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雪鬼ごっこ


はらりはらり

 まるで氷でできた指を押し当てられたかのように、冷気が頬を突き刺す。

 はらり、はらり。

 鈍色の空を見上げる。白い羽毛のようなものが、はるか高いところから音もなく静かに静かに降りてくる。雪だ。

 はらり、はらり。はらり、はらり。

 力なく差し出した手のひらに、羽毛のように、はらはらと散る桜の花びらのように、はらりと舞い降りる薄い薄い儚げな雪片。触れようとしたけれど、震える指先が届く前に、すうっと溶けて…消えてしまう。

 はらはら、はらはら。はらはら、はらはら。

 白い舞いはどんどん増え、視界を白く白く霞ませてゆく。寒い。寒くてたまらない。そして…。

「…」

 ちぎれそうに痛む耳に何か聞こえた。遠くの方から、かすかな声が聞こえたような気がした。

「…ちゃん」

 はらはらひらひら、視界を奪い惑わせる白いヴェールの彼方から、聞き覚えのある声が切れ切れに聞こえてくる。

「…ちゃん。お姉ちゃん」
莉音りおん?…」
「…ちゃん。た…て」

 目を凝らしても何も見えなかった。あとからあとから落ちてくる凶々まがまがしい雪が邪魔をして見通しがきかない。

「助けて。お姉ちゃん、助け…」
「どこなの。どこにいるの」

 幼い女の子の声に呼びかけながら、でもそれが自分にしか聞こえない幻聴であるとわかっていた。それは現実には聞こえるはずのない、もういない、あの日、今から二十年も前の、あの大雪の日にいなくなった妹の声だったから。

 はらはら、はらはら。はらはら、はらはら。はらはら。

 凍えて立ち尽くす私の頭に、肩に、白い魔物があとからあとから舞い降りてくる。私の世界を白く塗り潰していく。

 クリスマスまであと三日。今年も残すところあと僅かとなった。早いものだ。

 十二月に入ってから季節が戻ったかのように変に暖かい日が続いたり、本来の寒さが戻ってきたりを繰り返していたが、昨晩のこと、空気が急に冷たくなったと思ったら雪が降った。薄っすら積もる程度だったが、東京で十二月に雪が降るのは珍しいと、翌朝のテレビニュースで見慣れた顔のアナウンサーが、さも大事件が起きたかのように繰り返していた。

 わたしが生まれ育った北陸地方のとある地域では、冬に雪が降るのは当たり前で、早い年では十一月から雪が降る。降り出したら薄っすら積もる程度では済まない。だから関東の人たちが大した降雪量でもないのに大騒ぎするのが可笑しかった。

 雪。雪。忌まわしい雪。わたしは雪が嫌いだ。子供の頃はそんな感情は持っていなかったのに、あの日から…あの出来事から雪が嫌いになった。雪の降り積もった白い景色が恐ろしくなった。

 そう…。あの、雪が降り積もった真冬の、凍えるような日に、まだ幼い妹が、白い魔物に連れ去られた時から。

莉音

 妹の名は莉音(りおん)という。まだ五歳になったばかりだった。わたしとは六つ違い。年が離れているせいだろう、わたしは妹が可愛くて仕方がなかった。小さな莉音もわたしによくなついていた。仲良し姉妹だ。だから喧嘩など一度もしたことがない。近所で遊ぶ時は、よく妹を連れて行ったものだ。

 前日の夜半まで降り続けた雪が止んだ早朝のこと。鈍色の空の下、母にふかふかのフード付きコートを着せられ長靴を履いたわたしと莉音は、一面の銀世界と化した学校のグラウンドに忍び込み、雪遊びに興じていた。わたしたち以外には誰もいない。

 きんと冷えた空気にほっぺたがピリピリしたのを覚えている。ふかふかの雪野原は白くて清潔で足あと一つない。のっぺりした灰色の空から今にもまた雪を落ちてきそうだったが、降ってきたらすぐに帰ればいい。家から学校までは子どもの足で二十分ぐらいかかった。雪の降り積もった道を歩くのは慣れていたし、冬になったら当たり前だったから、それぐらい何でもなかった。

