明星の人魚姫

 ロビン・E・アンダーソンは、ただシガレットを一服いれてやりたいだけだった。
 薄暗い、静謐な空間。周囲には誰もいない。そんな場所で一服したい。
 そう、例えば海の底なんかがいいな。水面からは遠く、陽の光も届かない。手を伸ばしても指先が見えないくらいの場所だ。
 全身がスケスケの深海魚とか、雷鳴が形になったみたいな奇妙な形の海月とか、そいつらの他には何も居ない。例えば、ここは禁煙区域だとか、副流煙は健康を害するだとか、訳のわからん無粋なことを言うやつはみんな怖がってこんなに深いところまでは潜ってこれない。そうやってママから言いつけられているからだ。危ないところには行っちゃいけません、と。お上品な連中。
 俺はそこに一人で突っ立って、昔ながらの紙巻きシガレットを取り出す。下はサンゴの死骸なんかが降り積もったマリンスノーの砂漠。海の中だが火は灯る。そして暗黒色に閉じられた世界で、シガレットの焔だけが一番星のように輝いている。白い煙の代わりに細かなあぶくが昇っていく。
 俺はそれで、やっと初めて呼吸が出来たって思う。胸の中いっぱいに愛おしい煙が満ち満ちて、気分が落ち着いていく。弛緩した心が穏やかな幸福の波長に絡みつく。一本を吸い切るだけの僅かな時間がたまらなく愛おしい。
 ああ、そいつはささやかな願いってもんだろうに。
 足音。
 静寂の幻想は去り、喧騒が蘇った。
 上品なウェヌス式クラシックが流れている。ピアノの旋律、優雅なヴァイオリン。それは"金星(ウェヌス)独自の"文化の一つとして宣伝されているものだが、ロビンには、地球産の音楽とさして違わないように思えた。同じように退屈だ。
 ウェイターがグラスにスパークリングを注いでいる。波立つ薄琥珀色。
 真っ黒な海の底のほうがずっといい。
 だが、そんな追想は無意味だと彼はよく知っていた。
 ここはほぼ全面がガラス張りの展望レストランだ。ただこうして座っているだけで金星の町並みは一望できる。しかしそこに海はない。この星のどこにも海洋空間は存在しない。天を覆うドームの下で、セントラルタワーを中心にして展開されたすり鉢状の計画都市。金星首都アルテミス。なんの冗談か、その町並みは海のような青色を基調にデザインされている。
 事実、金星の人間にとってはこの街は海なのだが。もっとも今は夜間時間で黒に沈んでいる。すり鉢状の構造の結果として、眼下の町並みから少しずつ高さをあげていく独特な光の夜景、確かに魅力的ではあった。
「この店が直接契約しているラクシュミのオリジナルブランドです。新興農区ですが、既に注文が2年待ちの人気だとか」
 ロビンが説明を終える前に、彼の向かいに座った男、ネイト・V・カッシーニはグラスの中身を口に含んでいた。身なりのいい男だ。恰幅のいい男という表現も可能だった。それと、ついでに金払いもいい。
「素晴らしい味わいだ。さすがミスタ・アンダーソン、地球生まれとは思えんほどにこの星の店に精通している。ウチのプライベートパーティの店選びも君に任せたいくらいだよ」
 ぼわり。
 霧が立ち現れたかのように男の輪郭がぼやける。淡い黄金色の靄を纏ったようだった。"ウェヌスのオルガン"が彼の精神的な高揚に共鳴しているのだ。
「お気に召したようで良かった。しかし私への評価は的外れですね。金星の醸造産業は本当によくやっている。どれを選んでも名酒になってしまうんですよ」
「これはとんだ謙遜だ。所詮は猿真似、地球には敵わんよ」
「けれど、献身的な反飲酒活動家の方々のおかげでもう地球酒は絶滅しました」
「ああ全く、嘆かわしいことに」
「だからウェヌスに引っ越してきたんですよ」
「そりゃあいい! ははぁ、今に冗談でなくそうしたくなるとも」
