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【こんな映画でした】49.[沈黙 SILENCE]

2022年 3月26日 (土曜) [沈黙 SILENCE](1971年 日本 129分)

 篠田正浩監督作品。6年の準備を経て、製作されたとのこと。ロドリゴを演じたのはイギリス人ディヴィッド・ランプソン(David John Lampson 1939 - 2009)。一時(1968~1974)アイリーン・ブレナンと結婚していたようだ。

 キチジロー役はマコ岩松(撮影当時37歳)。やや顔がふっくらしていたので少しイメージが違った。どうしてもスコセッシ監督版の窪塚洋介と比較してしまう。同様のことをいえば、奉行の井上は特に印象が薄い扱いだ。岡田英次という大物俳優のせいでもあるか。通辞はここでは戸浦六宏(とうらろっこう、撮影当時40歳)で酷薄な感じを主体にしている。スコセッシ監督版の浅野忠信とはかなり違った演出になっている。

 概して人物描写・人物造形がスコセッシ監督版に比べると、私にはやや物足りない感じ。要するにスコセッシ監督版は、キチジローを中心にして、あとモキチや村長など主たる登場人物を丁寧に描いている気がする。一方、篠田版はやや通り一遍の趣きがある。

 あと大物女優である岩下志麻・三田佳子に引きずられている感もなきにしもあらず。特に岩下は監督の奥さんということもあり、かなり長いシーンを演じている。他の監督ならもう少し短いカットにしてるかもしれない。

 それは武士である岡田三右衛門と、その妻・菊の拷問シーン。二人とも杭に繋がれ、鞭で叩かれ、雨の中に放置される。それでも転ばないということで、三右衛門は首から下を埋められて責められる。その際の菊の苦悶の表情をじっくり映し出す。名演だとは思うが、やや長すぎるか。
 情に訴える要素が篠田版の場合は強いようだ(それはラストシーンでもいえる)。なお菊が踏絵を踏んだ後、三右衛門は地中から引き出されるが、菊の見えないところで殺されてしまう。

 結局、ロドリゴは踏絵を踏む。それは牢屋の中で、フェレイラ(丹波哲郎)の立ち会いのもとで。映像も踏むところまで映している。スコセッシ監督版ではそれは映してなかった。これでロドリゴは転んだ側の人間となる。  
 次のシーンは元キリシタンの仕事として、フェレイラと二人で、輸入されたものが切支丹禁制品かどうかのチェックをしているところである。ここは一品だけ(スコセッシ監督版ではいくつかチェックさせていた)。

 それが終わってロドリゴは座敷牢に戻されることに。ただそこには菊がじっと正座して待っていたのだった。ロドリゴは彼女に近づいていき、いきなり抱きしめ、押し倒すことに。それをフェレイラは、悲しげな表情でチラッと見て立ち去っていく。

 ラストシーンは、ストップモーションでロドリゴが菊に接吻しているところで終わる。なおこの際の菊の表情は固い。当然のことだが、ロドリゴを受け入れているわけではない。むしろ反発か、はたまた虚無か。その表情の意味するところを読み解くのは難しい。

 ただ間違いないのは、そのロドリゴの行為は菊の慰藉にはなっていない。一方的なロドリゴの自らの欲望の行為としか見て取れない。もし本当に菊のことを思うならば、じっとお互いに見つめ合って時間を過ごすことだろう。夫と信仰をなくした失意の菊を、やはり棄教したロドリゴはともに手を携えてこれからを生きていかなければならないのだから。

 たしかにこの先、彼らは夫婦となるのだから、そのように行為が行われてもいいかもしれないが、今はまだその時ではない。だからあたかも強姦のようになり、フェレイラは顔を背けることになるのだ。
 ナレーションが、この日からロドリゴは岡田三右衛門と名乗ることになった、と。フェイドアウト。「終」の一字が表示されて暗転。

 なおロケ地の違いが出ているのは、やはり自然の景観(海岸や岸壁)、そして音である。サイレンス(静寂)とはうらはらに、蝉の声が耳に付く。スコセッシ監督版は台湾で撮影しているので、やはりどこか景観が違うような気もする。

 さて最後にもう一度ロドリゴの絵踏について考えてみる。私には彼があまり葛藤することなく踏絵を踏んでいるような気もしてしまうのだ。つまり信者の苦しみを取り除くためというよりも、フェレイラが言っていたように自らの教会を裏切るという行為に恐怖していたために、踏絵をためらっていたのではないか、と。そこがフェレイラとは違うところか。つまり篠田監督は、ロドリゴの信仰を信じてなかったのかもしれない。はたまた彼も所詮、一個の人間なのだと見ているのかもしれない。

 もちろん彼らは二人とも、形の上では棄教というか転んでいるが、その心の奥底は死の時まで決して神への信仰を捨て去ってはいなかった、と私は思う。

(フェレイラが穴吊りされたあとのロドリゴを牢屋に訪ねてきて言う)わしが転んだのは、神が何事もなされなかったからだ。わしは神に懸命に祈った。だが神は何事もなされなかった。.....

 なぜ彼らがそこまで苦しまなければならぬのか。それなのにお前は何もしてやれぬ。神も何もせぬではないか。.....

 役人はこう言った。お前が転べば、あの者たちはただちに穴から引き揚げられ、縄も解かれ、薬も与えられようとな。.....

 ごまかしてはならぬ。お前は自分をごまかしてはならぬ。お前が今、転ぶと言えば、彼らは助けられる。だがお前は転ばぬ。教会を裏切ることが恐ろしいからだ。もし基督がここにいられたら、確かに基督は彼らのために転んだだろう。(ロドリゴが「そんなことはない」、と叫ぶ)基督は転んだだろう、愛のために。
 さあ、今まで誰もしなかった一番つらい愛の行為をするのだ。さあ、勇気を出して。

 このあとロドリゴは踏み絵を踏むことになる。

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