 莉音と二人で遊んでいたら、同級生の優花がやってきて仲間に加わり、そのうち次第にメンバーが増えていった。親しい友人も、そうでもない子も、どれも知っている顔ばかり。みんなで雪合戦をしたり、鬼ごっこをしたり。大勢で遊んだ方が楽しい。とは言っても、わたしは妹がいたので、途中から遊びの輪を抜けて、仲間たちが遊んでいるのを少し離れた場所で莉音と一緒に眺めていた。

 眺めながら、積もった雪を蹴散らしつつ、元気に走り回っている子どもの人数を何となく数えてみた。全部で十人いた。わたしと妹を足して十ニ人になる。おかしいと思った。一人多いのだ。ついさっき、五人ずつ二手に分かれ雪合戦をした。小さな妹は戦力外としてカウントしていない。五人+五人+妹=十一人のはず。わたしの見間違いだろうと思い、もう一度数えてみる。でもやっぱり一人多い。

 胸騒ぎがした。鬼ごっこをしている仲間を、今度は顔を確認しながら、ゆっくり数えてみる。親友の優花はすぐにわかった。幸宣くんがいて、奏美ちゃん、野口なんとかくんと、それから隣のクラスの名前がわからない女の子がいて、それから…それから、あれは…何だろう。

 みんなの間をすばしっこく走り回っている白い子。白い服に髪も顔も白くて全身真っ白だった。白い雪を背景に、その真っ白な子供のようなシルエットが、くるくると動き回っている。顔形も、それ以前に男の子なのか女の子なのかもよくわからない。と言うよりも、わたしにはそれが人に見えなかった。

 どうしてみんな気がつかないの。あんな気味の悪いものが仲間に混じっているのに、どうしてなの。そう思った時、この地方に伝わる不気味な伝承を思い出した。

 …大雪が降り積もった凍えるような日に鬼ごっこをしていると、真っ白な雪鬼がやって来て一緒に遊ぼうとせがむ。でも仲間に入れてはいけない。仲間に入れたら、鬼が気に入った子供をさらって連れて行ってしまうから…こんな言い伝えである。

 もちろん、そんなものは言うことを聞かない子供を脅かすためのただのお伽話だ。架空の作り話だ。幼い頃はわたしも雪鬼が怖かった。しかし魔女や妖精が童話の中でしか存在しないように、雪鬼なんて現実にはいない。いないはずなのに…あれはまるで…。

 楽しそうに仲間の雪玉をぶつけている優香を呼ぼうとした時、それまで握っていたはずの小さな手の感触が消えていることに気がついた。ハッと横を見ると、妹がいなくなっていた。

雪鬼

 妹が、莉音がいない。さっきまでわたしのそばにくっついていたはずなのに。どこに行ったの。

「莉音!」

 妹の名を呼びながら辺りを見回す。すると…。  

 はらり。はらり。

 白い羽毛を思わせる雪がゆっくり落ちてきた。空が暗い。そしてひどく寒い。さっきまでより温度が下がっている。

 薄暗い校庭。その遠くに小さな二つの人影シルエット

 一人は妹の莉音。それは間違いない。そして嫌がるその手を掴んで引きずっているのは…頭の先から足の先まで全身が真っ白な雪鬼だった。

「助けて!お姉ちゃん!」

 冷気にかじかんだ耳に悲痛な叫びが突き刺さる。

 莉音が…連れて行かれてしまう。雪鬼に連れて行かれてしまう。

 わたしは走り出した。厚く積もった雪に足を取られ何度も転びそうになりながら、必死で走る。はらはらと降っていた雪が急にその量を増し、邪魔をする。まるで雪鬼に操られているかのように、彼らに追いつこうと足掻くわたしの視界を奪う。

 寒い。前から氷のような風が吹き付けてくる。立ったまま凍りついてしまいそうだ。

「いやだ。お姉ちゃん!」

 思い切り手を伸ばす。小さな手が触れた。その手を両手でしっかり掴んだ。

「莉音!行っちゃだめ!」
「助けて!」

 やっと妹を捕まえたものの、ものすごい力で私まで引きずられてしまい、すぐに雪まみれになった。濡れた服を通して冷気が身体の中まで染み込んでくる。でも私は手を離さなかった。離したら莉音があれに連れて行かれてしまうから。

 急に雪鬼の歩みが止まった。白い背中に白い頭。子どものような背丈のそれの首だけが、くるっとこちらを向いた。目も鼻も口もない、のっぺり白い顔。でもわたしにはその真っ白な顔が、にたあっ、と笑ったように見えた。

