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尋常小学国史

目次
第一 天照大神
第二 神武天皇
第三 日本武尊
第四 神功皇后
第五 仁徳天皇
第六 聖徳太子
第七 天智天皇と藤原鎌足
第八 天智天皇と藤原鎌足(つゞき)



第一 天照大神


天皇陛下の御先祖を、天照大神と申しあげる。大神は御徳たいそう高い御方で、はじめて稲や麦などを田畑にうゑさせたり、蚕をかはせたりして、萬民をおめぐになつた。
大神の御弟に、素戔嗚尊といふ御方があつて、たびたびあらあらしい事をなさつた。それでも、大神は、いつも尊をおかはいがりになつて、少しもおとがめになることはなかつた。しかし、尊が大神の機屋をおかげしになつたので、大神は、とうとう天の岩屋に入り、岩戸を立てて御身をおかくしになつてしまつた。
大勢の神々は、たいそう御心配になつた。何とかして大神をお出し申さうと、岩戸の外に集つて、いろいろ御相談の上
、八坂瓊曲玉や八咫鏡などを榊の枝にかけて、神楽をおはじめになつた。その時、天鈿女命のまひの様子がいかにもをかしかつたので、神々はどつとお笑ひになつた。大神は何事が起つたかと、ふしぎにお思ひになり、すこしばかり岩戸をお開きになつた。すぐさま、神々は榊をおさし出しになつた。大神の御すがたが、その枝にかけた鏡にうつつた。大神は、ますますふしぎにお思ひなり、少し戸から出て、これを御らんにならうとした。すると、そばにかくれていた田力男命が、大神の御手を取つて、岩屋の中からお出し申し上げた。神々はうれしさのあまり、思はず聲をあげて、およろこびになつた。素戔嗚尊は、神々に追はれて、出雲におくだりになつた。さうして、簸川の川上で、八岐の大蛇をずたずたに斬つて、これまで苦しめられてゐた人々をおすくひになつたが、この時、大蛇の尾から一ふりの劔を得、これはたふとい劔であるとて、大神におさし上げになつた。これを天叢雲劔と申しあげる。
素戔嗚尊は御子に、大国主命といふ御方があつた。命は、出雲をはじめ方々を平げられて、なかなか勢いが強かつたが、その他の地方は、まだまだまるものが大勢ゐて、さわがしかつた。大神は、御孫の瓊瓊杵尊にこの國を治めさせようとお考へになり、まづ御使を大國主命のところへやり、その地方をさし出すやうにおさとしになつた。命は、よろこんで大神のおほせに従つた。そこで、大神は、いよいよ瓊瓊杵尊をおくだしにならうとして、尊に向ひ、「この國は、わが子孫の王たるべき地なり。汝皇孫ゆきて治めよ。皇位の盛なること、天地と共にきはまりなかるべし。」とおほせになつた。萬世一系の天皇をいただいて、天地とともにいつの世までも動くことのないわが國體の基は、実にこの時に定まつたのである。
大神は、また八坂瓊曲玉・八咫鏡・天叢雲劔を瓊瓊杵尊にお授けになつた。これを三種の神器と申し上げる。尊は、この神器をささげ、大勢の神々を従へて、日向へおくだりになつた。これから神器は、御代々の天皇がおひきつぎになつて、皇位の御しるしとなさることになつた。
大神は、神器を尊にお授けになる時、この鏡をわれと思ひてつねにあがめまつれ。」とおほせになつた。それ故、この御鏡を御神體として、伊勢の皇大神宮に大神をおまつり申し、御代々の天皇をはじめ、國民すべてが深く御うやまひもうしあげてゐるのである。


