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生成AI時代のプログラミング教育 ―つくること・学ぶことの歓びに向かって―

シンポジウムの感想

10月9日(月)に東京大学情報学館福武ホールで開催された、GENEE 第三回シンポジウムに登壇しました。大先生方の末席に加えていただき、大変ありがたく貴重な経験をさせていただきました。まずは見てくださった皆様、関係者の皆様に御礼申し上げます。

久しぶりの福武ホール

私からは「生成AI時代のプログラミング教育 〜つくること・学ぶことの歓びに向かって〜」というタイトルで発表させていただきました。当日使ったスライドはこちらで公開していますので、よければ御覧ください。

当日は会場・オンライン合わせて大体400人くらいの方が聞いてくださりました。自己紹介の冒頭でも言いましたが、私のような若輩者がこのような場で求められているのは、変に守りに入るのではなく、かなり大きいことを責めの姿勢で言う事かなと思い、今回はビジョンや理念的な内容を多くお話させていただきました。かなり緊張していましたが、言いたいことは大体言えたと思ってます!なので、あとは皆様からのフィードバックを頂いてよりよいものを作っていければと思っています。


質問へのご回答

さて、当日はかなり多くのご質問を頂いており、すべてに回答できていなかったため、その中から私に向けられた(と思われる)いくつかのご質問をこちらの note で勝手に回答してみようかなと思います。

① プログラミング教育の具体的未来

宮島先生のスライドで,生成型AIが発展すると,やりたいことを生成型AIに伝えるだけで作品が出来る時代が来るとされています.では,このような状況で必要となるプログラミング教育では,どのようなことが大切になるのでしょうか?今,各教育機関で教えているプログラミングの基本,例えば,構造化プログラミングを教えなくても良い時代が来るのではないかと思っています.このような時代を迎えるにあたり,宮島先生をはじめ,どのような教育を初等中等教育で実践していくか,あるいは,どのようなことが大切になるのか先生方のご意見を伺いたいです.

これは近い将来と遠い未来に分けて考えたほうがいいかなと思っています。先に遠い未来の話からすると、スライドでも述べたとおり、「プログラミング」が指し示す具体的な活動が変わってくると予想されるため、生成AIにやりたいことを説明する力をつけることが求められるようになってくると思います。構造化プログラミングの代表的な構造である「順次」「繰り返し」「分岐」といった概念はもちろん必要だとは思いますが、それを意識せずともコンピュータに実現したいことを説明することができるようになればいい。
一方、近い将来の話をすると、まだこのように自然言語だけですべてが完結するコンピューティング環境は出来上がっていないため、もう少し現実的なプログラミング教育が求められると思います。ただ、それは来るべき未来に必要となる「作りたい」という想いを涵養するようなカリキュラムである必要があると考えます。シンポジウムの中でも、「思考力重視からつくること重視へ」というスローガンを提示しましたが、つくることへの興味を失わせないようにすることが最も大切だと思います。

② AI 時代のアイデアについて

宮島先生に質問します。アイデアは特許法でも著作権法でも保護されません。アイデアを簡単に実装できる時代では、それらはよりオープンに共有の社会的資産として扱われるべきとお考えでしょうか。

スライド11-12枚目に関連してのご質問だと思うのですが、ここで私が想定していたアイデアは、もっと小さいもので、自分の身の回りで「こういうものがあればいいな」とか「こうやったらうまくいきそう」みたいなことを生成AIとの対話を通じて(ハード、ソフト問わず)ツールを作り、解決していくといったレベル感を考えていました。デジタル製品の自給自足、とでも言いましょうか。そして、そこで作られたものはデジタルデータなので、他者と共有可能になります。それを使うかどうかはユーザ次第ですが、どう作られているかがわかるようにソースコードごと GitHub などで公開されていると次に繋がりやすいのでいいなとは思います。
一方で、大企業が提供する品質の高いツールとどう対峙していくかは考えていかなければなりません。言い換えるのであれば、私たちが作ることの歓びを感じることと、(資本主義的に)豊かな生活を送ることがどういった関係にあるのか、ということだと思います。

③ 生成 AI 時代における幼児期の体験

宮島先生のお話から、プログラミングを通じた作品作りが、生成AIの活用を通じてより平易になり、その歓びやその行為自体が重視されていくことに賛同です。それにより低年齢の子供たちも作品作りに取り組むことが出来るようになりますが、就学前の幼児期において学ぶべきこと、経験すべきことは何かありますか。

