでありました。(弁護士に払う金額は高いとズッと思い込んでいたけれど、巡りに巡って弁護士自ら、『You deserve it❗️』と言われて、私の難しい件を料金を取らず、好意でしてくれたのでした。生きているとこんなこともあるんだなと感謝しています。😉)
京都には子供の頃の修学旅行や何度と訪れることも多くて、大人になってよくお寺や神社に通うようになってからは風水や占いに頼ることもあって、よく訪れていた記憶もあります。
私がナース時代に最初『生と死』に対して疑問に思ったことは、個人病院での寝たきり老人の多さでした。
このことがナースという仕事を辞めるキッカケにもなったようにも思います。
トロントに来てから、ナーシングホームでのボランティア活動をしたときがありました。日本の老人とカナダの老人の違いは、その時から大きな違いを感じることも時折ありました。車椅子の人も活動的に動いてる人たちも多く、意識の違いが大きいなとも思いました。
それから訪問看護をすることになり、一人の老人のお世話をするようになりました。カナダでは大概は自宅か施設にいる人もいますが、長期入院という設備がないことも知りました。
そして義母が、胆管炎のオペをして管をつけたまま自宅に帰ってきたこともビックリさせられましたが、自分でトイレに行くということが当たり前のようで、[マイケルのオペの時もオペ後麻酔が切れて数時間で歩かされて私が車で運転して自宅に帰り尿パック付きで数週間自宅ケアでした。プライベートホスピタルでさえも入院設備はなく、オペ後は多くの人たちは隣にもある近くのホテルで滞在をして、尿パックが取れた時点で飛行機で帰る人たちが多かったようです。私たちは幸いにも車で10分くらいの距離で、この時、オシッコの色がクリアになったら、自宅で尿パックを抜いていいとのことで、その後お祝いで気分良くビールで乾杯とイタリアンレストランの外食先でオシッコが出ず,(私はアルコール飲料はダメ🙅♀️って言ったけれど、本人が😤飲みたいと❗️本人も死にそうだったようで反省してました。😅)急遽緊急外来で病院に訪れて再度尿パックを入れてもらうという事態に焦りました。💦この時に判明するのですが、高級な$20000もするプライベートの病院の尿パックとテープが公共のOHIPというカナダのオンタリオ州の保険で賄われてる大きな病院の方が良品質であるということが!]
次の日には訪問看護としてナースが手当てと様子を見に来ていました。
日本の病院でナースとして胆管炎の患者のお世話をしたこともあったので、随分と傷の治りも早いように感じました。
そしていよいよ腸のつまりで、救急外来に行ったら緊急オペで人工肛門を造設して1日入院して帰ってきた時は、驚き以上に彼女の芯の強さに圧倒されたのを思い出します。
そして次の日のナース訪問では、ナースがテープを反対にしていたため人工肛門のパックが落ちてしまうというトラブルも乗り越えて、その手入れの指導に数週間通ってきてくれていたそうです。ハズバンドの義父は、家族の一員の中からプライマリーケアの一任者としてナース訪問の時に一緒に指導されたそうです。
私も少ない経験でしたが、偶然にも人工肛門の患者ケアもしたことがあったので、種類やテープや皮膚の管理の改善の仕方など口に出したり手伝ったこともあるのですが、時折のインシデントに恥ずかしい思いをしながらも強く生きる姿勢を保持してる義母も人口尿のオペをした頃からドンドン痩せていくのがわかりました。
2015年の9月に義母が亡くなったのですが、
その年の初めには自分の葬式の手配を自分で始めて、ユダヤ教のラバイを探して、予約して面接したりした中で、若いラバイに決まったそうで、自宅にも招いて相談していたようです
私たちも一緒に亡くなった後の訪問でいろいろ話も聞くことができました。
お墓もすでに予約していましたが、石の色とデザインは義父に頼み、御棺の材質や色を選び、式の内容も彼女がラバイと一緒に何日間か相談しながら決めていたそうです。
そしてその年は自分の3月には女性だけでのアフターヌーンティーパーティーを自分の誕生日の月と毎年恒例だった義父とマイケルの誕生日の月でもあり、結婚記念日でもある7月の夏のホームパーティーを開催して、彼女にとっては最期に皆様とのお別れのパーティーだったんだと、終わってから思うようになりました。
いろいろ年月を得て、
その時のことが蘇ってくることもありますが、
その当時カナダがすごいなと思ったのは、
霊気マッサージを終末ケアに保険で効くように取り入れているところでした。
病院に入院制度を取らない終末期ケアとして訪問医療が進んでいることも驚きでした。自宅にベッドや点滴セットが設備されてドクターとナースが手当てにきます。
