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こどもを見ることは、自分を見ること

わたしと息子は今日の小学校はどうだったか、毎日夕飯時に聞いている。だんだん大きくなると言いたいことも言わなくなるようで不安だが、いつも話してくれる内容は、Sくんが面白いことしてみんなが笑っていたとか、廊下を走っていたOくんが先生に怒られていたとか、Mくんが体育の授業で走るのが遅かったりするとKくんが太りすぎだよとか、大半が他の子の話しだ。息子自身はどうだったのか聞いても「普通だった」しか言わない。きっとだれとも話をせずにずっと他の子を観察しているのか、ほんとはいじめにあったりしているのか、どうなんだか。

きっと挨拶もボソボソとしていたり、声をかけられてもウンとうなずくだけだったり、他の子に声もかけたこともないから、ほんとはこうしたいと思っても声をかけられないので未解決のままにしていたりで、ストレスが溜まってこないか、しまいには登校拒否をおこさないか心配である。

思い出すのが、わたしが小学1年生のとき左利きを右利きに直すために担任の先生がわたしの右手に鉛筆を持たせその上からテープでぐるぐる巻きにされたことで、登校拒否をした経験があるからだ。それを親には言えなかったが、すぐにバレ「左利きのままでいいから学校行きなさい。」と言われ、親と先生の板挟みでつらかったのを覚えている。

むかしと違い、今は絶対に学校に行くということが段々薄れてきているので、学校に行きたくなければ行かなくてもいいのになぁと思う。が、じゃあその時間家で何をするのか疑問である。今の自分なら、学校へ行かない分たくさんの本が読めるのにと思うのだが、当時の自分を思い出すとたぶんテレビを観たり、絵を描いたりしていたのか。よく「好きなことをすればいい」とか「やりたいことをすればいい」とか聞きますが、小さい時にみんながそんなに好きなことやりたいことってあんのかなぁと疑問に思う。そこまでこどもは深く考えているのかはわかりませんが、こどもを見ると自分が見えてくるようです。

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