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代わりのない本

2024年3月18日
『悩める時の百冊百話』で引用した本には古いものもあって今では手に入らないものもある。手に入らない翻訳は別のものに差し替えてもいいかと編集者に問われが断った。翻訳書ならどれでもいいと思われたのだろうが、翻訳書は誰が訳したかは重要である。新しい翻訳が必ずいいとは限らない。好みは多分に主観的だが、『カラマーゾフの兄弟』であれば原卓也訳がいいというようなこだわりがある。高校生の時に初めて手にしたのが原卓也訳であり、母の病床で母に読み聞かせたのもこの翻訳だったからである。
 今度の本では自分で訳したものも多い。プラトンの対話篇やマルクス・アウレリウスの『自省録』は自分で訳した。予めいっておかないと、私がギリシア哲学が専門であることを知らない校正者に他の人の訳に置き換えられることがあった。
 近年は韓国の小説やエッセイを自分で訳しても、翻訳と違うと指摘されることがあって悔しい思いをする。今度の本でも翻訳からも引用したが、自分でも訳したものもある。翻訳が出ていない本はそうするしかないが、原文を読んだこと自体がある時期の思い出になっていることもある。キム・ヨンスのエッセイは、先生と一緒に読んだ。
 どんな本にもそれにまつわる思い出がある。また、本を読んでいると忘れていたあれやこれやの出来事を思い出す。闘病中だった先生の予定に合せて、京大病院まで行ったこともあった。その頃のことを思い出すために自分で訳したいと思った。
 翻訳があっても原文で読んでみたいと思うのは、プラトンやマルクス・アウレリウスが書いたものを翻訳を介さずに「直接」読んでみたいからである。ギリシア語を大学で教えていた頃は、練習問題に初学者用に書き換えていない原文が使われているものを教科書に選んだ。翻訳で読むのとは違って原語で読むと時間はかかるが、原文に触れたいと思ってこれまで多くの言語を学んできた。ラブレターをもらった時に、機械翻訳を使って何が書いてあるかがわかればいいとは思わないだろう。

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