病院からリクライニングできるベッドがすでに数週間前に自宅に運ばれてきており,訪問看護で点滴をしていた義母は、終末期ケアの準備は自宅のベッドにされていて、彼女の娘であるエイミーの話から、
家では死にたくないという義父への計らいから、
早めに病院に行って死ぬというところまで、彼女の計画通りと思っていましたが、義父がなかなか救急車を呼べずに、母を苦しませたんじゃないかということもあったり、夜中の0時を超えてから私たちも側にいたのもあって、息も荒くなってきていて救急車を呼んだのでした。
消防車隊員たち数人にシーツごと抱えられて、救急車で病院まで向かいました。しばらくは落ち着いているからと言われて、私たちは一旦は家で寝ることにして、
それから次の日の昼間電話で呼び出されて車で向かって、家族に見守られて病院内の一角の特別な終末期ケア専用の部屋で亡くなりました。
今回思ったことは日本でも同じように家族の決断は近ければ近いほどというか、覚悟がなかなかできていない人や思い方によって愛する人の死への決断の難しさを感じました。
そして2016年に
カナダでも『死の選択の自由』というかMAID(Medical assistance in dying) という制度ができて、
このパンデミック中の
2021年3月にもMAIDの制度の中でも
大きく法律が変わる身体的な痛みによるだけではなく精神的にも自ら死を選択して医療の力でアシストできる制度の変更がありました。
多くはがん患者の痛みに耐えかねない要望のようですが、80代になろうとしてる義父の友人もこのMAIDによって2021年に自らの意思で死を選んで生前葬をして亡くなったそうです。
80%以上の人が65歳以上ではあります。
私も未だにこの件に関しては、グレーゾーンというやはり死に近づきながらなかなか死ねないという年齢に近づいて始めて、この問題意義に気づくというか、自分のこととして考えてはじめて自分の終わりの選択を考えさせられました。
愛する人や家族には自分よりも長く生きてほしいという願いも強くなるのも事実でした。
私の祖父母は高齢で寿命時期ということもあり、私の目の前での突然死だったこともありますが、自分の両親も高齢とはいえ、持病を持ち父に関してはがんサバイバーで70代と母も介護手帳を持つ自己免疫疾患の80になったところ、未だに元気に仕事を楽しんでしている上、パンデミック中もラジオ体操に励んだり、1日8000歩の散歩をしたりと活動的で、マイケルの父親もがんサバイバーで80になろうとしていますがデートを楽しんだり、元気に会社を運営して車の運転もしていますから日本で言う介護に追われることもない状況ということ、
私たち中年世代は昔の同じ年齢にしてはみんな何故か若い気もします。
それでも医療やテクノロジーの発展もあってか、長生きの傾向が強く特に高齢人口が高い日本では介護の問題も大きくなってきているようにすでに私が日本でナースしていた時から変わらずその問題に悩み続けている医療従事者や家族の人たちの声はよく聞きますが、当の本人である介護されている老人たちの声はどうなんでしょうか?
当事者の死への意見を聞いてみたくなりました。
私は今の年で早くに亡くなった友人や家族や親戚の死を経験して、自分の死のことも、両親が思ってる死のこともお互いに話す機会となったようです。
養老孟司先生の『へんしん』という言葉、
変身でもあるし、変心でもあるような?
現在の位置を確認すること、
生きることにおいて、
『自分ってなんだろう?』と、
再び考える時間となったようです。
あの時霊気マッサージを定期的にしてもらっていた義母が病院に運ばれる前に、
ナースをしながら、アロマサロンを経営していた経験でアロマを使って沐浴を顔と胸元と手と足をすることができて私的にも自分なりの死への儀式ができて良かったと思っています。その時の最期の会話が今でも心に強く残っていて、
自分なりのお見送りとしてサヨナラをすることは大事なことだとも思っています。
そして、【生と死】では、
制度がシッカリとあることで守られる自由もあることを知りました。
ワクチン接種に関しても、
なんでも訴訟すると言われるアメリカやカナダでさえも、ワクチン接種後のリアクションにとっての訴訟が少ないのも、
接種する前に、シッカリと覚悟して自ら決めた上でサインをして承諾した上で受けることや接種後のフォローアドバイスがあるからではないだろうかと思っています。
本当の自由には
選択があるということと
制度に平和に守られているということ
世界が平和であるために!
いつも
ありがとうございました。
私は『死に方』にその人の『生き方』が現れているんだなと思うようになりました。
読んでくれてありがとうございました。
続く
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