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歌行燈

泉鏡花の小説『歌行燈』を読みかえしています。
もう何度読んだでしょうか。小説オールタイムベストをあげよといわれたら、真っ先に思い浮かぶ作品のひとつです。

『歌行燈』が発表されたのは明治43年、いまから100年以上前ですが、鏡花が紡いだことばは時の試練に耐え、今も変わらずいきいきと呼吸しています。すこしも飽きることはない。これからもきっとそうでしょう。

この作品の魅力を挙げればきりがないのですが、たとえば冒頭部分を読むと、流れるような語り口にのせられて、現実からスーッと引き離されてゆくような心地がします。

宮重大根(みやしげだいこん)のふとしく立てし宮柱(みやばしら)は、ふろふきの熱田(あつた)の神のみそなわす、七里のわたし浪(なみ)ゆたかにして、来往(らいおう)の渡船(とせん)難なく桑名(くわな)につきたる悦びのあまり……
と口誦(くちずさ)むように独言(ひとりごと)の、膝栗毛(ひざくりげ)五編の上(じょう)の読初(よみはじ)め、霜月(しもつき)十日あまりの初夜(しょや)。中空(なかぞら)は冴切(さえき)って、星が水垢離(みずごり)取りそうな月明(つきあかり)に、踏切(ふみきり)の桟橋(さんばし)を渡る影高く、灯(ともしび)ちらちらと目の下に、遠近(おちこち)の樹立(こだち)の骨ばかりなのを視(なが)めながら、桑名の停車場(ステエション)へ下りた旅客(りょかく)がある。
月の影には相応(ふさわ)しい、真黒な外套(がいとう)の、痩(や)せた身体(からだ)に些(ち)と広過ぎるを緩く着て、焦茶色(こげちゃいろ)の中折帽(なかおれぼう)、真新しいはさて可(い)いが、馴れない天窓(あたま)に山を立てて、鍔(つば)をしっくりと耳へ被(かぶ)さるばかり深く嵌(は)めた、あまっさえ、風に取られまいための留紐(とめひも)を、ぶらりと皺(しな)びた頬(ほお)へ下げた工合(ぐあい)が、時世(ときよ)なれば、道中(どうちゅう)、笠も載(の)せられず、と断念(あきら)めた風に見える。年配六十二、三の、気ばかり若い弥次郎兵衛(やじろべえ)。

「歌行燈」明治43.1

――ときは「霜月十日あまりの初夜」、『東海道中膝栗毛』の引用にはじまり物語の舞台となる桑名にふたりの老客が現れる。歯切れ良いことばのリズムに合わせて、桑名の夜の風景が映画のワンシーンのように浮かびあがる。描写のうまさに毎回唸らされます。

『歌行燈』が発表される前の年の11月、鏡花は文芸革新会の人たちと連れ立って名古屋・伊勢を旅して物語の舞台となる桑名を訪れています。桑名に到着したのは11月21日の夜、つまり『歌行燈』冒頭に登場する老客二人と同じく霜月の晩に桑名に降り立った鏡花がいた。
その事実がことばに奥行きを与えているのでしょう。霜月のころになると、誘われるように『歌行燈』を読んでしまいます。今年も、やはりそうでした。

ストーリー全体としては能を題材にしており、作品構成にも能の影響がうかがえます。さらに、一つひとつの語りにも能の詞章を思わせる趣があって、能鑑賞に似た、深く潜ってゆくような感覚も得られます。
そんな読書体験は何ものにも代えがたくて、何度も読み返す。