天照大神ー天忍穂耳尊ー瓊瓊杵尊ー彦火々出見尊ー鵜葺草葺不合命ー神武天皇


第二 神武天皇
瓊瓊杵尊から神武天皇の御時にいたるまでは、御代々、日向においでになつて、わが國をお治めになつた。けれども、東の方は、なほわるものが大勢ゐて、たいへんさわがしかつた。それ故、天皇は、これらのわるものどもを平げて、人民を安心させようと、船軍をひきゐて、日向から大和へお向ひになつた。さうして、途中所所お立寄りになり、そのあたりを平げつゝ、長い間かゝつて難波におつきになつた。
天皇は河内から大和へお進みにならうとした。わるものどものかしらに長髄彦というものがゐて、地勢をりようして御軍をふせぐので、これをうち破つて大和へおはいりになることは、むづかしかつた。そこで、天皇は、道をかへて、紀伊からおはいりになることになつた。そのあたりは、高い山や深い谷があり、道のないところも多かつたので、ひととほりのお苦しみではなかつた。しかし、天皇は、ますます勇気をふるひおこされ、八咫烏を道案内とし、兵士をはげまして、道を開かせながら、とう〃大和におはりになつた。
天皇は、それから、しだいにわるものどもを平げ、ふたたび長髄彦をお攻めになつた。しかし、長髄彦の手下のものどもが、いつしやうけんめいに戦ふので、御軍もたやすく勝つことが出来なかつた。時に、空がにはかにかきくもり、雹が降出した。すると、どこからともなく、金色の鵄が飛んで来て、天皇のお持ちになつてゐる御弓のさきにとまつて、きらゝと強くかゞやいた。そのため、わるものどもは、目がくらんで、もはや戦うことが出来なくて、まけてしまつた。長髄彦も、まもなく殺された。
やがて、天皇は、宮を畝傍山の東南にあたる橿原にお建てになり、はじめて御即位の禮をお擧げになつた。この年をわが國の紀元元年としてゐる。さうして、二月十一日は、またこのめでたい日にあたるので、國民はこぞつて、この日に紀元節のお祝いをするのである。
天皇は、また御孝心の深い御方で、御先祖の神々を鳥見山におまつりになつた。かやうに、天皇は、天照大神のお定めになつたわが帝國の基を、ます〃固めて、おかくれになつた。そのおかくれになつた日に毎年行はれる御祭は、四月三日の神武天皇祭である。



第三 日本武尊
神武天皇が大和におうつりになって後は、天皇の御威光はおひおひ四方にひろがっていった。けれども、都から遠くはなれた東西の国々には、なほわるものが大勢ゐて苦しめてゐた。
(熊襲をお平げになつた)
第十二代景行天皇の御代になつて、九州の南の方に住んでゐる熊襲がそむいたので、天皇は御子の小碓尊にこれをお討たせになつた。尊は、御生まれつきくわつばつで、その上御力もたいそう強い御方であつたから、この頃まだ十六の少年でいらつしやつたが、おほせを受けると、すぐ九州へお出かけになつた。熊襲のかしらの川上のたけるは、かうしたことがあらうとは夢にも知らず、大勢のものといつしよに酒を飲んで楽しんでゐた。尊は、御髪をとき、少女の御すがたになつて、たけるに近づき、劔をぬいてその胸をお刺しとほしになつた。不意をうたれたたけるは、たいへん驚いて、「何とお強いことでせう。あなたは実に日本一の強い御方です。これからは日本武と御名のりなされよ。」と申しあげて、息が絶えた。尊は、そこで御名をお改めになり、めでたく大和にお帰りになつた。
(東国へお向ひになつた)
その後、東の國の蝦夷がそむいたので、てんのうはまた尊に、これをお討たせになることになつた。尊は、いさみいさんで都をお立ちになり、まづ伊勢に行つて皇大神宮に参詣し、天叢雲劔をいたゞいて、東の國へお向ひになつた。
尊が駿河の國におつきになつた時、その地のわるものどもは鹿狩をするからと、尊をだまして、廣い野原におさそひした。さうして、急に草をやきたてて、尊をがいしようとはかつた。尊は、天叢雲劔をぬいてあたりの草を薙ぎはらひ、大いにおふせぎになつたので、わるものどもは、かへつて、自分のつけた火にやかれて、すつかりほろぼされてしまつた。
(草薙劔)
これから、この御劔を草薙劔と申しあげることとなつた。
(蝦夷を平げになつた)
尊は、なほも軍を東にお進めになつたが、蝦夷どもは、御勢に恐れて、弓矢を捨てて降参した。かやうにして、尊は國々をお平げになつたが、都へお帰りになる途中、御病のため、とうとうおなくなりになつた。
(尊の御てがら)
尊はたふとい御身でいらつしやるのに、つねづね兵士といつしよに難儀をおしのびになり、少年の御時から、西に東にわるものどもをお討ちになっつて、少しも御身をおやすめになるおひまがなかつた。さうして、天皇の御位にお即きにならぬうちに、おなくなりになつたのである。けれども、尊の御てがらにより、遠いところまで平いで、世の中はたいそうおだやかになつた。尊の御子が、後になつて、天皇の御位にお即きになつた。この御方を第十四代仲哀天皇と申しあげる。


