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関係性の”名付け”について考えている。

私はまっちゃんが好きだと思う。でも恋愛的な意味においてかどうかは、よく分からない。性愛的な意味においてかどうかも、よく分からない。

私たちの関係が何かをかっちり決めて名付けてしまうと私たちの関係にとってよくない気もするから、とりあえず分からないということにしてすぐには決めたくない、ここを焦って深掘りしたくない、という感じでもある。

長い間、私はポリアモリーとは言っても限りなくリレーションシップアナーキーに近いかたちで関係性を運営してきた。”付き合う”が何をしてどうなることなのか分からないから、誰かに「好きです」と言うことはあっても、「付き合ってください」と言うことはなかった。

と同時に、「付き合ってください」と言われて断ったこともなかった。”付き合う”が分からないから、断りようがなかったのだ。私には”付き合う”が何か分からなくても、相手が”付き合う”が何か分かっていて、それを私に望んでいるなら、別に喜んでくれるんだし断る理由はなかった。実際”付き合って”みて、相手の考えてる”付き合う”が自分にとって心地いいものじゃなかったら、それはその時話し合えばいいし。

でも、数年前からその感覚が変わってきた気がする。”付き合う”が何か分かったわけじゃないけど、”付き合う”ということの効用は分かるようになってきた。つまり、「私達は付き合っています」「私達はパートナー同士です」と言うと、第三者に”私達”をある意味で大切にしてもらえる、ということだ。それに気づいて、好きな人を自分が大切にするだけでなく、自分の周りの人達や世間からも大切にしてほしいと願う時、”付き合う”ということのある種の価値が分かってきた。

”付き合う”とか”パートナーである”ということは、その関係性の中にいる当事者達にとって意味や価値をもつものではないと思う。少なくとも、私にとっては。私が私の好きな人と地球上に2人きり(私の場合は3人きりとか、4人きりもあるけど)だったら、付き合う付き合わないとかパートナーになるならないとかいうことには意味がない。少なくとも私個人は、”付き合う”が何か分からない以上、「付き合ってるから」「パートナーだから」という理由で相手に対する態度や行動を変えたりしないから。(相手がそれを望めば、たとえ地球上に2人きりだったとしても、”付き合う”だろうけど)

だけど、私達の関係の外にいる第三者や世間にとって、私達の関係の”名付け”ーーパートナーであるとかないとか、付き合っているとかいないとかーーは、「その人達をどう取り扱うか」において意味がある。

だから私は、数年前から「私達を第三者からどう取り扱われたいか」ということ、「そのために私達の関係をどう名付けるか」ということを考えるようになった。有り体に言えば、誰かを好きになった時に「好きです」と言うだけでなく、ときにはパートナーになることを望んだりもするようになった。

…いや、パートナーになることを望む、というのは少し違うかもしれない。もっと厳密に言えば、「パートナーと呼んでもいいですか」「パートナーだと言ってもいいですか」と尋ねるようになった。

相変わらず、パートナーとは何かを私が理解したとは思えないし、”付き合う”が何をしてどうなることかを理解したとも思えない。だけど、「第三者にパートナーと認知されること」がどういう意味をもつかという点はなんとなく理解したからだ。世間の認識する”パートナーてこういうもの”がふわっとあって、(私がそれに納得しているわけじゃなくても)そう認知されることで発生する効用を得たい場合には、じゃあパートナーだってことにしときませんか、みたいな感じだ。

「パートナーと呼んでもいいですか」と、「パートナー同士になりませんか」は私の中で違う話だ。パートナーが何か分からないから、パートナーになろうとは当然言えない。ただ、パートナーが何か分からなくても、パートナーと呼んだり呼ばれたり、パートナーだと第三者に紹介することはできる。私が求めているのはその効果だと思う。

そういう意味で、まっちゃんをパートナーだと言っておいた方がいいだろうな、とは思う。特に明確に意識してまっちゃんと決めているのは、私達のうちどちらかが救急車に乗せられるような事態になったら、救急車に一緒に乗れるようにパートナーだと言おうね、ということだ。嘘か本当か分からないけれど、誰かが救急車に乗せられる時、そばにいる人が”友達”だと言うと一緒に救急車には乗れないけど、”パートナー”だと言えば乗れるらしい。そんなバカな話があるか、と思うし意味不明な理屈だけれど、現実問題として一緒に救急車に乗れた方が何かと助かるだろう。だから私達は、私達が私達の関係性を何と名付けたいかとは別の問題として、救急車に乗る時には「パートナーです」と言おうね、と約束している。

で、実際のところ、私とまっちゃんがパートナーかどうかは、曖昧な感じだ。というか、まっちゃんは”パートナー”という名付けを使いたくないと言っているし、私は”友達”という名付けを使いたくない。まっちゃんは私から「パートナーです」と紹介されたくないし、私はまっちゃんから「友達です」と紹介されたくないということだ。もちろん、私はまっちゃんを「友達」と呼ぶこともしたくない。うまく言えないけど、世間が思う”友達”よりもっと親密でもっと大切な存在だ、ということを表現したい。

「要は私がまっちゃんに片想いしていて、まっちゃんは私のことを友達としか思っていないということじゃないか」と言われそうだけど、その表現だとちょっと恋愛に寄りすぎる。それに、まっちゃんにとって「友達」というのは世間一般に言われる「友達」よりはるかに親密なものらしいので、ややこしい。まっちゃんにとって誰かを「友達」と名付けることは、正直、私が誰かを「パートナー」と名付けるにも等しいような濃度の好意をもつことらしいのだ。

私にとって「友達」になることのハードルはとても低くて、1回会っただけでも、なんならTwitterの相互フォローなだけでも相手を「友達」と呼んでしまうのだけど、まっちゃんの「友達」になることのハードルはものすごく高いらしい。だからまっちゃんは「自分には友達が少ない」とよく言うけど、それはつまり、世間一般的な解釈で言うならまっちゃんにも「友達」はいっぱいいるけど、まっちゃんの中の定義では「友達」はもっと親密でもっと濃い人間関係に対して使う言葉だから、結果的に「友達が少ない」という表現になっているらしいのだ(だから実は、まっちゃんが「友達が少ない」というのを聞いてショックを受けている「自分が『まっちゃんの友達』だと思っている人」というのは大勢いる。言葉の定義が違うとこういうある種のすれ違いが起こる…)。

それに、まっちゃんはアロマンティックで、アセクシャルでもある。だから、まっちゃんは人間関係を「恋愛感情があるかないか」「性欲があるかないか」で区別しない。だからまっちゃんにとっての人間関係は、友達とパートナーという区別をもたないし、そういう意味では「友達」が親密性において最上位の名付けともいえる。それは私の価値観とも、世間の価値観とも違う。まっちゃんと私と世間、この三者間における「友達」や「パートナー」といった言葉の使い方が違うから、なんか難しいのだ。

だから考えあぐねた挙句、最近はまっちゃんのことを「ツレ」と呼んでいる。「ツレ」というのは実は、関西にいる私の別のパートナーが使っている名付けでもある。その人は私のことも、親密な友人のことも、引っくるめて「ツレ」と呼ぶ。関西っぽいその表現を私は気に入っている。伴侶やパートナーを指す時も使えるし、一緒につるんでる友達、みたいな使い方もできる。その曖昧さが便利だと思う。

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