谷崎潤一郎は、鏡花とその作品についてこう述べています。

自分は今「独得」と云ふ言葉を使つたが、事実先生ほど、人に異なる「独得」な世界に遊んだ作家は少い。傑れた藝術家がいづれも顕著なる個性の持主であることは云ふまでもないが、でも先生ほど、はつきり他と区別される世界を創造した作家は、文学史上稀であると云つてよい。
(中略)
兎に角、外国の文学を見渡しても、鏡花は誰にも最も似るところの少い作家の一人である。
ところで、斯様な極めて異色ある境地に住する作家は、やゝもすると陰鬱であつたり、ひねくれてゐたりするものだけれども、此の作家はさうでない。此の独得の世界、われ/\が呼んで「鏡花世界」と称するものゝ中には、しば/\異常な物や事柄が扱はれてゐるにも拘はらず、そこには何等病的な感じがない。それは時として神秘で、怪奇で、縹渺としてはゐるけれども、本質に於いて、明るく、花やかで、優美で、天真爛漫でさへある。さうして頗る偉とすべきは、而もその世界が純粋に「日本的」であると云ふ一事である。

「純粋に「日本的」な「鏡花世界」」昭和15・3

中島敦はこう述べています。

日本には花の名所があるように、日本の文学にも情緒の名所がある。泉鏡花氏の芸術が即ちそれだ。と誰かが言って居たのを私は覚えている。
(中略)
私がここで大威張りで言いたいのは、日本人に生れながら、あるいは日本語を解しながら、鏡花の作品を読まないのは、折角の日本人たる特権を抛棄しているようなものだ。ということである。

「鏡花氏の文章」昭8・7

どちらの文章も、決して言い過ぎではないとおもいます。


ことしの霜月は、『歌行燈』を読み返すだけでなく、鏡花の代表作のひとつ『天守物語』をシネマ歌舞伎で観ました。
シネマ歌舞伎は、歌舞伎公演を高性能カメラで撮影して劇場スクリーンで上映する試みです。2023年11月4日の泉鏡花生誕 150 周年を記念して、今秋は、坂東玉三郎さん主演の4作品『天守物語』『海神別荘』『高野聖』『日本橋』が全国で上映されました。
『天守物語』は読んでいましたが、歌舞伎として接してあらためて感じ入ったのは、鏡花作品のせりふの心地よさ。今回のシネマ歌舞伎上映にあたって、玉三郎さんはインタビューでこう述べています。

「こんなにバランスの取れたせりふってなかなか出会えないと思います。音楽的にできていて、1回覚えると出てくるんです」

松竹株式会社. “玉三郎が語る、シネマ歌舞伎「坂東玉三郎 泉鏡花抄4作品」”
歌舞伎美人(かぶきびと).2023/10/13
https://www.kabuki-bito.jp/news/8523
参照2023/12/01

なるほど、たしかに音楽的です。
鏡花自身は、文章と音の関係についてこんな風に記しています。

文章の死活がまたしばしば音調の巧拙に支配せらるる事の少からざるを思うに、文章の生命はたしかにその半(なかば)以上懸(かか)って音調(ふしがあるという意味ではない。)の上にあることを信ずるのである。
故に三下(さんさが)りの三味線で二上(にあが)りを唄うような調子はずれの文章は、既に文章たる価値あたいの一半を失ったものと断言するを得。
ただし野良調子を張上げて田園がったり、お座敷へ出て失礼な裸踊りをするようなのは調子に合っても話が違う。
ですから僕は水には音あり、樹には声ある文章を書きたいとかせいでいる。

「おばけずきのいわれ少々と処女作」明40・5

三味線の調弦をたとえに出すあたりは、いかにも鏡花らしい。

シネマ歌舞伎で『天守物語』を鑑賞して、尽きることのない鏡花作品の魅力にあらためて惹きつけられています。この冬は、生誕150年にかこつけて、普遍性と可能性に満ちた鏡花の世界にゆっくり浸りたい。
能楽愛好者としては、いわゆる〈能楽もの〉をひとつずつ読みなおすのはどうだろうと閃いたのですが、ならべてみるとこんなにたくさん……!

照葉狂言(明29)、笈摺草紙(明31)、通夜物語(明32)、鷺の灯(明36)、縁結び(明40)、七草(明42)、歌行燈(明43)、青鷺(明44)、五大力(大2)、新通夜物語(大4)、白金之絵図(大5)、継三味線(大7)、朝湯(大12)、本妻和讃(大14)、卵塔場の天女(昭2)、木の子説法(昭5)

――年内にはとても読み切れそうにありませんね。来年の目標にしようかしら。


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