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Love me Tinder

夫とのセックスレスにより自尊心がずっと危機に晒されているせいか、仕事家庭その他のうんざりするほどのタスクのせいか、このところ精神的にかなり追い詰められていた。出勤前、大きな窓のあるカフェで土砂降りの雨を見ながら無理に呼吸を整えた。仕事も家も名前も一切合切を捨てて遠くへ行きたくなる。自分の精神状態の決壊が近いのが手に取るようにわかった。どこかに逃げなきゃなぁ。あぁ。出勤前のカフェモカやボスの目を盗んで食べる甘いお菓子では誤魔化せなくなってきていた。第一、太りたくない。これ以上自分を嫌いになりたくない。

判断力が平素の半分以下になっていたわたしは、これだけは避けようと思っていたアプリをインストールしていた。Tinder。禁断の、出会い系アプリだ。「実際に会わなければ良いし、どうせ実年齢を入れたら誰も寄ってこないだろう」と思っていた。わたしは別段若く見えるわけでも、並外れて美しくもない既婚子持ちのアラフォーだ。でもこの苦しい現実から少しでも意識を逸らして、楽に呼吸がしたい。その一心で、顔写真を口元から下だけ晒し、名前と年齢以外を全て隠してその世界に足を踏み入れてみた。

次々と出てくる男性の顔写真とプロフィールを見て「アリ」か「ナシ」かを判断し左右に振り分けていく。何様だよ、と「ナシ」にした男性の声が脳内に響く。今後一切聞くこともないだろうに。男性に人格があることよりも、この人プロフィール写真が失敗してるなぁとか背景の砂漠のような景色はどこだろうとか考えてしまう。びっくりするのは冒頭に「既婚です」と書いてある人の多いことだった。顔を、そして大体の生息地を晒して相手を募る。職場や近所の人に知られたらどうするんだろう。これだけあっけらかんとされたら見てしまった側が気まずいだろうな。そうは言っても、うちだって公表こそしていないけれど外で恋愛してきても良いという変わった夫婦スタイルなのだし、世間にはいろんな人がいるものだ。

ややこしい地雷は踏みたくないので既婚と明記している人を避けつつ振り分け作業をしているうち、半日で十数人とマッチした。こんなにたくさん来るものなのか、地方都市とはいえそこそこの都会なので人口密度のおかげもあるのかもしれない。放っておくと立て続けにメッセージが来る。「今から会えませんか?」「お綺麗ですね」「⚪︎⚪︎ちゃんって呼んでもいい?」切り口も様々で、世間にはこんなに女を口説きたい男がいるのか、と驚く。口説くって言うんじゃないのかな、でも欲望にきちんとベールをかけてノックしてくるのだから、こちらも悪い気はしない。しかしながらさらに驚いたのは、メッセージのやり取りをしているうち「実は既婚で」と言う人が続々現れたこと!やっぱりそうかー、こっちもいえた義理ではないけど。

結局のところ、マッチした人のほとんどが既婚者だった。後の数名は外国人で、英語でのやり取りも疲れるし、Tinderで見たのは束の間の夢だった。あわよくば「近所に住む・結婚願望のない・三十代の男性(さらにできれば時間の融通のきく仕事の人)」と出会おうと思ってたのだけど、そんな甘くないですね。一日すぎると何だかもうバカバカしくなり、人に知られても恥ずかしいのでアプリをそっと消した。

とはいえ一日中ひっきりなしに届くちやほやワードの数々で、わたしのちっぽけな承認欲求はひとまず満たされた。出勤前の息苦しさも、代わり映えのしない日常への不満も静かに消えていた。これは少々力技だけれど、人生はこんな小さなアクションからいつでも変えられる。白雪姫に出てくる女王が向かうあの鏡みたいに、息苦しい時に覗き込むにはちょうどいいのかも。Tinderはいつでも手のひらに入る、現代の魔法の鏡かもしれない。「白雪姫のがいい女」って言われたら、長押しして消せばいいんだしね。

#セックスレス #夫婦 #夫婦関係 #出会い

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