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年間第23主日(A)年の説教

マタイ18章15~20節

◆ 説教の本文

「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。 」

〇 これは、言うことを聞かない者は無関係な人、どうでもいい人として扱ってもいいということではありません。異邦人や徴税人は、イエス様の慈しみの対象でした。それは福音書の記述から明らかです。
教会メンバーが負っている忠告と助言( 場合によっては矯正)する責任から解除されるという意味です。逆に言うと、通常は、教会メンバーは、互いにその責任を負っていることが前提です。教会のリーダーには、特にその責任があります。

この福音箇所は聖書の文言を解説することはできますが、説教することは難しいとずっと感じてきました。言っていることはわかるのですが、今の現実の教会でどういう場合に実践されているのか、なかなか想像できません。
もちろん、教会メンバーを批判することはあります。陰で批判するのは、ごく普通のことです。公の場で批判することもあるでしょう。指揮監督の関係にあれば叱責することもあるでしょう。
しかし、今日の福音にあるような手続きを踏んで、問題のある教会仲間に関わろうとすることはまずないと思われます。教会の現実の中にほとんどないことについて、(聖書の単なる解説でない)説教をすることは難しいのです。

〇 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」とは、どういうケースでしょうか。個人的な喧嘩というような ケースではないと思います。私個人に対してではなく、「教会共同体に悪影響を及ぼす」ような 行動という意味ではないかと思います。教会の財産を横領するというようなことは今でもないではありません。しかし、そういう刑法犯罪になりうるようなケースはごく稀でしょう(警察沙汰にするかどうかは迷うところでしょうが)。

〇 結局、今の教会でこの福音箇所が最も当てはまりそうなのは、「教会内で態度の悪い人」ではないかと思います。高圧的、威圧的に振る舞う人がいると、教会共同体に悪い影響を与えます。宣教にも良くありません。その人が、教会内で何らの意味で力を持っていればなおさらです。いわゆるパワハラですね。

本人は普通にやってるつもりだが、教会員から「独善的だ」、「信徒を侮辱している」と思われている司祭は時々います。しかし、「独善的 」、「侮辱している」という評価がそもそもかなり主観的ですし、主任司祭は権限上ほぼ万能なので、法規によって抑制することは難しいのです。
こういうケースで、今日の福音に記されている通り、まず一人の信徒が話をしに行く。次に、ニ、三 人で司祭のところに話をしに行く。「証人の 口によって確定される」とは、争いのもとになった出来事の目撃証人という意味ではなく、会合の場でこういう話し合いがなされたということの証人です。

それでも納得がいかなければ、司教のところに話を持ち込む。こういう手続きを経て、司祭が事実上更迭されるという ケースは何度か聞いたことがあります。ただ、更迭の理由は明らかにされることは少なく、定期の人事異動という形をとることが多いでしょう。司祭の問題が教会委員会とか、信徒総会に持ち出されて公に議論されるということは、カトリック教会では起こらないでしょう(プロテスタントの教会ではあるようです)。

私はこういうケースがもっとすっきり解決されることを望んでいますが、現場で起こっていることをよく知りません。曖昧に処理することの利点もあると思います。あれこれ言うことは控えたいと思います。私が聞いたのは苦情を持つ信者の立場ばかりで、苦情を言われる司祭の立場は聞いたことがないのです。

〇 そこで、こういう手続きが実際に行われた時(滅多に行われないと思いますが)、関係者が心に留めるべきことについて話したいと思います。

私たちは、人と対決(confrontation)することを怖れます。私自身がそうです。どうにもならなくなってから、やっと腰を上げて話に行きます。そして話に行く場合、最初から対決姿勢にとりがちです。つまり、これまで我慢していた分、当方の言いたいことを「はっきり言ってやらなければ」ならないと決心して出かけて行くのです。

この段階でも 、相手の言い分をもう一度、本気で耳を傾ける姿勢は必要です。そもそも、まだ自分の心に余裕があるうちに、話に行く方が良いのでしょう。しかし、苦情を言いに行くのは気が重いものなので、先延ばしにしてしまうのが、私たちの現実でしょう。

言いにくいこと(苦情)を言いに行くということは、私自身が最も苦手としてきたことなので、これ以上偉そうに言うのは避けたいと思います。
第ニ朗読のローマ書簡にこうあります。教会の中で問題視されている人も、隣人であることを忘れてはならないと思います。

「 愛は隣人に悪を行いません。 だから、愛は律法を全うするものです。」

☆ 説教の周辺

マタイの福音書にはイエス様の教え(discourse)がまめられたブロックが 5つあります。第一は、いわゆる山上の垂訓(5~7章)です。第二は、10章で、宣教についての教えです。第三の13章には、神の国についての喩え話が集められています。
第四は、教会共同体の人間関係の教えが集められている18章です。今日の福音朗読はここから取られています。第五のまとまりは、24章から25章です。世の終わりに関する教説です。

そのそれぞれは、「イエスはこれらの言葉を語り終えると、そこを立ち去られた」 という意味の文章で締めくくられています。