 カッシーニの機嫌はすこぶる良さそうだ。彼の側のテーブルクロスが煌めきを放つ。その表面をよく見れば、亜麻色、朱色、藍色、極小の宝石の原石が成長しているのが見えた。腰掛けた椅子に、手にしていたグラスに、少しずつ原石の成長は伝播していく。
 それは、この男がそこそこの充足感を覚えていることの表明だ。彼が根っからの愛星主義者なのだということを、ロビンは事前に調べをつけている。あとに残った彼の仕事は、こうして彼を喜ばせること。酒を振る舞い、金星の産業について褒め称え、頃合いを見て商談の合意書にサインさせること。
 苦もない仕事だ。そして退屈でもある。
 もし自分のオルガンにネガティブな演奏を排除してくれるビジネス用プリセットを導入していなければ、今頃は彼の周囲には重苦しい曇天でも立ち込めていたかもしれない。けれど、実際に出力されているのは無表情な海月たちだけだ。
 ぽわり、ぽわり。彼が作り笑いを浮かべる度に親指ほどの海月が生み出され、スパークリングの泡立つグラスの周囲をぐるりとまわり、ひときわに大きな鉱石の上に着地する。カッシーニの瞳は彼らの動きを興味深げに追いかけている。概ね好意的に受け取られているようだとロビンは内心で少し胸をなでおろした。
 なにせ原石にしろ、海月にしろ、各々のオルガンの演奏に確固たる意味はないのだ。だから実際のところ、あの生え揃いつつある鉱石にどのような感情が反映されているのかはわからない。だがそもそも直接的な表現は"無粋"に分類され、そうした表現しか持ちえないものは社交界でなくとも歓迎されないのだった。それが金星生まれの嗜み、ということだ。余所者がこの閉鎖的な星でビジネスをするには、まずこのオルガンの弾き方を心得なければならない。
 それでもロビンはこのオルガンの文化にはよく適応できている方だった。まず、最も不慣れなものは、他人の演奏についてああだこうだと尋ねたがる。そして相手のセンスを褒め称えようだとか呑気なことを考えているうちに気がつけば村八分にされてしまう。自分の音をじゃかじゃかかき鳴らしながら誰にも相手にされていない地球生まれ、そんな奴も何人か見た。
「ところで、メインはディアナ渓谷産のビーフですが、焼き方はウェルダンでよかったですね?」
「言うことなしだ。金星の歴史は忍耐の歴史でもある。肉の焼き方にしても」
「22世紀末の独立戦争にしても」
 ロビンが合いの手を入れる。彼は大仰にうなずいて、深刻な顔つきを作ってはまたスパーリングを一口飲んだ。グラスの縁に当たった海月が宙空に放られる。物理的な存在ではないが、そのように振る舞うのだ。一方で鉱石たちが一斉にその内側で真紅の光を燃焼させている。
「金星の子供たちが最初に習う歴史は、まさにその独立戦争からなんだよ。特にメティス平原上空で地球と火星の連合空軍を打ち破った『メティスの奇跡』については……おっと失礼、君にとっては忌まわしい歴史だったかな」
「まさか。元はと言えば地球連邦政府が私利私欲を貪ろうとした結果なんですから」
「ああ。実際に連中のやり口はあこぎにすぎた。穏やかな金星の民にも我慢の限界というものがある」
 ウェイターが前菜を運んでくる。金星特産のウェヌスラディッシュと完全養殖魚のマリネ。その赤黒い根菜の一切れ一切れには恐ろしい程の酸味が詰まっているのだが、カッシーニは実に美味そうにそれを口へと放り込んでいった。無論、ロビンもそれに習う。レモンの果汁を原液でコップ一杯分も飲み干したような味わいが喉を駆け抜けていって、全身に鳥肌が逆立つようになるのを必死で噛み殺した。
 ぼわり。十匹近い海月が生まれる。カッシーニが笑った。
「苦手かね、それは」
 返答しようにも声が出せない。舌をハンマーで殴られたような鈍痛。酸味を通り越して辛味を感じているらしかった。
「私も子供の頃に初めて食べたときは、君みたいに顔を白黒させたものだ。慣れないうちはいっぺんに口にし手はダメだ。少しずつ切り取って口の清涼感を保つみたいに使うといい」
