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【こんな映画でした】401.[黄金狂時代]

2023年 1月 2日 (月曜) [黄金狂時代](1942年 THE GOLD RUSH アメリカ 72分)

 チャールズ・チャップリン監督作品。このブルーレイディスク版は、1925年のものに後にチャップリンがナレーションと音楽を入れた1942年のもの。1974年11月15日に映画館で観たのが初めてで、今回が二度目となるか。そのせいかこんなシーンがあったのか、といったところ。

 中でも印象的なのはチャップリンの後ろを熊が一緒に後をついて歩いているシーン。ひもじいために革靴を煮て食べるシーン(63テイクとのこと)。パンのダンスのシーン(11テイク。各50秒ほど。これは後にジョニー・デップが[妹の恋人]の中で再現している)。小屋が風で吹き飛ばされて崖から落ちかかっているシーン。

 何度も声を出して笑ってしまう。しかし、この映画製作のヒントになった事件は悲惨なものであった。1846年シェラネバダ山脈の雪の中で遭難して、飢えのために犬や人肉まで食べたとのことだ。とまれまさにゴールドラッシュ。金鉱を求めて、つまり一攫千金を狙ってのこと。この映画では金鉱が見つかり、億万長者になり、好きだった女性ジョージアとも結ばれるというハッピーエンドとなっている。

2023年 1月 6日 (金曜) [黄金狂時代](1925年 THE GOLD RUSH アメリカ 96分)

 チャールズ・チャップリン監督作品。これがオリジナルの字幕版。音楽はピアノが鳴っているが、これはもちろん現代の、つまり1925年版の記録を参考にして吹きこんだものとのこと。尺も1942年版に比べて24分も長い。字幕を映写している時間があるにせよ、これはかなりの違いである。

 復刻版はかなりのシーンがカットされていることになる。一度観ただけではキチンと指摘できないが、まず丸々カットされたシーンはなかったように思う。部分的にカットして時間を節約したり、冗漫と思われるところのシーンを短くしたりしているようだ。

 例えばジムがついに金鉱の場所を再発見したときの喜びの雄叫びのシーンは、短くされているようだ。ノンビリしていたらチャップリンが小屋ごと崖下に落下してしまうからだ。冗漫にならないようにカットしている。

 有名な「パンの踊り」は、いずれのバージョンでもきっかり50秒ほどであった。これはカットされるはずはない。しかし、その妄想のあとの現実としてジョージアがそのハンクの小屋に来たときには、失望したチャップリンは外へ、酒場へ出かけている。その小屋ではジョージアが彼に悪いことをした、という表情をしている。そのあと小屋に入ってきたジャックが、ジョージアに接吻を迫るが、ジョージアから平手打ちを食らわされている。

 このようなことがあって次の日、酒場でのジョージアはジャックあての謝罪の手紙(そして I love you.と)を書き、給仕に手渡してもらう。受け取ったジャックそれを鼻であしらう。さらにやってきたチャップリンに、意地悪くその手紙を給仕を通して渡させる。

 チャップリンはその謝罪(本当はジョージアがジャックを平手打ちしたことをなのに)を、大晦日8時のディナーの招待に行かなかったことに対するものと理解し(そのように解釈できるような手紙になっている)、「I love you.」を自分に対するものと思い込んでしまう。舞い上がったチャップリンは階上にいたジョージアの元に駆けつけ、抱きしめ接吻し、彼女をここから連れ出す、と一方的に宣言し、ジョージアを当惑させる。

 つまりジョージアには、大晦日のディナーに行かなかったことに対する罪悪感はなかったということである。それは当然だろう。ジョージアたち四人の女たちの、ハンクの小屋でのチャップリンとのやりとりは、まったくのおふざけであったから。食事の招待のことも戯れ言に過ぎなかったのである。

