見出し画像

子らの声ひときわ高き春休み(醒ヶ井・別雷皇宮の扁額)

米原市醒ケ井にある別雷わけいかづち皇宮の鳥居には少し変わった形の扁額(神額)があります。亀のようにも見えますが多分、玄武だと思います。玄武は四神の一つで北方を守る水神です。ちなみに東は青龍、南は朱雀、西は白虎ですね。別雷皇宮は上賀茂神社(賀茂別雷神社)と同様に賀茂氏の祖先を祀っています。実は琵琶湖周辺には加茂神社が沢山存在します。米原市以外にも長浜市、高島市、近江八幡市、湖南市、甲賀市などに加茂神社があり、大津市の地主神社や産屋神社も賀茂氏を祀っています。加茂神社と言えば京都の上賀茂神社、下鴨神社が有名で勿論こちらが総本社です。でもひょっとしたら賀茂氏は京都の北だけでなく比叡山を超えて滋賀県の琵琶湖一帯、いや美濃加茂市あたりまで影響力があったかも知れません。

京都は秦氏が天皇家に広大な領地を提供して作られたと教科書に書いてあった記憶があります。(今の教科書で何と書いてあるかは知れませんが。)習った当時はずいぶん気前のいい一族がいるのだなと思っていましたが、どうもそんな単純な話ではなさそうです。秦氏はある程度出自が分かっている渡来人で、全国各地でその足跡を残しているので渡来人全般を指すと言う学者もいるくらいです。彼らは6世紀に奈良・葛城から葛野系と深草系に分かれて京都に移り住んでいます。渡来人らしく土木技術や計数管理能力に優れ太秦や葛野あたりで桂川の開拓や河川管理を任されていたものと思われます。そんな訳で秦氏が京都を所有していた領地を朝廷に献上したという単純なことではないのは確かです。そもそもこれだけ大きい平安京を一気に作ったのですから当時それほど多くの人は住んでいなかったのかも知れません。(古い遺跡の場所からしても北白川とか太秦や乙訓など盆地の山裾に人が多く住んでいことが分かります。)賀茂一族は京都盆地の北に住み、水の湧き出る地域にいた訳で京に都が出来たあとは都の北を守る水神・玄武そのものだったのかも知れません。

少し前に上賀茂神社のお祭りで鴨さんと言う宮司さんとお会いしたことがありました。聞いてみるとまさに賀茂氏の末裔とのことでした。飛鳥時代に賀茂氏がいたことは記録に残っているのでその賀茂一族が今日に至るまで連綿と続いて来たことに感動さえ覚えました。でもよく考えれば、出雲や太宰府などの古い神社には長く続く宮司一族はきっといるのでしょうね。

子らの声ひときわ高き春休み


今日は話が固くなって俳句がなかなか出て来ません。そこで最近気がついたことを俳句にしました。春休みなど縁のない生活をしていても近所の子供たちの遊ぶ声が大きく聞こえるようになるとああそうか春休みになったんだなと感じる、ただそれだけの句です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?