 無様を承知でワインで酸味を流し込む。それでやっと落ち着いた。そして気がつけば異常な数の海月が生み出されている。彼は慌てて取り繕った。
「すみません、お恥ずかしいところを……」
「いや、いいんだ」
 今やカッシーニの鉱石は荒々しい光を湛えるのをやめて、各々の元来の色に合わせて好き勝手に発光している。これほどわかりやすい音を響かせる者も珍しい。あるいは地球生まれのロビン相手にもわかるようにキーを調整してあるのかもしれなかった。だとしたら、舐められたものだ。
 そしてロビンはふと気がついた。ウェヌスラディッシュをなんなく食せること、それそのものがまた彼の星民アイデンティティをくすぐったのだろう。地球育ちの華奢男にどうしてこれが食べられようか、というわけだ。これは意図してはいなかったが、結果的には良い働きをしたらしい。
 しかしそれは、あくまで結果としての話。そういう不用意は彼の好みでもない。原因は単なる思い上がり。これくらい平気だろうという見積もりの誤り。味覚に限らず、自分の可能性を信じすぎること。破局を招くのはいつもそれだ。
 また新たな海月が誕生する。けれど描画の上限設定に引っかかって、古いものは消えていく。アクアリウムのような状態で歩いたりするわけにも行かないから当然の設定だが、たまに、部屋がいっぱいになるまでこいつらを増殖させてやりたいと思うときもある。
 それもまた無意味な空想だ。それよりもそろそろ仕事の話をしなくてはならない。カッシーニ氏の機嫌がいいうちに。この先の半年、火星のリゾートで遊んで暮らせるか、また同じようなお客さんの機嫌を取りに歩きまわらなきゃいけないかがかかっている。
「ところでカッシーニさん、前にお話した――」
 控えめに言って、しかし、ロビンは間の悪い男だった。
 フロア全体の照明が落とされる。がしゃん。各テーブルのキャンドルライト、カッシーニの鉱石のように発光性の音だけがぼうと浮かび上がった。
 停電、ではなかった。人々に動揺はない。もちろんそれは予定通りのイベントだからだが、ロビンの頭からはすっかり抜けていた。薄暗がりではよく見えもしないが、また新たな海月が生まれているかもしれない。いつでも重要なことばかりに記憶は蓋をしやがる。
 光についで音楽が鳴り止んだ。音が響き始める。
 ウェヌスのオルガンが最大限に奏者と感応している音。人間の脳に接続された人工副脳(ウェヌスのオルガン)に直接響く音色だ。海月や鉱石を生み出すような社交ツールとはわけが違う、プロの演奏家がこのフロアのどこかで鍵盤に指を奔らせているのだ。
 カッシーニの表情は影に沈んでいて確認できない。けれど悪感触ということもないだろう。ウェヌスのオルガンの演奏を聞くことこそ金星の人々の最大の楽しみであり、誇りなのだから。
 ロビンはグラスに残っていたワインを飲み干す。甘い。
 演奏が始まった。
 最初に奏でられるプレリュードは、赤の地平。熱波がフロアの全体を薙ぐ。実際の熱ではないが、ヒリヒリと熱い緊張感を副脳が感じ取っている。それと僅かばかりの清涼感。熱い風の吹く中に立っているのだと、脳がそのように理解する。
 メティスの奇跡。
 少しでも学のある者ならば前奏だけでそのことを理解したはずだ。先ほどカッシーニも言及した、金星独立戦争におけるサラトガの戦い。僅か50機の有人戦闘機の奮闘が200を超す地球の無人戦闘機軍を撃破し、戦局に終止符を撃つはずだった星間爆撃機の侵攻を水際で食い止めたという史実。これを契機にして木星衛星政府連合は金星側での参戦を表明し、火星政府の戦線離脱を誘引、果ては金星の独立をもたらすのだった。文学、寸劇、映像、音楽、あらゆる金星メディアの題材として再生産され続けるこの歴史に、無論、数多のオルガン奏者たちもまた挑んできた。
