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「人はなぜ物を欲しがるのか」読書メモ

くつろぎながら生きていきたい。物欲が強い方ではないが、いろいろと欲しいものはある。でもそれを買うと、もっと働かないといけなくなる、くつろげない。そもそも人にある所有欲、物欲はなんなのか、ということで読んでみた本です。思ったよりも読みやすかったです。

人間は社会的な生き物で1人では生きていけません。他人と協力するためにいろいろコミュニケーションなどを取ったり、相手のことを考えたりと、他人と自分を比較するのはもはや遺伝子レベルでのデフォルト設定な気がします。

で、物を持つことで自分はこういった人間なんだというようなシグナリングを相手に送る。なので、所有欲・物欲が出てくる。そして、資本主義パワー、広告業界、SNSの発達、などによって、物を持った方が幸せだよ?と言われているうちに、もっともっととなってしまう。それが最近で、このままじゃまずいからもっとよく考えよう。そんな本でしょうか。

この辺の本とセット読みするとより腹落ちする気がします。

4年前ぐらいに読んでたので、メモもしています。

現在地球上で生物生産性を有する土地の面積は、一人当たり1.9ヘクタールである。だがすでに人間は平均で2.3ヘクタール相当を使用しているのだ。これはエコロジカルフットプリントと呼ばれる。アメリカ人の平均は9.7ヘクタール、下はモザンビーク人の0.47ヘクタール。

つまり、みんながもっと欲しいとなっても地球は限界だよ、このままだとダメだよ、という再確認です。ちなみに日本人の平均は5.0ヘクタールみたいです。世界中の人が平均的な日本人と同じ生活するには地球は2.9個必要みたいです。MOTTAINAIという世界語が生まれた日本も、もう過剰です。

そして、平均的日本人の生活を支えているのは、地球環境からの搾取や、発展途上国からの搾取、もしくは日本国内にいる人たちからの搾取(非正規とか、女性とか)によって成り立っている。という直視したくない現実を改めて見つめないといけないですね。

くつろぎながら生きていきたい。とウダウダ言っている僕も、多くの自然や多数の人からの搾取の元でくつろいでいる、というこの現実を一度受け止めないと、と思います。

なので、所有欲や物欲を減らしていかないとね、でも欲のパワーもすごいよね、という状態なのが僕も含めた多くの人じゃないかと思います。

100ドルでもいいから妻の姉妹の夫より年収が多いこと、それが裕福であるということだ」風刺作家の言葉。皮肉じみた警句。

面白いですね。絶対的な数値などではなく、相対的なものだ、と。これは思い当たりますね。Forbesなどに出てくる資産何千億の人には嫉妬なんかしないけど、東洋経済に出てくる企業の年収ランキングで自分の会社や友達が行っている会社の年収は気になるし、嫉妬もする。そんな感じです。

高級品の所有は豊かさのシグナルとなるが、好んで安っぽい格好をするのも(皮肉なことに)最富裕層であることが多い。ことさら努力する必要がないという点をことさら努力してアピールする行為を「カウンターシグナリング」という。

いかにもブランド名が分かるファッションはちょっと成金っぽい。ブランド物なんか興味ないわ、ハンドメイドよ!というようにするのが最富裕層、というような感じですかね。

食べ物で言うと、高級肉が好きな富裕層に対するカウンターシグナリングで、ヴィーガンであったり、自分で野菜を育てたり、狩猟したり、とか、、、

カウンターシグナリングが意味を持つのは、権威への挑戦や自信を示すために意図的に規範に背く場合だけだ。複数の研究によれば、一流大学ではひげをきれいに剃った身なりの良い教授よりも、Tシャツ姿でひげをはやした教授の方が学生の尊敬を集めるが、大学が一流でない場合にはその反対の現象が起きる。これを「レッドスニーカー効果」という。

例として、ステータスの高い人が、授賞式などにラフな格好で行くこと。低い人なら、自分は一流だから格式高い場所に好きな靴を履いて行っても大丈夫とは考えず、黙ってハイヒールの痛みに耐えていただろう。

面白いですねー、レッドスニーカー効果!
権威とかその場の空気とかをガン無視できるぐらい自信があったり、実力があるような人ができる技ですね。実力が伴っていないのにこれをやるとただのイタい人になってしまう。。。

