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読書が「経験」になる

2024年3月16日
 木曜日、三歳の孫が一人で泊まりにやってきた。一人で過ごしても平気なようだ。笑い始めると止まらない。生きていることが楽しくて仕方ないように見える。
 私の息子も子どもの頃よく笑った。
「君は人から嫌われることがそんなに怖いか」
 いつかこんなことをいっていたことをふと思い出した。大学生の時だったと思う。私のどんなところを見てこんなことをいったのかは思い出せない。この話を原稿に書くのであれば、その後に「ふっふ」とか「ふふっ」と付け加えるかもしれない。
 椎名鱗三がエッセイの中で、イエスが「笑われたという記事が一行もない」と書いていたことを思い出した。そういわれると、思い出せない。ソクラテスはどうだったろう。これも注意してプラトンの対話篇を読んだことがなかった。ソクラテスなら破顔一笑どころか大声で笑ったようにも思うのだが。生きる意味について真剣に考えるからといって、深刻である必要はない。

 中嶋義道は哲学で求められるのは私を排除した客観性、あるいは人と交換しても同じようになる客観性ではないという(『たまたま地上にぼくは生まれた』)。カントがいう「主観的普遍性」における主観的というのは、個人的という意味であり、主観的普遍性とは個人的なことが普遍性を持つということである。
 そこで「私はこう考える」ということから出発し、誰もが同じ結論に達するというのではなく(もしもそのような結論に達したとしたらそれは交換可能な知であって主観的普遍性ではない)、しかも個人的なものにとどまることなく普遍的なものへと向かっていくのである。反対に、あまりに主観的すぎると私小説や体験報告になり、あまりに普遍的すぎると科学あるいは学問になってしまう(中島義道『哲学の道場』)。
 同じ本を読んでも誰もが同じように読むことはできない。『悩める時の百冊百話』ではただ私はこう読んだというのではなく、普遍性を目指した。本を読んで私が考えたことが読者の経験と共鳴すればいいのだが。
 取り上げた本は私が若い頃に読んだものも多い。今読み返すと、違う読み方をすることもあった。森有正は「体験」と「経験」を区別する。
 過去の一度きりの出来事を何度も同じようにしか話さない「体験」ではなく、たえずその出来事の意味を反芻し新たな意味を見出していくことで「経験」にしていかなければならないと森はいう。
 読書も同じである。同じ本を読み、その本について何度語っても、その読書が体験でなく経験であれば、読むたびに違った感想を持つことはありうるのである。


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