 常に形を変え、解釈に合わせて種々の姿に変化してきたこの物語にも、しかし共通点がある。英雄・エレミアの繰る機体に五感を委ねて顛末を描いているという点だ。
 ひときわに強い風が視界を吹き飛ばす。ここは今やウェヌスの空、寂寞かつ赤白なるメティス平原上空を舞う戦術有人戦闘機イシュタルの機上だった。白い雲を引きながら空を舞う巨大な楔のような姿、金星に育ったものであれば知らぬ者はないとされている。
 ヒーン、という甲高いアフターバーナーの駆動音。加速する旋律。聞く者はその身にGを感じる。
 赤い地平に赤い空。ロビンはすっかり頭がおかしくなりそうだった。上下の感覚を与えてくれるものは太陽だけ。機が舞い上がる。無数の光点。全てが敵機だ。
 単なる立体虚像技術と異なり、オルガンの演奏は脳に直結している副脳へと響くために五感に影響を与えうるのが特徴だった。しかし没入映像とも違って現実と虚像は重なり合って存在できる。その多重に重なる世界の認識の差異を補う演算能力こそ、ある意味で副脳の最大の能力であるとも言えた。片方では戦闘機に振り回される自分がありながら、一方では現実のレストランで演奏を聞いている自分がある。複数の夢を同時に見ているような感覚。
 ただしネイティブでないロビンのオルガンは外付けであり、おそらくカッシーニらの見ている世界とは異なっているはずだった。本物はもっと深く、濃いという。けれど彼にはもうこれで十分すぎた。
 曲調は激しさを増していく。戦闘機の挙動に合わせて世界が何周も反転し回転し、上と下、右と左が入れ替わる。黒煙を吹き地に堕つ敵機。あるいは僚機。背に付かれる。死が頭上を抜けていく。ゆるやかにロールしつつ大地へと急加速、スレスレで機首上げ。無人機がお行儀よくそれに追随し、人間離れした挙動で復帰する。それを僚機が狙い撃つ。けしてAIの繰る無人機は単調な行動などしないが、条件を与えてやれば先読みは容易い。それはエレノア本人の言葉、とされている。
 胃の内容物が逆流しそうなリアル。金星での仕事にも慣れてきたつもりのロビンにもこれは効いた。一応こっちは食事中なんだぜ、冗談じゃない。
 メティスの奇跡の演奏も何度か聞いたことはあったが、ここまで絶叫マシンめいた仕立てのものは珍しかった。そりゃあ、ここのレストランはそういう色ってやつを売りにしているのは承知だ。だからこそ選んだのだから。
 しかしこれは、あまりに品がないというものではないのか。ロビンはもともと品がどうとかを気にしたがるような人間でもないが、それでもうんざりだった。これじゃあ、ほとんど没入映像と変わらないじゃないか。
 外部副脳の感受レベルを下げる。現実の優先度が繰り上がってレストランの中の自分がはっきりとしてくる。それでもまだ金星上空の熱風を感じてはいた。
 このまま感応機能を切ってしまおうか。そう思い立って手を首筋に伸ばす。けれど、きっと他の客たちと共にメティスの空を舞っているのだろうカッシーニの様子が目に入って、それもできなかった。
 どうせ演奏が終われば、その感想についてこの愛星主義者の男は話したがるだろう。今それを切ってしまえば、その時に俺は何を話したらいい? きっと今度はラディッシュのときのようにはいかない。
 それで、どうあってもロビンは、己が戦場からの撤退は許されなさそうだということを悟った。
 ああ、ただシガレットを一服でもできれば、まだ耐えられそうなものなのに。

 それから、金星が1日の1クォーターの1クォーター分ほど自転した。
 ロビンはと言えば、例えば誘蛾灯に惹かれた羽虫のように、薄暗がりを求めてふらついていた。
 覚束ない足取り。胃と腸が腹の中で絡み合ったみたいにムカムカとした吐き気が治らない。それは紛れもなくあのオルガンの演奏のせいだった。三半規管をかき乱す暴力的な音、それに喝采する客層もまたなんたる暴力的なことだろうか。