羨望には2種類ある。
他者の成功を妬む悪性の羨望と、他者を称賛し、自分も同じような成功にあやかりたいと願う良性の羨望である。
良性の羨望は、他者が持っている物を自分も手にすることで、すなわち「自己の引き上げ」によって対等な立場に立とうとする。
悪性の羨望では、他者の成功を帳消しにすることによって、すなわち「他者の引き下げ」によって不均衡を是正しようとする。-アリストテレス

とても良くわかります。
オリンピックなどでライバルがいたからここまで来れた、というような発言を聞くと、良性の羨望の最高系な気がします。

芸能人などの不倫ネタや自粛警察なんかで叩く人たちが悪性の羨望の代表格でしょうか。芸能人の不倫とか本当にどうでも良いのに、その裏側には成功していて妬ましいという感情があるのでしょうか。

人間が所有したがる唯一の理由は、自己意識を強化するためであり、人間はーあたかも、所有物を通して自己を外在化せずにはいられない存在であるかのようにー自分は所有物を観察するという方法によってのみ、自分が何者かを知りうるのだとした。-サルトル

面白いですね。自分が何者か自分自身では良くわからないから、持っているものによって自分のことが分かる。。。自己ブランディングみたいなもの。

私たちは所有物を通して自己のシグナルを他者に発信しているが、所有物はまた、自分は何者かというシグナルを私たち自身に発信し返すものでもあるのである。

エコバッグを使い、古着を着て、ユーズドの家具などを持っている人は、自分は地球環境に気遣っている人だ、というブランディングを他者だけではなく、自分に対しても発信している。

所有物は成功を周囲に告げ知らせるための手段だ。他の動物と同じように、人間も自分の遺伝子を複製し、次世代に伝える機会を増やすためにシグナルを送る。だが人間の所有物は、身内以外の他者にも評価されたいというもっと強い欲求をも満足させてくれる。

高級外車に乗って、ハイブランドのブランド名がドーンの書いてあるTシャツを着ている人などは、成功者であることを撒き散らしたい願望・欲求が強いということなんでしょうね。

成功者とか勝ち組・負け組という言葉をお金の多寡だけで使ったりすると、非常に下品な感じだなーとは思いますが、指標としてわかりやすいんでしょうね。

自分の成功を他人の成功と比べる社会的比較を行うと、自己不全感が刺激されやすい。作家ゴア・ヴィダルの警句を引けば「友人が成功するたびに私は少し死ぬ」のである。

なんとも人間の弱さを良く言い当てているような言葉ですね。誰しもがある気がします。自分に彼氏彼女がいない時には友達の彼氏彼女ができた話にも素直に喜べない。結婚、出産、出世、なんにでも当てはまりそう。少し死ぬ。

FOMO(fear of missing out)「取り残される恐怖」を味わう、自分だけが無視されていると勝手に考える。

世界から取り残されているような感じですね。正確には世界が取り残すもなにもないので、同世代や近くの友人たち、自分の社会から取り残されているような感じだと思います。

マーケティング業界と自己啓発業界のせいで、私たちは幸せでないことに罪悪感を覚えるようになった。

これは本当にそうでしょうね。広告によって、幸せになるためには⚫︎⚫️が必要、と言われ、自己啓発本で、自分次第で幸せになれる!とか言われたり、(=幸せじゃないのは自分のせい)いろいろ振り回されますね。

幸せの定義なんて人それぞれだし、幸せでならなければならない、というような言葉にもちょっと抵抗を感じます。

ほっといてくれ、と。

幸せを目指して生きよう。とか真っ当なようで、自分で考えちゃうと疲れてしまうので、くつろぎながら生きよう。というのが最近です。

自分がくつろげれば、周りの人にもくつろいでもらえるようにしたいし(周りがイライラしていると自分がくつろげない)、最終的には地球にもくつろいでもらえるようになるといいなー、とか。

所有というのも人間の欲望に深く関わってきますし、それをマーケティング業界や資本主義パワーが強化して勧めてくるので、それに負けずに所有欲をコントロールしよう!そんな当たり前の結論になってしまいました。


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