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岐阜考察3 飛騨

飛騨と美濃

岐阜県は美濃と飛騨という2つの地方に分かれている。

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両者とも歴史は古く、成立は飛鳥時代にまで遡る。恐らく日本で最初に作られた行政区分である律令国の一つとして産声を上げた。爾来、隣り合ってはいるが特に交わることはなく千年以上が過ぎる。途中、織田信長が尾張(愛知)から出て美濃を治め、本城のある稲葉山一帯を岐阜と改めたが、そこに飛騨は含まれていなかった。

美濃と飛騨が岐阜としてグルーピングされたのは明治の廃藩置県によってである。ただし、最初からこのグルーピングになったわけではない。はじめはそれぞれ別の県として成立し、最初の置県から5年後に紆余曲折を経て岐阜県となる。

このように、岐阜県はここ百年の間に飛騨と美濃のお見合い結婚のような形で成立した。そのため、というわけではなかろうが、環境、文化、あらゆるものが異なる様相を呈する。私は美濃地方の生まれで、後々は美濃を中心に話すので、ここで飛騨について触れておきたい。

飛騨

仮に全国で岐阜県のイメージを調査したとする。一番多い回答はよくわからない、知らないとなることは間違いない。ただ一部の岐阜県を教養として知る人々は「雪山に囲まれた田舎」と答え、さらに極一部の岐阜への造詣が深い稀有な人々は「白川郷、さるぼぼ、スーパーカミオカンデ、御嶽山、野麦峠」等の固有名詞を答えるかもしれない。これらは全て、飛騨のものである。

飛騨は日本アルプスより北側にあるため、冬になると日本海を渡った北風が日本アルプスを越える際に雪を降らせ、豪雪にまみれる。一方、日本アルプスを挟んで南側、岐阜県民の言い方に倣えば太平洋側にある美濃地方は、水分を北側で落としてきた寒風が吹き荒れるだけで、寒いは寒いが雪は降らない。年に数回、数センチも積もればよく降った方である。

ところが、私が大学生の頃、東京で知り合った友人たちに岐阜の出身と言うと概ね、雪深い山の中で合掌造りの家からスキー板でも履いて上京してきたようなイメージを持たれた。愛知で就職した際も、岐阜に実家があると言うと、人類未踏の秘境からやってきたかのような扱いを受けた。実家から出勤したときなどは、「どうやって来たの?」としきりに聞かれた。先にも述べたように、実家は名古屋から1時間ほどの距離にあり、電車も走っているという事実は彼らを大いに驚かせた。

このように、県外に住む多くの日本人にとって、岐阜県とは飛騨のイメージが強いと言える。ところが、美濃地方に住む人々にとって、飛騨とは近くにありて遠きに思うものであった。美濃地方域内においてさえ移動に困難が伴う中、日本アルプスを挟み、冬は雪に閉ざされる飛騨へ行くというのは心理的障壁が非常に大きい。また、そこまでして県内移動、県内旅行を楽しみたいのかと問われれば難しいところがある。一部の山派アウトドア愛好家を除き、岐阜県民の多くは海派なので、飛騨に赴く積極的な理由がないのである。私自身、白川郷へ初めて行ったのは25歳を過ぎてからであった。それも、両親が転勤で金沢に住むことになったので、それを訪ねていく道中に立ち寄っただけである。その時抱いた思いは、「こんなところがまだ日本にあったのか…」であった。他人事である。

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