第四 神功皇后
(熊襲をお討ちになつた)
仲哀天皇の皇后を、神功皇后と申し上げる。皇后は御生まれつきお賢く、またをゝしい御方であつた。天皇の御代に熊襲がまたそむいたので、天皇は皇后と御いつしよに九州へ下つて、これをお討ちになつたが、まだよくしづまらないうちに、おかくれになつた。
(新羅をお討ちになつた)
この頃朝鮮には新羅・百済・高麗の三国があつて、これを
(三韓)
三韓といつた。中でも、新羅は一番わが國に近くて、その勢いはたいそう強かつた。それで熊襲がたびたびそむくのは、新羅がこれを助けるためであるから、新羅を従へたなら、熊襲はしぜんと平ぐであらうと、皇后はお考へになり、武内宿禰と御相談になつて、御みづから兵をひきゐて新羅をお討ちになつた。時に紀元八百六十年である。
(三韓を従へなさつた)
皇后は船軍をひきゐて、対馬にお渡りになり、それから新羅におし寄せられた。軍船は海にみちみちて、その御勢はたいそう盛であつたから、新羅王は非常に恐れて、「われは、日頃東の方に日本という神国があつて、天皇と申す御方がいらつしやると聞いてゐる。
今攻めて来たのは、きつと日本の神兵にちがいひない。さうとすれば、どうしてふせぐことが出来よう。」といつて、すぐに白旗をあげて降参し、皇后の御前に来て、「たとひ太陽が西から出、川の水がさかさまに流れるやうなことがあつても、決して毎年の貢はおこたりません。」とおちかひ申しあげた。ほどなく皇后は御凱旋になつたが、その後、百済・高麗の二國もまたわが國に従つた。
(皇后の御てがら)
これから、朝鮮も朝廷の御威徳によくなびいたので、熊襲もしぜんにしづまつた。また第十五代應神天皇の御代に、王仁といふ学者などの職人もつぎつぎに渡つて来て、これらの人々によつて、わが國はますます開けた。これは、全く神功皇后の御てがらによるものである。


第五 仁徳天皇
(人民をおはれみになつた)
第十六代仁徳天皇は、應神天皇の御子で、御なさけ深く、いつも人民をおあはれみになつた。天皇は、都を難波におさだめになつたが、皇居はいたつて質素な御つくりであつた。天皇は、ある日、高い御殿におのぼりになり、四方をおながめになると、村々から立ちのぼるかまどの煙が少なかつたので、これはきつと不作で食物が足らないためであらう。都に近いところでさへこんな有様であるから、都を遠くはなれた國々の人民はどんなに苦しんでゐることだらうと、ふびんにお思ひになり、三年の間は税ををさめなくてよいとおほせ出された。そのため、皇居はだんだんあれてきたが、天皇は少しも御気にもおかけにならず、御召しものさへ新しくおつくりになることもなかつたくらいである。
(人民がよろこんで皇居をお造り申した)
そのうちに、豊年がつゞいて、村々の煙も盛に立ちのぼるやうになつた。天皇はこれを御らんになつて、「われは、もはやゆたかになつた。」とおほせられ、人民がゆたかになつたことを、この上なくおよろこびになつた。人民は、皇居がたいへんあれくづれてゐると伝え聞いて、もつたいなく思ひ、税ををさめ、また新しく皇居をお造り申しあげたいと願い出たが、天皇はお許しにならなかつた。けれども、人民は、なほ熱心にたびたびお願い申したので、その後三年たつて、やうやくお許しになつた。人民は、よろこびいさんで、我先に、とはせ集り、夜を日についで、いつしやうけんめい工事にはげんだので、皇居はわづかの間に美しく出来上つた。
(産業をおすすめになつた)
天皇は、なほ人民のためをおはかりになつて、堤を築かせたり、池を掘らせたりして、農業をおすすめになつた。それ故、人々は、皆深く天皇の御恩に感じて、それぞれ自分のつとめにはげんだので、よのなかがよく治つた。