「ひっ」

 情けない悲鳴が漏れた。恐ろしかった。雪鬼が怖かった。だから…。

「お姉ちゃん!お姉ちゃん!」
「う…うぅ」

 莉音が引きずられてゆく。雪鬼がわたしの大切な妹を引きずってゆく。わたしは冷たい雪の中にうずくまったまま、恐怖と寒さに震えながらそれを見ていた。妹の助けてという叫びが、鋭い氷の剣のように何度も何度もわたしを突き刺した。

 やがて二つの白い姿が雪の舞いに飲み込まれるように次第に見えなくなり、幼い叫びも遠くなり、小さくなって、消えてしまった。

 泣きながら一人で帰宅したわたしに、母は当然のごとく、莉音はどうしたのかと問いただした。泣きじゃくりながら、雪鬼に連れて行かれたと答えたら、頬を打たれた。嘘をついていると疑われたのだ。

 無理もない。母にとっては雪鬼なんてただのお伽話である。実際にいるはずがない。だからわたしが嘘をついていると考えた。でも本当のことだから、何度打たれてもわたしは同じ話を繰り返すしかなかった。

 そんなさなかに父が現れた。そしてわたしの話を聞いてすぐに警察に通報した。不審者に誘拐されたと判断したのだ。警察がやって来て、捜索隊が組織され、そこに近所の人たちも加わり大騒ぎになった。

 父からは黙っていろと止められていたにもかかわらず、わたしがうっかり漏らしてしまった「雪鬼」という単語を聞いた近隣の大人たちは露骨に嫌な顔をした。耳に届いた彼ら同士のヒソヒソ話によれば、以前にも子供がいなくなる事件があり、雪鬼にさらわれたという噂が陰で囁かれたようだ。

 人間と警察犬による捜索は数週間に及んだ。校庭の裏手の山狩り、付近の河川、しらみつぶしの捜索が続いたが妹は見つからなかった。わたしはきっと見つからないだろうと思っていた。人間がいくら探したところで、あんな化け物に連れ去られた妹を見つけられるはずがない。そう思っていた。

 捜索隊の人たちの顔に疲労と諦めの色が日に日に濃くなっていった。そしてこれっぽっちの手掛かりすら得られないまま、捜索は打ち切られた。

 別人のようにげっそりやつれ果ててしまった父。それでも父はわたしを責めたりしなかったが、母は何度もわたしを打った。打たれても仕方がないと思った。
 
 あの時、わたしが莉音の手をしっかり捕まえて離さなかったなら、莉音はこちらに留まっていられたのかもしれない。でもわたしは手を離してしまった。離さないと自分も連れて行かれてしまう。振り向いた雪鬼がわたしを見て笑った時に、恐怖に震えながら、妹は見捨てても自分は助かりたい、わたしの中で無意識にせよそんな打算が働いたのだ。

 それ以降、両親の仲は急速に悪化した。いつも喧嘩ばかり、父の帰宅時間はどんどん遅くなっていき、そのうち帰って来なくなった。父がいなくなったことで母のわたしへの暴力は次第にエスカレートしていった。こんな風になるとわかっていたら、わたしも雪鬼に連れて行ってもらえば良かったと何度思ったことだろう。実際、あれから何度も訪れた大雪の冬のさなかに、雪鬼に会いたいと思いつめ、その度に凍てつくような吹雪の中を彷徨ったりしたけれど、わたしの願いは叶わなかった。多分、わたしは死んでしまいたかったのだと、大人になった今になって思い至った。

 雪鬼にはとうとう会えなかったが、今でも雪が降ると、舞い落ちる雪の彼方から、時々、助けを呼ぶ妹の声がかすかに聞こえることがある。

 本格的な冬の来訪とともに、今年もおぞましい雪が降る。

 はらり。はらり。

 はらはら。はらはら。

 儚げな花びらのように、散りゆく桜の断末魔のように。
 
 雪片が舞い乱れるさなかで子どもたちが鬼ごっこをしていたら、ひとりふたりと人数を数えてみたらいい。もしも一人多かったら、それは…。


𝑭𝒊𝒏

♦︎ホラー専門レーベル【西骸†書房】蒼井冴夜



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