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孫が手を広げヒコーキ蝌蚪の紐

今日の絵は長崎の眼鏡橋です。長崎に行ったのはもう10年くらい前のことでしょうか。移住地探しで訪れたものの坂が多いので諦めました。風光明媚なところは坂が多いのですね。京都は山に囲まれながらそこそこの大きさの盆地で坂もほとんど感じないくらい緩やかです。北から南に徐々に下る地形はきれいな地下水を緩やかに街じゅうに運んでくれます。勿論今は井戸水を飲んではいませんが、老舗の料理屋や豆腐屋などは今でも京の軟水でないとこの味は出ないと言います。当然、伏見のお酒も全て美味しい湧き水ですね。

話は眼鏡橋に戻りますが、この橋は日本で最古の石造りアーチ橋だそうで、寛永11年(1634年)に中国人僧侶によって作られました。まだまだ江戸時代初期の頃ですね。当時長崎は既に幕府直轄地になっていますが、中国人は西洋人と違い出島に閉じ込められることはなく、自由に長崎の街を闊歩していました。長崎奉行は江戸幕府から派遣されているものの街の警備は佐賀藩と福岡藩が交互に行っていました。幕末に佐賀藩(肥前)が薩長土肥の一つとなれたのも長崎で警護をしていたことから海外の新しい情報に詳しく、最新式の「アームストロング砲」を自ら製造出来るほどの技術力を持っていたからなんですね。

長崎と言えば私の大好きな「皿うどん」が有名です。パリパリの細麺なのに何故「うどん」と呼ぶのかとても不思議です。小麦粉の麺「うどん」は中国語で「饂飩・うんどん」と書きます。奈良時代に唐の国から入って来たものである意味、うどんは元々中華麺のことなんですね。長崎で有名な「ちゃんぽん麺」の麺を想像すると何故「饂飩」なのかわかりやすいですね。ちゃんぽんは現在では長崎市内に立派なビルを持つ四海楼の初代店主「陳平順」が明治25年に福建省からやってきて作り始めたものだと言われています。当初は「支那饂飩」として売出し、大正3年に発行された長崎案内でも長崎名物「支那饂飩」と書いてあるそうです。皿うどんはそのちゃんぽんを配達する時に汁が溢れるので汁を抜いて「汁なしちゃんぽん」にしたのが原型だとネットに書いてありました。皿に入れた支那うどんだから「皿うどん」になったと言う訳です。でも皿うどんの麺はちゃんぽんの太麺ではなくパリパリの細麺ですよね。どうもピンときません。そこで四海楼のHPを見てみると「汁なしちゃんぽん」説など書いておらず、皿うどんは「炒肉絲麺」がその原型だと書いてありました。当時、お椀やどんぶりで出していた「饂飩」を皿で出すので「皿うどん」と命名したそうです。う〜ん。「汁なしちゃんぽん」説は面白かったのですが、ガサネタだったのでしょうか?いやきっと都市伝説なのでしょうね。

孫が手を広げヒコーキ蝌蚪かとの紐

孫が飛行機が飛ぶように両手を広げて遊んでいます。いつか知らない世界へと歩み出すであろう孫を見ながら、しみじみと命の繋がりを感じる瞬間でした。そう「蝌蚪の紐」とは紐のように繋がっているおたまじゃくしの卵のことで春の季語になります。

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