第六 聖徳太子
(政治をおとりになつた)
仁徳天皇から御十八代めの天皇を第三十三代推古天皇と申しあげる。天皇は女帝でいらつしやつたから、御甥の
(摂政)
聖徳太子を摂政として、政治をおまかせになつた。
(十七条の憲法をお定めになつた)
太子は御生まれつき人にすぐれてお賢く、一時に十人の訴をあやまりなくお聞き分けになつたとさへ伝へられてゐる。その上、朝鮮の学者について深く学問をおをさめになつたので、進んだ御考をおもちになり、朝鮮や支那のよいところを取入れて、いろいろ新しい政治をはじめになつた。さうして、遂には十七条の憲法を定めて、官吏も一般の人民も、皆つねに心得ておかねばならないことをお示しになつた。
(使を支那におやりになつた)
太子は、また使を支那にやつて、外国とのつきあひをおはじめになつた。その頃、支那は國の勢が強く、学問なども非常に進んでゐたから、日頃高ぶつて、他の国々を属国のやうに取りあつかつてゐた。けれども、太子は、少しもその勢いにお恐れになることなく、かの國に送られた国書にも、「日出処の天子、書を日没する処の天子にいたす。恙なきか。」とおかきになつて、どこまでも対等のおつきあひをなさつた。支那の国主は、これを見て腹を立てたが、ほどなく使をわが國に送つてきた。そこで、太子も、あらためて留学生をおつかはしになつた。その後、引つゞいて互にゆききをするやうになつたから、これまで朝鮮を通つてわが国に渡つて来た学問などは、これからは、すぐ支那から伝はることとなつた。
(仏教をおひろめになつた)
さきに、太子の御祖父でいらつしやる第二十九代欽明天皇の御代に、仏教がはじめて百済から伝はつて来た。太子は、深くこれを信仰して、多くのお寺をお建てになつたり、またしたしく教をお説きになつたりして、熱心に御力をつくされたので、これから仏教はだんだん國内にひろまつた。かうして仏教がひろまるにつれて、建築やその他の技術なども目立つて進んだ。太子のお建てになつた寺の中で名高いのは、
(法隆寺)
大和の法隆寺で、そのおもな建築は、今も昔のまゝであるといはれ、わが國で一ばんふるい建物である。
(人々が太子をお惜しみ申した)
かやうに、太子は、内に於ても、外に対しても、大いにわが國の利益をおはかりになつたが、まだ御位にお即きにならないうちに、御病のため、とうとうおなくなりになつた。この時、世の中の人々は、親を失つたやうに、皆なげきかなしんだ。




第七 天智天皇と藤原鎌足
蘇我氏の不忠
推古天皇の御代の前後に、最も勢があつたのは、蘇我氏である。蘇我氏は武内宿禰の子孫で、代々朝廷の政治にあづかつてゐたため、勢の盛なのにまかせ、しだいにわがまゝなふるまひが多くなつた。蘇我蝦夷は、推古・第三十四代舒明・第三十五代皇極の三天皇にお使へ申したが、たいへん心のおよからぬものであつたから、勝手に大勢の人民を使つて生前から自分たちの墓を作り、おそれ多くも、これを陵といつた。この時、聖徳太子の御女は、「天には二つ日なく、國には二人の君はない。しかるに、なぜかやうなわがまゝをするのか。」と、大いにこれをおしかりになつた。蝦夷の子入鹿は、父にもましてわがまゝなふるまひが多かつた。殊に、自分に縁のある皇族を御位にお即かせ申しあげようと、聖徳太子の御子孫をほろぼし、はては自分の家を宮、その子らを王子と呼ばせて、少しもはばかるところがなかつた。蝦夷父子のやうなものは、朝廷を恐れたてまつらぬ不忠の臣といはねばならぬ。
中大兄皇子鎌足と入鹿をお除きになつた
中臣鎌足は、この有様を見て、大いに怒り、朝廷の御ために、どうかして入鹿父子をほろぼさうと決心した。この頃、舒明天皇の御子中大兄皇子も、またかねてから蘇我氏のわがまゝなふるまひをおにくみになつてゐたので、鎌足は、何とかして自分の心を皇子にうちあけたいものと思つてゐた。ところが、ある時、皇子の蹴鞠の御遊にまゐりあひ、御そば近くにゐると、皇子の御靴がぬげた。これをとつてさし上げたのが縁となり、これから皇子にお親しみ申して、ひそかに、同じ志の人々といつしよに、謀をめぐらしてゐた。けれども、入鹿は、なかなか用心深くて、家のめぐりに池を掘つて城のやうにかため、出入の時には、大勢の人々を従へ、少しもゆだんをしなかつた。たまたま皇極天皇の御代に、三韓から貢物をさし上げることがあつて、大極殿で行はれる式に、入鹿も参列するから、その折をさいはひに、これをほろぼすこととなつた。皇子は、ご自身でほこをお持ちになり、鎌足らは、弓矢や劔などを持つて、御殿のわきにかくれてゐた。しかし、人々は、入鹿の勢に恐れて、ためらつてゐた。皇子はたまりかねて、をゝしくもまつさきにお進みになつた。そこで、人々もこれにつゞいて、とうとう入鹿を斬り殺してしまつた。皇子は、あらためて天皇の御前に進み、つゝしんで入鹿の不忠を申しあげられた。
蘇我氏がほろびた
この時、蝦夷は家にゐたが、入鹿が殺されたことを聞くと、すぐに人々を呼集めて、皇子と戦はうとした。皇子は、さつそく人をやつて、わが國には昔から君臣の別があつて、これをみだすのは不忠であるわけを、ねんごろに説聞かせられたので、人々はちりぢりに逃去り、蝦夷も、家に火をつけて自害した。
武内宿禰ー蘇我石川・・・・・・・・馬子ー蝦夷ー入鹿


