アホンダラ鎮魂歌

昔付き合った女性に、AVの何が良いのかと聞かれたことがある。AVも観ないし、性的なことにさほど興味もないような娘であった。こちらから誘った時だけ応じてくれるような淡白な娘であった。

「人がしてるのを観て何が良いの?」
私は即答できなかった。精通してから今日まで当たり前のように行ってきた自慰行為。寄り添ってくれたAV。疑問を持つこともなかった、自分の中でのAVの価値。立ち位置。

彼女を家まで送ったあと、私は1人喫茶店に向かった。
熱い珈琲を飲み、GOING STEADYの「愛しておくれ」を聴きながら考え込んだ。

私は色んなAVを観る。
女優さんの年齢も、扮する職業も、陥る状況も様々だ。苦手なものはないが、特段これが好き、というものもない。強いて言えば最近は憑依物を観ることが多い。

自分が買ったりダウンロードしたりした作品を羅列してみた。「愛しておくれ」を止め、お気に入りの動画を再生する。
改めて考えると、他人の性行為の何に興奮しているのだろう。
自分がしている訳でも、気持ち良いことをされている訳でもない。ただただ他人の性行為を覗いているだけである。深淵とは違い、性行為はこちらを覗かない。

そこに疎通するものはない。一方的な干渉だ。私はいつも独善的にAVを楽しんでいる。
その事実に私は深く落ち込んだ。私が社会的活動だと思っていたそれは、自分の矮小且つ狭量な価値観で都合の良い様に捉えた性欲処理でしかなかった訳なのである。

女性が喘いでいる。深夜のコンビニのレジでバイト仲間の男に突かれている。声が漏れぬ様に自分の口を押さえながら喘いでいる。

ここがいいよな、と溜息混じりに漏らした時、私は1つの答えに辿り着いた。
声だ。
前述した通り、私はジャンルや系統関係なくAVを観る。だが、男性の吐息や喘ぎ声、攻める時の声が過剰に入っている作品をお気に入りに加えることはほぼない。

それは私が、知らない女性の知らない喘ぎ声を求めているからである。聞いたことのない喘ぎ声を求めているからである。
私は他人の性行為に興奮しているのではなく、その場所と唯一共有できるものに興奮しているのだ。

視覚と聴覚を見知らぬ女性に預ける。
彼女はそっと受け取り、時に激しく、時に優しく撫でてくれる。
人が違えば違う体験になる。
人が同じでも作品が違えば違う体験になる。
我々はちゃんと疎通していたのである。
温かな社会的活動が営まれ、それを私は、月並みかもしれないが、愛と呼ぶのである。

これまで生きてきた中での思い出はよく覚えていない。
でも、お気に入りの動画の中で喘ぐあの娘の声ははっきりと覚えている。

後日、自分の辿り着いた結論を彼女に伝えた。彼女はとても引いていた。おぞましい物を観る様な目で私を見ていた。その後割とすぐに別れた。青春パンクなんて二度と聞かないと心に決めた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?