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「嫌われる」より「意味がわからない」のほうがしんどい


年賀状書きがしんどい


先ほどまで年賀状を書いてました。


年賀状って、ほんと好きじゃないー。はっきり言ってキライー(笑)


数年前から、“まあ今後、会いそうにない人”(たとえば学生時代の友だちで卒業してから会ってなかったり、年賀状のみでやり取りしてる人)に、こちらから送るのはやめました。

そうすると年賀状を書く枚数が激減してチョー楽になったんですが、親戚向けに数枚は書きつづけています。


そのほんの数枚なのに!!!めっちゃ苦痛!!!


だからこの年の瀬ギリギリの大みそかに書いてました。(書いてるというより、年賀状を目の前にウロウロしている時間の方が長い)


わたしにとっての「書く」とは


なんでこんなにイヤなんだろうかと考えて、思い当たったのが「書くことがない」のと、「(相手を)気になりもしない」からだ、ということ。


わたしにとって「書く」という行為は「言いたい」ということであり、「気になる」ということは「相手の気持ちや近況を聞いてみたい」ということで、対面と同じ。


この人に「言いたい」、この人の「気持ちや近況を聞いてみたい」その気持ちがあるからこそ、書けるし、会いたくなる。


別にこちらから言いたいこともなく、相手の近況を聞いてみたいとも思わない人に、書きたいことはないし、会いたくもならない。


今まではそういう考え方を「自分が冷たいからなのかもしれない」とかなり後ろめたく感じていましたが、今年「洞察系HSP」という概念に出会ったことで「うーん、じゃあ仕方ないよねぇ~」という感じに後ろめたさが減りました。後ろめたさが減る=自分責めが減る。

「それをやる意味がわからない」のが苦痛


思えばコドモの頃から、“自分にとって意味がわからないこと”を「そういうもんだから」とやらされるのが本当に苦痛で。世間にもまれるうち、かなり心を殺していろいろとできるようにはなったんですけど。


『他の人はみんなは苦も無くやっている(ようにわたしには見える)のに、自分はもう直感に近く、反射的に心底「うわ、ヤダ」と思ってしまうこと』それらの根っこをよーく考えると、“それをやる意味がわからないと思っている”ということにたどりつくんですよね。


たとえば「それをやらないと嫌われるよ」と言われるようなことがあるとします。昔々は「嫌われる」ということが別に平気というかそれほど脅威に感じてなくて、それよりも「意味がわからないことをやらされる」ことのほうが苦痛で不愉快だったのに、「それをやらないと嫌われる」という恐怖を植え付けられ、しだいにそれは大きな動機(というか脅し)になり、「意味がわからないからやりたくない」という苦痛を殺し長年それをやっていました。


でも、今また「嫌われる」怖さより「やりたくない」苦痛が優勢になってきたので「意味がわからないからやりたくない」を優先している、といった感じ。「意味がわからないからやりたくない」そんな理屈は通用しないこともわかっているけど本能的にマジでカンベンしてほしいのが洞察系だと思います。


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