第八 天智天皇と藤原鎌足(つゞき)
大化の新政をおたすけになつた
皇極天皇は、ほどなく、御位を第三十六代孝徳天皇にお譲りになり、中大兄皇子は、皇太子にお立ちになつた。皇太子は、天皇をおたすけになつて大いに政治を改め、これまで勢いのあるものが、たくさんの土地をもつて、勝手に人民を使つてゐた習はしをやめさせ、これらの土地や人民をすつかり朝廷にをさめさせられた。この新しい政治を大化の新政といふのである。
年号の始
大化とは、この時お定めになつた年号である。これが年号の始で、その元年は紀元一千三百五年にあたつてゐる。
百済をおすくはせになつた
孝徳天皇がおかくれになると、皇極天皇がふたたび御位にお即きになつた。第三十七代斉明天皇と申しあげる。中大兄皇子は、なほ皇太子として、引きつゞいて政治にあづかつておいでになつた。この頃、支那は唐の代で、勢がたいへん盛であつたから、新羅はその助をかりて百済をほろぼさうとした。百済の人々は、朝廷にすくつていただきたいと願つてきた。皇太子は、天皇に従って、すぐ九州に下られたが、天皇が行宮でおかくれになったので、その御あとを受ついで、御位にお即きになつた。第三十八代天智天皇と申しあげる。天皇は、兵を出して百済をすくはさせられたが、運わるくわが軍が戦にまけたので、百済はやがてほろびてしまつた。そこで、天皇は、このまゝ、わが軍をながく海外にとゞめておいても、何の利益もないとお考へになつて、とうとうこれを引きあげさせられた。まもなく、高麗もまた唐にほろぼされたので、新羅がひとり勢をを振るふやうになり、これから朝鮮は、全くわが國からははなれてしまつたのである。けれども、唐とは、この後も、つきあひをやめるやうなことはなかつた。
国内の政治を改めなさつた
これから、天皇は御心を一筋に國内の政治にお向けになり、まづ都を近江にうつされ、また鎌足にいひつけて、いろいろ新しい法令を定めさせられた。
大宝律令
この法令は、第四十二代文武天皇の大宝の御代になつて大いに改められ、大宝律令といつて、ながく政治の本となつたのである。
鎌足のてがら
中臣鎌足は、さきに蘇我氏をほろぼしてから、二十年余りの長い間、真心をこめて朝廷にお仕へ申しあげ、てがらが多かったので、天皇はいつも重くお用ひになつてゐた。鎌足が大病にかゝつた時には、おそれ多くも、その家に行幸をなさつて、したしく病気をおいたはりになり、「何でも望むことがあるなら遠慮なく申せ」とおほせられた。鎌足は、深く天皇の御恩に感激して、「私のやうなおろかな身に、何のお望み申しあげることがございませう。たゞ一つ、どうか私の葬儀をてあつくなさらないやう、お願ひ申しあげます。」とお答へもうしあげた。しかし、天皇は、やがて鎌足に最も高い位をお授けになり、また藤原という姓をお与へになつた。
藤原氏の始
後に栄えた藤原氏は、この時に始まったのである。鎌足は、大和の談山神社にまつられている。

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