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案外 書かれない金継ぎの話 Spinoff 9 金継ぎで漆が乾かなくなる理由

金継ぎを始めたばかりだと勝手が分からず漆が上手く乾かない(固まらない)事があります。本編でも漆が乾かなくなる理由を小出しにしていますが、今回はそれも含め金継ぎで漆が乾かなくなる理由と対処についてまとめておこうと思います。

金継ぎで漆が乾かなくなる原因を大別すると
1.乾かす時の環境やタイミングを誤っている場合
2.対象物が調整されていない場合
の2つになります。1は漆器制作にも当てはまる原因なので金継ぎのハウツーで解説されることも多いのですが、2はレアケースに該当するため殆ど解説されることがなく、また、1とは全く異なる原因なので知識がないと漆が固まらない理由が分からず修理不能で終わってしまうこともあります。陶磁器を直す場合2の知識は必要になります。

乾かす環境とタイミング

A.温度の問題

漆が固まる理由はウルシオールの酸化重合(酸素を使った結合)によるものですが、これは、酵素の介助によるカテコール部分の酸化重合、酵素を用いない側鎖そくさ部分の酸化重合という2つの異なる反応の合わせ技になっています。酵素の介助による重合は高速で24時間以内に終了し、酵素を用いない重合は低速で数か月~半年かかって終了します。2つの重合は、いずれも化学的な反応なので温度による影響を受けます。

漆に含まれる酵素は銅イオンを含んだタンパク質で、活動出来る温度域は15~40℃とされています。15℃前後で反応が低下し10℃以下では休止します。逆に40℃前後でも反応は低下し50℃を超えると熱変性し元に戻れなくなります(人も体温が42℃を超えるとタンパク質が変性し重篤じゅうとくになるので理解しやすいと思います)。
漆を固めるには(マージンを取って)20~30℃の温度が必要とするのはこうした理由によるもので、この温度域を逸脱すると酵素の活動に影響が出て作業が頓挫するわけです。
従って、酵素が活動を終えるまでは20~30℃の温度域を維持する必要があります。

カテコールの重合が終わると、側鎖の重合のみになります。酵素の活動温度域ほどシビアな温度管理は必要ありませんが、低温になると化学反応は鈍化するので15℃以上を維持する必要があります。
夏は何処に置いても大丈夫ですが、冬は15℃を下回る可能性は高いので、温かい部屋で保管、場合によっては電気カーペットに置いて保温することもあります。
なお、100℃を超えるとウルシオールは酸化重合が加速する性質があり、金属への塗布では「焼き付け」により酵素の介助を使わずウルシオールを固めます。陶磁器でも稀に焼き付けする話を聞きますが、漆には良いでしょうが、陶磁器の温度負荷を考慮すると個人的にはお勧めしません。

B.湿度の問題

漆を乾かすには湿度が必要という話は、雑誌のちょっとした紹介記事でも書かれるほどの漆あるある事項です。適湿域は60~80%程度とされていますが、下限と上限がある理由を説明します。

下限の理由は、酵素が銅イオンを利用し水(H2O)から酸素(O)を取り出して酸化重合に利用するからです。酵素は樹液の水滴の中に居て、周りをウルシオールで囲まれているため空気中の酸素を直接利用することが出来ません。そのため、(ざっくり言うと)ウルシオールを通過してくる水分から酸素を取り出すという秘策を使うわけです。それにはウルシオールを通過するだけの十分な水蒸気量が必要になります。
また、低湿度で蒸発する水の方が多くなると、酵素の居る水滴が小さくなってしまいウルシオールとの接触面積が減りカテコールの酸化重合が十分に行われないまま酵素は失活してしまいます。そうならないよう湿度60%以上を目安とするわけです。

上限の理由は、ウルシオールの乾きむらが起こらないよう調整するためです。酵素は湿度が上がると、どんどん仕事をしてウルシオールを酸化重合させます。しかし、湿度過多になると表層の酵素の仕事が早すぎて、下層の酵素まで水分が行き渡る前に表面を固化してしまいます。固化した層は水蒸気を通しませんので、下層の酵素は酸素を取り出すことが出来ずウルシオールは固まらなくなります。刻苧や錆漆は硬化不良、下地や赤漆は縮みの発生という不具合になります。そうならないための上限が80%なのです。

なお、漆を乾かすための湿度が必要なのは酵素がカテコールを酸化重合する時だけで、酵素が失活した後、側鎖の酸化重合だけになると湿度条件は無くなります。湿度を気にして何日も漆室うるしむろに器を入れている方がいますが、漆室は酵素が働くと同時にカビや細菌が育ちやすい条件の整った場所でもあります。器に菌が付いて黒ずみや臭いの原因になるので、1~2日を目安に漆が乾いているのを確認したら漆室からは出すようにしましょう。

