見出し画像

木原事件 ある国会議員一家の事件簿(8)

この物語はフィクションであり登場する人物は全て架空の人物です。

逸子の事情聴取が始まって数日経った頃、警察が押収したタクシーのドライブレコーダーには事情聴取について話し合う鬼原と逸子の二人の姿が写っていました。「警察はもう全部知っているわ」「いや、心配ない!とにかく何も喋るな!俺が手を回してあるから大丈夫だ!」「でも淳が全て警察に喋っているのよ」「大丈夫!あいつの言うことだけでは証拠にならない。彼らの言っていることは罠だから、もうこれ以上絶対に喋るな!」このドライブレコーダーを見た斉藤警部補は「これでもう逸子が喋ることはないな」と諦め気味につぶやきました。「そろそろ切り札を出すしかないかな」斉藤は最後の賭けに期待しつつ取調室に向かいました。

取調室で逸子に向かった斉藤警部補は古びた写真を取り出し、机の前に放りだします。「一体これはどういうことだ!随分楽しそうだな!なんで亭主が遺体で発見された晩に嬉しそうに山本と酒を飲んでいるんだ!」逸子は写真を覗き込むとそのまま身体の動きを止めました。顔は真っ青になり、何も言わずにただ俯いていました。それ以降、逸子は何を聞かれても一切答えることはありませんでした。その日、家に帰ると逸子は鬼原に「もう絶対無理!これ以上は耐えられない!」と泣きながら訴えました。鬼原は「わかった。これ以上、事情聴取しないように手配するから心配するな!」と泣き続ける逸子を抱きしめました。

三階幹事長は鬼原からいよいよ危ないと言う緊急報告を受けると普段から昵懇の警察出身の松田官房副長官に連絡を入れます。松田は公安畑の警察官僚で既に6年もの間、官房副長官として現政権の裏仕事を一手に引き受けていました。三階の真意を察した松田は早速栗山警察庁長官に電話を入れると鬼原議員夫人の事情聴取を取り止めるように指示します。指示を受けた栗山はこの年の春、警察庁長官になったばかりでした。彼はパチンコ業界との癒着に関する怪文書が出回るなど決して評判のよい長官候補ではなかったものの松田官房副長官の根回しによりなんとか長官になれた経緯があり、松田に逆らうことなど決して出来ませんでした。栗山長官は警視総監を飛ばして直接警視庁刑事部長に鬼原夫人への事情聴取取り止めを指示すると共に捜査自体も縮小するように命令しました。もちろん刑事部長はそれを現場に伝えると共に警視総監にもきちっと長官の指示だったとして事後報告をしています。

「なんでなんだ!」斉藤警部補は「今日で事情聴取は終わりだ」と言う上司の命令に抵抗しました。「あと少しのところまで来ているんだ!何とかなりませんか?」「これは上からの命令だ。我慢してくれ」斉藤はやり場の無い悔しさに拳を握りしめました。「これが最後なら今回はあいつと二人だけで話をさせてくれ。調書も取らなくていい」そう言って取調室に向かった斉藤は「聴取は今日で終わりだ。だから今日は調書なしだ!その代わり本音を聞かせてくれ!」逸子は黙って頷きました。「お前本当はやってないよな?」「はい」逸子は小さな声で答えます。「だよな!あんなこと女のお前には出来っこないからな」逸子は黙って頷きました。「やったのは多分お前が一番大事にしているやつだな」逸子はそれに答えることなく、顔を下に向けます。「この話は墓場まで持っていくからお前も今の亭主をしっかり仕えて行くんだぞ!」逸子はゆっくりと頭を下げ、係官が入って来て退室を促されるまでじっとしていました。

逸子を迎えに来た鬼原はタクシーの中でじっと前を見ながら昔のことを思い浮かべていました。親が心配して紹介した裁判官の娘や地銀頭取の娘との縁談を逸子はことごとく潰して来ました。4年前経済同友会の秘書をしていた高級料亭の娘との縁談があった時は結婚式の日取りまで決まっていたのに逸子は自分の妊娠を武器にその婚約を破棄させていました。それだけではなく、当時鬼原には他にも彼の子を宿している銀座のホステスがいましたが、逸子はそのホステスとも話をつけ、自分は鬼原と入籍したのでした。「警察が事件当時ちゃんと捜査をしてくれたら、俺はあいつに出会うこともなかったし、まして子供を作ることなんてなかったのに」警察の事情聴取の際、思わず本音を言ってしまったことを少し後悔しながらも今とは違った自分の人生を思い浮かべながらぼんやりと外の景色に目を移しました。

本件の合同捜査は解散となり大塚署とサツイチの捜査員はそれぞれ元の部署に引き上げ、トクイチが未解決事件として引き続きこの件を担当することになりました。ただ、当初この事件に気付いた女性刑事の山下は他部署への異動となり、逸子の事情聴取を担当した斉藤警部補はサツイチには戻らずトクイチに異動となりますが、トクイチでこの件を担当することは二度とありませんでした。
(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?