今回の発表ではいくつか触れなかった部分の一つが、この「何を経験すべきか」という問いに関する部分でした。補足させていただきます。

生成AIの発展によって問われるのは、自分自身が「なにをしたいのか」「何が好きなのか」「なにを"いい"と思うのか」といった価値観に関する部分です。美馬先生はシンポジウムの中で「これからは哲学と家庭科」と仰っていましたが、私も完全に同意で、これから「哲学」や「倫理」といった分野がかなり重要になってくると思います。

では、価値観を鍛えるためにはどうすればよいのか。私は「ホンモノにふれる体験」をたくさんすることと、「ホンモノを生み出す体験」の両方が必要になってくると考えています。例えば、本を読むということは「ホンモノの思考にふれること」ですし、アートを鑑賞することは「ホンモノのクリエイティブにふれること」になります。一見 AI やテクノロジーと反対にあると思われがちな自然学習も、「ホンモノの自然にふれること」に繋がりますからとても大切です。
また、たくさん「ホンモノを生み出す」ことも大切です。自分自身がこれだと思ったものをたくさん作ってみることで、徐々に磨かれていく価値観があると思います。
一方で、こういったホンモノ体験・経験は、社会文化資本の差によってできること、できないことが生まれてしまいます。今でもこの差はありますが、それがより一層拡大してしまう可能性があることに注意を向ける必要があると言えます。

ここでいう「ホンモノ」とは、有名な絵画を見るとかクラシック音楽を聞くとか、そういうことだけを指しているわけではありません。人間は空間や環境から多くのことを感じ取ります。そのための空間に身を置く、ということが僕はホンモノ体験だと思っています。
例えば、スライドの左側に写っている写真は、6月に高野山を訪問したときに撮影したものです。この写真からは分かりづらいかもしれませんが、このとき傘をさしていても全身びしょ濡れになるほどの大雨が降っていました。同行してくれたガイドさんがすぐとなりにいるのに、まったく声が聞こえないほど雨音がうるさい中でしたが、それが逆に高野山の厳かさを際立たせていました。写真や動画で見て知るのと比べて、自分自身がその中に身を置くと、まったく別の感動を覚えます。さらにその解像感を高めるのが「知識」です。ガイドさんから聞く話も、受け手側がある程度のことを知らないと入ってこないわけで、だからこそAI時代も知識を覚える活動がなくなるわけではないということだと思います。世界をおもしろく見るためにたくさん学ぼう!ということですね。

さて、長い補足は一旦さておき、質問いただいた幼児期の経験ですが、私は身体感覚を伴うたくさんの経験をするといいんだろうなと思っています。幼児教育の分野はまったくの素人ですが、デジタル経験はアナログ経験と相互的に合わさって理解されるような気がします。幼児期のうちからタブレットのゲームに夢中になって消費的に過ごすのは、最も創造的な態度にあふれる時期としてはもったいないように感じます。身体活動を伴う創造的な経験(例えば、ブロックや積み木などなど)をたくさんさせてあげるといいと思います。このあたりは、スライドでも最後に取り上げた Scratch の開発者である Mitchel Resnick 教授のご著書である Lifelong Kindergarten にもいくつかヒントが書いてありますので、ぜひご覧ください。

④ 生成AIと「作ることの歓び」

宮島先生の「つくることの歓び」のお話を聞きながら、「果たして我々の生成AIを使うことの歓びはどこからくるものだろうか」と思いました。 

質問の意図を正確に汲み取れている自信があまりないのですが、「生成AIを使うことは歓びにつながるだろうか」と読むとすると、私もとても同意する部分が多いなと思っています。
最近考えていることのひとつに、「画像生成AIを使って30分で作った画像と、3時間かけて書いた下手くそな自画像、どちらが自分のものとして感じるだろうか」という問題があります。生成AI を使ったらたしかにやりたいことはすぐできる。でも、"自分のもの感"ってあるのだろうか。"自分のもの感"がなければ、作ることの歓びは感じられないのではないか、ということです。このあたりはまだまだ研究しなければならない領域だと思います。
私はこの問題をよく"シムシティ"と "Minecraft" の違いとして考えられるのではないかと思っていて、シムシティはある程度デザインされた建物を戦略的に配置していくことで街を作っていくのに対し、 Minecraft は建物の形を1ブロックずつ作っていくことを繰り返していくことで街を作っていくゲームです。出来上がった街を見ても、シムシティのほうは自分で都市計画を考えながら配置したにもかかわらず、どこか自分の知らない街という感覚があるのに対し、Minecraft で作った街を見ると、外観はしょぼいかもしれないけれど、誰とも被っていない完全にオリジナルなもので、自分の街感が生まれます。この差が「生成AI時代の創造性」にどのように現れてくるのか、今後も研究していきたいと思っています。