 そりゃあ、けれど、いいさ。平素は彼らだって暴力なんて犬に喰わせろっていう顔してるはずだし、プライベートなディナーの最中で、少しくらいその鬱憤を晴らしたってまだまだ多分に健康的というものだ。
 問題は未だにシガレットを呼吸できてないこと。全身に満ちる倦怠感も、苛立ちも吐き気も、全ては人恋しさのため。
 先程まで世話になっていたセントラルタワー周辺の高層建築群は背後においてきて久しい。オフィス街を抜けると広がる繁華街も、けれど相変わらず清潔だ。アクリルブルーに統一されたデザイン。この完全計画都市に余分な空間は存在しないとばかりに碁盤の目に区切られた世界。俺に行く当てはない。
 こんな星に満足かい、なんて、行き交う連中を捕まえては安っちろい酒場の安酒を奢って、俺にだけ教えてくれよってふうに聞いてみたって意味はないんだ。ロビンはよく知っていた。金星生まれはけして本音なんていいやしない。全てウェヌスのオルガンの奏でるままに、という風に考えているのだから。鉱石の煌めきから全てを読み取れって。はっ。けれどそれは、実のところ地球だってどこだって同じことだった。
 通りがかりの学生集団の談笑が花を咲かす。しゅるりと鮮やかな緑のツタが立体虚像出力機の軸棒に絡みつき、若々しい花を咲かしている。彼らはそれを振り返ったりはしない。一つをロビンが摘まみ取ると、音もなく光の塵へと還ってしまった。
 また無性にシガレットとニコチンが恋しくなって、彼の無意識の隙を盗んだ右手はシガレットケースを懐から取り出した。
 途端に、しまったと思う。
 喫煙者を捉えた街が甲高い声で悲鳴をあげる。
『ここは禁煙区域です。星令により違反者には五十万C以下の罰金または……』
 ケースが地に落ちる。右手から力が抜けていた。
 威圧的な、古代仏教文化に存在したという弾劾者がロビンの眼前に立ち現れる。
 衛生管理機構が星令違反者の服脳に介入したのだ。金星へのあらゆる訪問者が外付け服脳の装着を義務付けられているのはこのためだ。
 この星の景観を乱すことは、何人たりとも物理的に規制されている。
 とはいえ、より重篤で悪質な悪意がばらまかれることは基本的に防がれない。衛生管理機構の権限は碁盤の目の大通りにしか及ばない。
「わかった、わかったよクソ」
 つまり、連中の言いたいことは、ここはお前の居場所じゃないってことだ。それだけだった。
 ロビンは逃げるようにその場から退散する。といったって逃げるアテだってあるわけではなかった。周囲の人々の好奇の目。けれどすぐに興味を無くしたようにまた談笑で花を咲かせる。その隙間を、閃光が駆け抜けていった。
 一筋の蒼い閃光。
 魚だ。なぜだかロビンにはそう理解できた。流星のような一尾の魚。自然と目が追っている。金星の連中への悪態、苛立ち、全て引っ込む。彼の足がいつの間にか前へ出ていた。右足、左足。前へ。なんでもいい。今はあの魚を追うべきだ。なぜだかそう思う。
 伸びきったツタが彼に手を伸ばす。もう届かない。駆け出した勢い。英雄の空戦よりも生な風を切る感覚が、きっとすぐに疲れ果ててしまうだろうよという自嘲を喚起させる。
 いいさ。それでいい。
 魚は整然とした大通りと街並みを小馬鹿にしてその身を陽光に訴えかける。煌めきが目に眩しい。
 それを追ってロビンは駆けた。
 人は時に、どうしようもなく衝動的にそれを試みたくなることがある。幼い日、ちょっぴり口を開けた崖の上を飛び越したくなった時。今は正にそれだった。
 身をくねらす神秘。どこからともなくまろびでた魚群が一匹の魚に迎合する。道は大通りを外れ、イレギュラー、ビルとビルの隙間の深い路地へ。どこを目指しているのか。更なる暗夜行路へ。
 彼の息は上がっていた。喫煙癖で痛めつけた肺が締め付けられる。運動不足で肺活量にも自信はない。けれど足は止めない。
 なんだって俺は突然にそんなことをしてるんだ? 