温度と湿度は高すぎても低すぎても、漆が固まらない原因になります。
難しいのは、温度と湿度のバランスの最適値はケースバイケースで、常に同じ値にすれば上手くいくわけではなく、使用している漆の種類や作業内容によって変化します。また、温度と湿度はあくまでも計測器周辺の近似値しか分かりません。器が置かれた空間と計測器では誤差を生じる可能性もあり、特に高さのある器は上下の誤差が大きくなるので、結局のところ温湿度の最適値を得るには経験が必要になります。

対象物の調整

漆の硬化には温湿度調整に加え、pH(ペーハーまたはピーエイチ)環境が大きく関わってきます。pHは水溶液の水素イオンの濃度を計算した値ですが、分かりやすく言うと酸性アルカリ性かを示す値で、pH1~6が酸性、7が中性、8~14がアルカリ性と分類され、簡易的にはpH試験紙の色の変化で近似値を計測することが出来ます。

pH試験紙:テープを任意の長さに切って使用する

陶磁器のpH環境

漆はpH4~5の酸性の樹液ですが、漆を塗る対象物が強い酸性やアルカリ性になると酵素が失活し固まらなくなります。そのため対象物は中性になっている必要があります(特殊な環境で固まる改良された漆もありますが、ここでは金継ぎで通常使用する天然漆を対象として話を進めます)。
陶磁器は酸性でもアルカリ性でもありませんが、多孔質なので使用環境でいろいろなものを吸収・吸着し、蓄積が長期に渡ると漆の乾きを阻害する条件になることがあります。具体的には、食用油や酸性洗剤が蓄積すると酸性、天然塩や漂白剤(塩素系漂白剤)が蓄積するとアルカリ性になります。長く使用している食器の場合は勿論、保管環境によっては骨董品こっとうひんもミネラルが蓄積しアルカリ性が強くなったりします。
釉層に付いたものは洗浄で除去することが出来ますが、素地に蓄積したものを綺麗に除去するのはほぼ不可能です。陶磁器の修理は大抵、素地と漆が触れるため蓄積したものの影響を受けやすくなります。

陶磁器の調整

素地に蓄積したものを完全に除去することは難しいですが、修理箇所周辺の酸性やアルカリ性を改善することは可能です。具体的な対処法は以下になります。

まずは、出来るだけしっかりと洗います。高圧洗浄機をお持ちの方は使用をお勧めしますが、小さな破片は高圧で吹き飛んで失くしてしまうこともあるので、大きめの破片だけに使いましょう。
洗浄が終わったら、水を拭き取る前にpH試験紙を修理箇所に当てて色を確認します。pH6~7であれば対処完了です。

pH試験紙が酸性を示す場合(赤色が強くなる場合)は、アルカリ性溶液をティッシュや綿棒に染み込ませ、修理箇所に当ててしばらく置き中和を行います。
強いアルカリ性溶液を使うと中和するつもりがアルカリ性になってしまうので、重曹水や希釈した逆性石鹸(ベンザルコニウム塩化物液)のようなあまり強くないアルカリ性の水溶液を使用します。重曹水や逆性石鹸は人体への影響は少ないですが、一応ビニル製手袋はしておきましょう。
中和作業をしたら修理箇所を洗浄し、pH試験紙で計測します。中和が不足している時は中和作業を繰り返します。

pH試験紙がアルカリ性を示す場合(青色が強くなる場合)は、酸性溶液をティッシュや綿棒に染み込ませ、修理箇所にしばらく当てて中和を行います。
酸性溶液で安全かつ確実なのはクエン酸水です。100円ショップの洗剤コーナーで購入できますが、界面活性剤の入っていないものを使って下さい。クエン酸粉末を購入し水道水に溶かすのが、最も純正になります。洗浄用クエン酸で問題ありませんが、安全性を重視したい方は薬局で食用クエン酸を購入して下さい。なおクエン酸は強酸性なので必ず水で希釈するようにしましょう。クエン酸粉末をそのまま素地に塗りこんではいけません。
中和作業をしたら修理箇所を洗浄し、pH試験紙で計測します。中和が不足している時は中和作業を繰り返します。

物凄い綺麗好きで毎週漂白剤で器を殺菌しているとか、先祖から受け継いで古い蔵にずっと保管していた器とか、蚤の市で購入した流通経路が分からない古陶磁器とか、そういったものでなければ修理前に陶磁器のpH環境を測定してから作業をする必要はないと思いますが、温度と湿度が適切なのに漆が固まらい場合、蓄積物による影響も考慮してみて下さい。

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