 このシーンは1942年版で観た時に、違和感を感じたところだ。そこでもう一度そのシーンを見直してみた。するとこの復刻版では、「ジョージアが手紙を書き、その内容が画面いっぱいに映し出され(観客は読める)、ジャックの手に渡るところまで」がカットされていたのだ。だから酒場にやって来たチャップリンに、すぐに手紙が給仕から手渡されることになっている。つまり我々観客もその手紙は(そもそもジャック宛とは知らされず)チャップリン宛のものだと認識するのだ。そのためのアリバイ作りということになるが、手の込んでいることには、ジョージアの手紙の文面が変えられてあったのだ。これも画面いっぱいに大写しで観客が読める。なんとその内容は、「昨夜の招待に行かなかったことに対する謝罪」になっていたのだ。1925年版とはすり替えられていたということだ。

 階上でのチャップリンに対するジョージアの反応は、まさしくチャップリンの誤解によるものだったので、彼女は当惑していたわけである。悲しいことだが、ジョージアはチャップリンのことなど何とも思っていなかったということだ。それでもラストシーンの伏線のためには、せめてチャップリンに対する最低限の誠意(好意とまでは言えないだろう)を見せておく必要を感じたからであろう。

 そしていよいよ船上でのラストシーンである。これもまったく変えられているというべきだろう。この最初のバージョンでは、チャップリンはジョージアと二人で階段を上がり、先ほどチャップリンが写真を撮るためにポーズをしていた場所に行き、カメラの前で二人は接吻するのだった。で、フェイドアウト。

 つまり二人は再会を果たし、結婚することに、というわけである。しかしこれは客観的に私たちが見れば、ちょっと飛躍しすぎである。それをチャップリン自身も感じたのであろう、復刻版では、階段を二人で上りかけるところでフェイドアウト。

 チャップリンは自身のナレーションで、ハッピーエンドと言っているが、私はそれは必ずしも彼ら二人の結婚を意味するものではないと思う。まずジョージアの方に、彼と結婚するほどの動機は認められない。あくまでも酒場で知り合い、食事に招待されたが、それも行かずに終わる。たまたまラストシーンはジョージアもアラスカを去り、それほどお金に余裕があったとは思えない(三等船客であった)、つまり落ちぶれた感じであった。だからチャップリンと再会して、その意味では嬉しかっただろうが、それ以上でもそれ以下でもないわけだ。チャップリンも別の船室をジョージアのために用意するようにと命じてはいたが、もうそこまでのことだろう。

 もちろんその後の航海の中でチャップリンとジョージアが仲良く話をすることにはなろうが、ハッピーエンドといってもその程度のことではないだろうか。結婚とまではいかないと思う。チャップリンが記者からジョージアとの関係を尋ねられたとき、観客には聞こえない何かを言っているのだが、それに対して記者が「Congratulation.」と言っているだけなのだ。それを「彼女は私のフィアンセだ」とでも言っていたのかもしれないが、そうだとしてもおそらくそれも冗談だろう。やはりチャップリンは、1925年版のように誤解から生じたことでこの二人を結ばせるような甘い結末は「違う」と思ったのではないか。

 だから1942年版では観客に好きなように解釈をさせる余地は残すも、そんな単純に結婚というふうにはしなかったのではないか。変更したのではないか。その証拠にジョージアの手紙の文面をこれだけはまったく作り直している(撮り直している)のだから。いわばジョージアという女性を、ちょっと良い人に描き直したということか。

 結婚だけがハッピーエンドではない、という考えもあったろう。1925年版ではいわば単純に「結婚、即、ハッピーエンド」としているが(もちろんその方が当時の観客に受けるからだろう)、それではまさに単純すぎるわけで、人生というものはもっと深いものですよ、ということなのかもしれない。

 ということで、今回最初のバージョンを観ることができたので分かったが、1942年版はリメイク版と言えるということだ。それも音楽もナレーションもキッチリ合っているので、相当に進化したものと言える。特に「パンのダンス」は、チャップリンの動きに合わせて、音楽も合っているので申し分ない。名シーンと言うべきだろう。

 やはり映画も推敲を重ね、編集で削れば削るほど良いものになるのだろう。

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