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アデル 第十五話 痕

 アデルのダメージは軽微なものだった。床に倒れていた男子生徒はすぐさま起き上がったが、夕星は彼の手当てをするようアデルに指示した。
 生徒の名は雨宮幹(あめみや みき)。家より学校のほうが勉強に集中できるからと、残っていたらしい。小柄で中性的な雰囲気。優等生で他の生徒と問題を起こすような人物ではないとのことだ。

 翔に殴られたのかと問いただす教師にも、幹は言葉を濁していた。報復を恐れてのことだろうと、追求は先送りとされている。
 彼の頬は腫れていた。傷が残るような怪我ではないのだが、精神的なショックの方が大きいのかもしれない。

 保健室の診察台に座った幹は、視線を漂わせたままである。触れたときに伝わった感情は、怒りと恐れ。殴られた直後だ。当然のものとも言えたが、アデルにはそれだけではないような疑問が浮かんでいた。
 処置が終わると幹はすぐに診察台から降りた。逃げるようにドアに向かう背中へ、アデルが問いを向ける。

「他の傷はもう傷まない?」

 ビクリと硬直したのが見てとれた。幹の身体にはあちこちに痛々しい傷痕が残されていたのだ。後遺症を残すような重度のものはないが、数が多い。

「階段から落ちたんだよ」

 振り返りもせずにそう返し、幹は保健室を出ていった。嘘であることは明白である。
 いじめ。自傷。もしくは、虐待。アデルは可能性のある項目を並べてみた。古い傷、それも火傷のケロイドまであったからだ。

 親からの虐待? 夏休みであるにも関わらず、帰宅しない生徒。視線も合わさず、追いつめられたような表情。
 しかし彼にはまだ怒りがある。理不尽な環境に長く留まると、人は心を防御するために感情を殺す。加害者への怒りを持ち続けるには、強いエネルギーを必要とするのだ。それに疲れて心を空洞にする方が楽なことが多い。

 怒り……。誰に、何に向けてのものだろう。
 どうやらもう一つ、何かしら要因があるとアデルは思った。実に人間らしい要因であったことは、すぐに知れることとなる。

 ◇

 端から翔を犯人扱いして憚らない指導教員に、退学にでもなんでもしやがれと開き直る翔。生徒指導室でのやりとりを聞きながら、夕星もまたしっくりしない思いでいた。
 アデルは廊下で襲われている。記録映像にドアを開けた音は入っていない。廊下の影に隠れていた別の人物がアデルを襲ったとは考えられないだろうか。
 となると、一番怪しいのは雨宮幹となる。

 だが、夕星の思考はそこで止まった。事の原因が、彼の大変苦手とする分野だったからである。仕方のない話だ。それが夕星の夕星たるゆえんでもあるのだから。

 ◇

 幹の個室には真ん中に大きな作業台が置かれていた。遠隔操作のロボットを製作しているらしい。台の上には様々な工具が几帳面に並び、やけに整然としていた。

 訪室したアデルを目にした幹の顔に、一瞬だけ迷惑そうな表情が浮かぶ。しかしすぐ、大人しい優等生の態度に変化した。
 『演じている』ということがアデルには分かるのだが、その演じ方のそつのなさに違和感を覚えた。一朝一夕に身につけたものではないようだとアデルは思う。かなり長い期間、抑圧的な環境にいる人物のようだと。

 相手の仮面を剥ぐのは、この学園の教師には難しかったらしい。ただ、今この時期だけは、それが容易くなる方法があった。

「幹くん。このままだと翔くんが退学になるかもしれない。何か知ってることがあったら教えてくれないかな?」

 アデルの落とした爆弾は効果的だった。



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