⑤ 生成AI時代の教師のあり方

これからの学校は子どもの創造的思考力、ジェネレーターを育てる必要性があることに共感します。そのためには学校教職員が教育そのものに向かう姿勢を変えていく必要がある気がしますが、そんな先生方の意識を涵養するためにより良い方法とかご提案があれば、教えてください。

とてもむずかしいテーマです。「教師の意識改革」なんてことははるか昔から何度も言われてきたことですが、そもそも他人の意識を改革することが可能なのかどうか、という点から議論してもいいくらい根深い問題だと思っています。
一方で、私はシンポジウムの最後にお話したことが少し関係するのかなとも思ったりしています。それは「自分たち自身で考え続ける」ということです。すでに誰かが見つけている答えをインストールするという受動的な態度がそもそも教師の自律性を奪ってきているのだと思います。生成AIとプログラミング教育、生成AIと情報活用能力といったテーマは、まだ誰も答えを持っていません。人類全員がほぼ同時にこの問題に取り組み始めるという、なかなかない状況になっているわけです。こんなおもしろいタイミングなのに、生成AIを数ある「教えなければならないコンテンツの一つ」として捉え、誰かが言ったことをそのままやるなんていうことになってしまってはいけないと思います。
これは、教師全員生成AIについて考えろ、といった暴論を言っているわけでは決してありません。自分が考えるべきテーマを考えていくという癖をまずはつけていく、自律性を取り戻すことが全てなのではないでしょうか。

⑥ 生成AI時代にプログラミングを学ぶ理由

宮島先生の説明を極端にとらえると、例えば高校の情報科では問題解決の手段としてプログラミングが位置づけられいますが、AIを使用すればプログラミングはいらないですか。例えば数学を学ぶ理由に論理思考の獲得と考える一人もいるように、プログラミングを学習する本質はどう考えますか。

例示いただいた高校情報1における「問題解決の手段としてのプログラミング」を例に考えるのであれば、「問題解決の手段を身に着けさせたい」という本質と「プログラミング能力を身に着けさせたい」という本質の2つが同居しているように思います。教育では、しばしば「手段の目的化」が起こりますが、様々な手段が生成 AI によってハードルが下がっていくことを考えると、手段の目的化を合理的に説明することがだんだんとできなくなっていくのではないかと考えています。
プログラミングを学習する本質は、コンピュータを使ったものづくりを経験することにあると思います。そのためには、論理的思考と呼ばれるものや、デザイン力、あるいは英語力など色々な力を総動員しなければなりません。そして、その中核には「つくりたい」という欲求が働かなければうまくいかないでしょう。そういった意味では、「問題解決の手段」に限定するのも少しどうかなと思わなくもないですが、学齢によって問われることが変わるというのも理解できます。
そのあたりは、こちらの note に書いているのでよろしければ御覧ください。

まとめ

以上、当日触れられなかったことも含めていくつか補足的に説明させていただきました。ここまで、5,500字に渡る長々とした文章を読んで頂きありがとうございました。
ここで書いた様々な考えをどのように具体化していくかが今後自分自身には問われていると理解しています。ぜひ皆様から色々な意見を頂きながらこれからも研究に励んでいきたいと考えています。

ひとりじゃできない、みんなで行こう(Stable Diffusion で作成)

最後に、シンポジウムの挨拶でもお話したことと被りますが、生成AIと教育の話は、まだ誰も明確な答えを持ち得ていません。私が今回させていただいた話も、私の研究背景を通して見えてくるひとつの見方に過ぎないわけです。この山を一緒に登る仲間たちを増やしていきたいなと思っています。
そのために、やった実践や研究をどんどん発表し、協力しながら先に進んでいきたい。まだどんな山かもはっきりとは見えませんが、気づいたらおもしろいところにいれると思います。やっていきましょう!

宮島衣瑛です!これからの活度のご支援をいただけると嬉しいです!