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小説「英彦(えひこ)の峰の気を負いて」抜粋⑬

取締役会議

「パパがね、今度、退任するのよ、今年の秋はニューヨークに行けそうよ。もう、随分、行ってないわよね、マミちゃんと会うのも3年ぶりかしら」

福澤の妻、真理子は娘とSNSでビデオ会話をしていた。娘は夫の仕事でアメリカに滞在していた。孫が一人、4歳になる女の子がいた。

「そう、前にパパからも聞いた。何か、少し嬉しそうだったけどね」

「そうなのよ、もう、企業経営はやることはやったから、これからは自分の好きなことをやるんだって。まあ、私が何を言っても聞く人じゃないから、今回も同意するしかないんだけどね」

「これから二人の時間もできていいじゃん。お母さんもニューヨークにしばらく居てもいいわよ、ちょっとマミちゃんも見てくれると助かるし」

「私はベビーシッターはやらないわよ。昔と違って子育ての仕方も海外じゃ分からないし。でも、たまにだったらいいわよ。また、予定が決まったら連絡するね」

福澤は妻の真理子に、自分の退任の意志を伝えていた。2月に九州に行って以来、福澤が故郷の話ばかりをするようになって、時間の問題と真理子はわかっていた。

「明日の役員会議で、話を出すよ、真理子もいいよな」

福澤は念を押した。福澤は就職して二十代後半で、先輩から紹介された真理子と結婚した。真理子は大手食品会社のオーナーの家系で、生まれも育ちも東京だった。先輩がその食品会社の担当で、会社の会長から依頼されて二人を合わせたのが縁のはじまりだった。二人には、娘の他に、弁護士をしている息子がブリュッセルにいた。

「皆さん、驚かれると思うから、慎重にお話はしてくださいね」

「おう、わかった、気を付けるよ」翌朝、福澤はいつもの通り、社用車で大手町の本社ビルに向かった。

春も近づき、皇居が一望できる役員会議室は、朝から清々しい空気が流れていた。新型コロナウイルスの予防対策が終了し、屋内でのマスク着用も個人の自由判断になっていた。最近、福澤の会社はヨーロッパの投資運用会社を買収した。そのことがメディアで報じられ、株式市場が好感したことも雰囲気を明るくしていた理由の一つだった。

「今日は社長、上機嫌でしょうね」取締役会議に集まった10数名の中には、窓の外を眺めながらそんな立ち話をする者もいた。そして、福澤が奥の扉から登場し、会議は始まった。

会議の終盤、一通り議題が終わる中で、福澤が臨時の追加議題を持ち出し、了承された。

「では、皆さん、来期の役員人事について、お話をしたいと思います」福澤が話をし出すと、一瞬、場に緊張が走った。

「私、福澤は、今度の株主総会を持って、代表取締役を退任します。慣例では退任後、顧問や相談役に就く例もありましたが、それはございません。今度の株主総会が最後となります。どうぞ、ご理解のほど、よろしくお願いいたします。尚、後任の人選につきましては、指名委員会で決めていただくことになります。私はそこには参加しません。委員会のメンバーの方々はどうぞ、よろしくお取り計らいのほどお願いします」

福澤の話が数10秒で終わると、室内はざわつき始めた。

「では、これにて、取締役会議を終了します」福澤の一言で、全員が部屋を出払った。

福澤が社長室に戻ると、専務と常務の2名が、部屋をすぐに訪れてきた。

「社長、急にどうされたんですか?どこかお体の具合は悪いんですか?会議室を出たら、そんな話をする者もいました」

「ハハア、心配ないよ。君らにはこの間、支えていただき感謝している。事前に話そうとも思ったが、こればかりはそうするわけにもいかず申し訳ない。メディアにもいずれ観測記事が出ると思う。後の人事は、指名委員会の判断になると思うので、私の立場からは何も言えないが、二人にはこれからも会社を牽引して欲しいと思う。よろしく頼みます」

福澤が二人に話をすると、一人が深刻な表情で話をしだした。

「福澤さん、これまで私たち、あなたをサポートしてきたじゃないですか、運用業績もずっと業界のトップをキープして。いきなり私たちに相談もなく、退任しますはないかなって、さっき二人で話をしたんですよ。私たちは福澤さんの次にという思いでついて来たわけじゃないですか。それで、どうでしょう、指名委員会で次の社長に推していただくことはできないでしょうか」

さすがの福澤も、自分で顔色が変わったと認識できるほどに怒りが湧いた。これまで社長と呼んでいた部下からいきなり福澤さんと呼ばれ、無礼に思えたからだ。福澤はこれまで、この二名には、何かと相談することはあったが、彼らを経営者として認めることはなかった。仕事は優秀だったが、社員をリードする人格が備わっていないと判断していたからだ。それでも、福澤にしてみれば、これまで彼らを重用してきただけに、突然の豹変した態度に福澤の気分はよくなかった。

「私たちは投資先企業に、受益者保護の観点から、取締役会のガバナンスを求めてるよね。自社も同じように、取締役会が機能すべきだね。私はそれを実行したまでだよ。委員会が公正に次は誰が相応しいか選んでもらえばいいと思ってる」

福澤の発言に「それは建て前じゃないですか、所詮、数字ですからね。数字を上げられない奴が代表になってもらうとこっちは困るんですよ」一人が重ねて横柄な態度に出たので、福澤は席を立って離席を促した。腸が煮えくりかえる気持ちを抑えながら、福澤は「この間、お世話になったよ」言葉を絞り出して、扉まで二人を見送った。

「いや、突然、態度が変わるんでびっくりしたよ。もう代表でなくなるとお役御免で、踵を返すんだね、話には聞いてたけど、俺もそんな目に遭うとは思わなかった。不覚だった」

福澤は、新しく茶を差し出した秘書に向かって、ぼやきを伝えた。

「社長、私も突然のことで、びっくりしました。もう5年ぐらい秘書をやらせていただいてますから、これから寂しくなります」

「ああ、君のことは、ちゃんと次の代表には推薦しておくよ。俺も随分助かったし、誰になるか分からないけど、君さえ良ければ引き続き、役員室で仕事をしていただくと会社としても安心できると思うよ」

福澤は秘書にも微妙な態度の変化をかぎ取り、つい、権限外のことも口走った。

福澤は、自分が辞める時になって、嫌な気持ちになることは想定していなかった。所詮、サラリーマン社長への周りの評価はこんなものかと納得させようとしたが、しばらく憤りが収まらなかった。

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