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挑戦の異名は

最近、オンラインサロンでも個人でも、積極的にライティングや編集、取材に取り組んでいた。

とくにオンラインサロン(箕輪編集室、前田デザイン室)では、かなり精力的に活動しているつもりだったけど、実際に自分を省みると決してそんなことはなかった。やることが増えるにつれて「大変だ」などと思っていたのに、今は「なにもしていないじゃないか」という気持ち。

というのは、オンラインサロンなどでゴリゴリと活動をしたり、取材をさせてもらったり記事を書いたりというような「ライター」としての活動はしていたのだけれども、職業ではない「自分個人」のしたいことや、学び、鍛錬といったことを怠っていたのに気づいてしまったのだ。

たとえば、こうしてnoteを書き綴ること、ブログを毎日書いていくこと、筋トレをすること、読書をすること、ランニングをすること、好きなバドミントンをすること、竹村さんやライティングの上手な人たちの文章を手書きで起こして分析すること、映画を見る時間をもつこと......。(noteもブログも文章研究も "ライターとして” やっているわけではないので、ぼくが個人的にしたいことだ。)

これらはすべて「肩書きではなくイチ人間としてのぼく自身が成長するため」に必要だと思うことだ。そもそも日課に取り組むこと自体が自己鍛錬になるし、日々の行動は歩いた軌跡となり、実績になる。逆に、日々自分に行動目標を課していかないと生きていても張りが出ない。

自分が何者であるかを問われるのは、役職でも名誉でも財力でもなく、「なんのために、なにをしてきたのか」だと思う。どこかの組織のなかではこんな役職を名乗っているとか、立場とか所属とか、そんなことは、枠から出て生身の人間ひとりになってみればなんの力も持たない。つまり行動こそ肩書きになる

それは生活のなかでこそ試される。たとえば、会社では役職に就いて肩書きをもち、ふだんは部下を厳しく指導する上司が、家に帰っては、だらけて怠慢に過ごし、家事もろくにせず、自己成長の努力もせず、不満を抱えながらものうのうと日々を過ごしていたとする。その人を表すのは果たして肩書きなのだろうか。要は、何をもって自分を自分たらしめていると言えるのかということだ。

自分を充実させるのは、自分を高める努力でしかないと思う。高めるというのは他人との比較ではなく、目指す理想にたどり着くために成長させるという意味だ。つまり自分と比べて衰退か、向上かだ。

当たり前だが、目指そうと思ってないものに「なれ」といわれてもなれないし、努力をする気も起きない。これは当たり前だ。だけど、「こうなりたいな」と自分で思っている姿があるにも関わらず諦めて努力しないのは、まぎれもなく怠慢だろう。

こんな生活を送りたいとか、こんな自分になりたいとか、こんなことができたらいいのに、などと思うことがあるとしたら、それに向かって努力するだろう。しないのは自分に対して不誠実だ。月並みだが、最終的に自分を信じられるのは自分しかいないし、自分を動かすことができるのも自分だけだ。

偉そうに書き綴ったが、それなのに僕は序盤に挙げたような、自分を高めるための努力をこれまでかなり怠っていた。僕は文章を自在につかえるようになりたい。運動をして体を鍛えていたい。知識をいつも蓄えていたい。感性が豊かでありたい。実績のある人でありたい。自分の思いをこの世に残したい。そんな、たくさんの理想が僕にはある。

学生時代はバカみたいに目標を立てて挑戦し、継続に敗れてはまた挑戦し、破れてはまた挑戦を、もうそれはそれは何度も繰り返した。勉学、生活態度、部活、委員会、学外活動など多岐にわたるすべてにおいて目標を立てて自分の限界への挑戦をくり返していた。しかし、何度やっても負ける自分がどこかで信じられなくなり、挑戦をやめてしまった。これは大学を卒業してからのことだったと思う。いまになって思えば、何度負けても継続していたのは、苦しかったが正しかったのだ。

「どうせ自分はやらないじゃないか」。それならもっと楽に考えて、自分を “がんじがらめ” に縛りすぎず、できることをやっていけばいいじゃないかと考えるようになった。

結論、それは逃げだった。一時的な安楽を求めるための避難所のような意味合いもあったが、結局は自分への挑戦を止めていたのだ。自分を「疑う」ならいい。疑念から研鑽や対話が始まるからだ。そのとき僕は「信じられない」状態になってしまった。自己への冒涜だ。この姿勢は当時の仕事にも反映されていった。

「限界を求めなければなにも得られない」。これは僕がそんな消極の時代を経て気づいたひとつの真理だと思う。限界を求めないなんとなくの日々では、なんとなくの自分ができあがるだけだ。自分を理想に近づけ、満足させる何かを得ることは到底できない。

だから僕はもう一度やろうと思った。

挑戦は面倒くさい。辛く、苦しく、しんどい。やり始めてしまえばいいが、不安と怠慢を押しのけて動き出すまでがキツい。面倒くさいことを続けることはだれしも嫌だ。だけど、だからこそやる。自分を成長させるには、嫌なことに挑戦していく以外にない。面倒くさいことをやり続ければそれがいつしか当たり前になり、もはや面倒ではなくなる。自分の新たな日常になる。

それを勝ち取った人間は強い。芯ができていく。人間の芯。人格の幹。人としての根幹をつくる作業だ。自分の本質とは何なのか。それを求道する作業だ。

挑戦を止めれば、もはや何者でもない。会社の肩書きも所属も取っ払ってしまえば、行動でしか自分を名乗ることはできない。だからまさしく、僕が僕であるために勝ち続けなければならない。

挑戦の異名は生(せい)の実感だ。挫折は次なる挑戦のバネだ。「もうだめだ」ということは決してない。だから今日も挑戦を続けよう。



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