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私が読んだのはこんな本ではなかった

2023年11月4日
 まだ完全に復調しないがすわれるようになった。昨日はクーリエジャポンの連載記事を仕上げ、校正の続きをした。9日に締切の校正は何とか目処が立った。娘夫婦に車で福井の温泉に連れてきてもらった。
 校正をしていて、高坂正顕が『哲学研究』に載る西田幾多郎の論文を原稿と照らし合わせ綿密に校正した時の話を思い出した。高坂は、西田の論文に出てくる「於いてある」という表現がしっくりこなかった(田中美知太郎『時代と私』)。反復して使われているから誤りではないだろうとは思うものの、校正をそのまま印刷所に返す気になれない。そこで原稿と校正を持って西田の家を訪れた。
「『於いてある』という表現がどうもしっくりと私には呑み込めません。このままでいいのでしょうか」
 西田はしばらく原稿のあちらこちらをめくっていたが、
「まあこれでいいだろう」
とだけいった。
 西田は、高坂が校正した「場所」に先立つ「働くもの」という論文においても、既にこの表現を使っていたのである。常に近くで講義を聞き、直接話も聞いていたはずの高坂が「これでいいのでしょうか」とたずねたことを、西田はどう思っただろうか。
 前にも書いたが、私の場合は、誰か知らない人がゲラに鉛筆を入れコメントも書いてあるのを見て頭を抱える。×を入れ、却下した理由も書かない。自分が校正者でこんなことをされたらいやだろうと思うが、「これでいいのだ」と誰か知らない人に向かってつぶやく。
 今校正しているもう一つの本にはこれまで読んだたくさんの本から引用した。校正者は私の読み間違いを指摘し、私は間違いを認めないわけにいかないのだが、書評のつもりはまったく、意識の中に残っている本の一節からどんな影響を受けているかを書いたのである。私が記憶している本について書いていることは、たしかに校正者に指摘されて判明した本の内容と違う。
 これは過去の回想が変わるのと同じである。今の自分が変わると、回想が違ってくる。それでは、過去の記録か何かがあって誰かがそれを持ち出して、「あなたの記憶は間違っている」と指摘しても意味はあまりない。
 アドラーが自分自身の回想のことを書いている(『教育困難な子どもたち』)。まだ五歳だったアドラーは、毎日墓地を通って小学校へ通わなければならなかった。この墓地を通って行く時、アドラーはいつも不安を感じ、胸が締めつけられるようになった。
 墓地を通る時に感じるこの不安から自分を解放しようと決心したアドラーは、ある日、墓地に着いた時、級友たちからは遅れ、鞄を墓地の柵にかけ一人で墓地の中を歩いて行った。墓地を最初は急いで歩き、それからゆっくり行ったりきたりしているうちに、ついに恐怖をすっかり克服したと感じることができた。
 アドラーは、三十五歳の時、一年生の時の級友に出会って、この墓地のことをたずねた。
「あのお墓はどうなっただろうね」
 友人は答えた。
「お墓なんかなかったよ」
 この回想をアドラーは空想していただけだったのである。それにもかかわらず、この回想はアドラーにとって「心の訓練」になった。子どもの時に困難を克服しようと勇気を奮い起こしたことを思い出すことで、その後の人生における困難を克服し、苦境を乗り切ることができたのである。
 本の場合であれば、実際には読んだこともない本のことをずっと読んだと思い続けていることがあるかもしれない。読んだ本であっても内容の細部がかなり違ったものになることはありうるだろう。校正者に間違いを指摘されても困惑するばかりなのである。

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