 追従する海月の群れ。彼の唯一の味方だった。一人じゃないというのは心強い。他に誰もあの魚を追いかけている者なんていやしなかった。誰の目にも入っていないようだ。
 それは幻想、ではない。スカイブルー、ビルの隙間、室外機。
 ロビンの背から遥か未来へ新たな魚群が抜けていく。
 俺はいつの間にこんな深淵へ迷い込んだのだろう。ふと立ち止まって周囲を見渡してもそれに答えるヒントはない。ここもまた金星の何処かだが、地図には積極的に乗らなそうな地点。室外機の唸り声。
 両手をいっぱいに広げると、もうそれだけで突っかえそうな空間だった。空は狭く切り取られ、背後には普段通りの世界。引き返すこともできたけれど、ロビンは前へと進んだ。別に確固たる意志はない。なにも死にはしないのだから、どうあったっていいだろう。せいぜいが飢えたチンピラが出てくるくらいか。どうせ今は余暇の最中、観光だと思おう。
 しかし魚は、気がつけばもういない。とはいえ存在ごと消え去ってしまったわけではなさそうだと感じる。そういう音が聞こえてくる。ただ、今は俺の視界から外れているだけだ。
 目に見えるものだけがリアルじゃない。見えないものだって確かにそこに存在している。だから、どこかを泳いでいるはずの音を探した。
 壁面がちらりと輝く。あそこだ。反射的に手を伸ばす。
 ちらり。ちらりちらり。
 光の量が増す。魚群だ。魚の群れが追いついてきている。それも膨大な数の群れだ。壁面いっぱいを今や魚の群れの影が覆っている。しかし表面を泳いでいるのではなかった。まるでビルを構成している素材が命を宿されて蠢いているように、魚たちはその内側で泳いでいた。
 締め切られたドアを迂回し、室外機のダクトを取り囲んで螺旋を描く。
 窓ガラスの向こうにぞっとするほどのグランブルー。
 時折の光は、あの薄壁一枚を隔ててこちらまで貫通してきているのだ。
 足元が揺らぐ。ふらついてるわけではない。本当に足元が揺れていた。周囲に浮かぶ海月の群れが一際に光を放つ。路面の青い塗装を水面として魚たちが泳ぎ回っているのだ。彼らが通る度に足元が揺れている。
 なんだよこれは。
 ロビンは伸ばしかけた手を引っ込める。それはわずかに恐怖からでもあった。こんなものはオルガンのちょっとした試し弾きってもんじゃない。気がつけば、音の総量は先のメティスの奇跡、あれと同じだ。いやそれ以上かもしれない。
 結局のところあの演奏は、はっきり言ってしまえば立体虚像と変わりがなかった。五感に訴えかけてくるという点はともかく、基本的には現実の上にもう一つのレイヤを演奏して、そこに観衆を放り込んだだけ。それは確かにリアリティだが、リアルじゃない。リアルを逆転できないフィクションが、オルガンの力で優先度を逆転させただけ。狡い演奏。
 けれど、今、ロビンを取り巻いている音はそれとは違った。現実と重なり合った海が奏でられていた。それは、いうなれば、リアルへの侵食。
 また魚たちが消え去る。深いところまで潜っているのだろう。僅かに路地裏は静寂と平静を取り戻す。
 それは仮初めだ。
 よくよく見れば、ビルの窓ガラスの向こう、深い海のそこに影が見えていた。それがぐんぐん大きくなっていく。向かってきているのだ。魚群が、リアルの方へと。
 やばい。咄嗟に副脳の感応レベルを下げようとするが、間に合わない。
 津波が境界を食い破る。水飛沫を上げて、魚たちは再びリアルに躍り出た。息もつかせぬほどの歓喜の声がロビンを包む。彼を軸にして渦巻きのように魚たちは加速する。
 それはもはや蛇龍(ワイアーム)に近い光景だ。
 蛇龍が弾かれたように狭い天を目指す。そして次の瞬間には、ロビンのわずか一歩前の地点へ一斉に降り注いだ。
 また海へと戻ったのかと思ったが、違う。
 いつの間にか蛇龍は再びその姿を変化させていた。
 それは人の姿だ。けれど下半身には魚の尾びれがついている。
 人魚。
 それがふわりと彼の眼前に着地する。正確には、地に足をついているわけではない。虚空にある見えない椅子があるかのように、宙空で静止していた。
 外見は若い少女のようであるけれど、エメラルドの輝きを宿した下半身の鱗は官能的な光を放っている。上半身には藍色のワンピースのような衣服が纏われていた。先端にかけて白さを増していく黒く長い髪が見えない波に揺らめいている。
 その小さな唇が開かれた。声の代わりにあぶくが漏れ出て天へと昇っていく。
「おまえは――」
 ロビンの言葉を待たず、人魚は小さく微笑むと、自らの吐いたあぶくを追うように、身をくねらせ、空に消えた。こんどは戻ってはこなかった。
 もう、音は聞こえない。暗示の解かれたかのように世界は完全なリアルを取り戻していた。もう壁の向こうの海も魚もいなくなってしまった。こんどは完全に消えたのだ。雑踏のざわめきが遠くに聞こえている。
 なんとなく、ロビンは外付けの副脳の感応レベルを最低値にまで落としてみたが、やはり世界は何も変わり映えせずにそこにあって、ただ、海月たちがどこか不満げに消えただけだった。

(1パート分)





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