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小説「英彦(えひこ)の峰の気を負いて」抜粋⑦

福澤諭吉旧居・福澤記念館

蓬莱観を出た一行は、中津城の天守閣を左手に見ながらお堀端を歩き、一級河川の山国川が見渡せる土手へと出た。黒田官兵衛が開いた中津城は日本の三大水城と呼ばれ、城の内堀は川、海へと繋がっていた。江戸時代、河口にある中津港からは周防灘を経て瀬戸内海を通り、畿内へと最短距離で行ける水運があった。

「官兵衛は昔、この中津の地の利を生かして、関ケ原の戦いの情報は真っ先につかんでと思うよ。あの時、官兵衛は隠居を辞めて、瞬く間に9千人の兵を募り、九州の大半を制覇する勢いだった。最後は、徳川家康に服従して、息子の長政はちゃんと福岡の藩主に収まった。大変な戦略家だったわけよ」眺めの良い土手に立って、平田が早速、知識をひけらかすと、

「皆さん、平田君、歴史小説家になって、いずれ本を出すみたいよ、応援してね」橋本が冷やかした。

一行はさらに歩いて、福澤諭吉旧居・福澤記念館へと向かった。

途中、福澤門下で、明治の財界人として活躍した和田豊治を顕彰する公園の前を横切った。
和田豊治は文化人でもあり、浅草にあった彼の自宅は名高い建築物として、静岡県小山町に移管され保存されている。彼は故郷の後輩のために奨学基金を設立し、戦後、多くの学生を支援した。福澤と朝吹、そして小幡もその恩恵に預かっていた。

ほどなくして、一行は福澤記念館に到着した。

「昔、ここは福澤会館というコンサートホールがあったところだよね。すっかり変わったね、記念館も立派になったな」福澤が真っ先にそう言った。

福澤弘は同姓だが、福澤諭吉と縁があるわけではなかった。ただ、中津出身で、同じ苗字なので、よく親戚筋かと訊かれることがあった。福澤の両親は中学と高校の教員をしていたが、二人とも比較的若くして他界した。姉が二人いるが、関西と関東に嫁いでいて、福澤が中津に戻るのは墓参りの用事だけだった。それも日帰りのことが多く、彼が新しくなった記念館を訪れるのは初めてだった。 

記念館の門をくぐると、樹木で囲まれた庭に大きな藤棚があり、正面に福澤諭吉の胸像が立っていた。一角は白い砂利が敷き詰められ、明るい雰囲気を出していた。
小幡は記念館の受付で全員分の入場券を買い、庭内の左手にある福澤諭吉旧居に一行を誘導した。

「ここに土の蔵があるじゃない、昔、子供の頃、蔵の2階の狭い部屋で、福澤先生が一生懸命に勉強したという話だけは親から聞いたことあったかな。高校卒業まで、福澤先生のことはほとんど知らなかったね。一応、その後、大学で少しは学んだけど」小幡が頭を掻きながら、独り言のように言った。メンバーの中では、小幡だけが慶応大学に進学した。福澤諭吉が中津出身で親近感があったのが大学を選んだ理由の一つだった。

「俺は、今度来る前に『福翁自伝』と『学問のススメ』の本を読んだよ。俺も恥ずかしながら、初めて福澤先生の本を読んだけど、結構、知らないことも多くて、面白かったよ。福澤の故郷に対する気持ちはアンビバレントというか、手厳しいね。年を取って還暦ぐらいに書いた自伝にも感情が出てるんだよ。古くさい身分制度への憤りは半端ない。中津は故郷だけど反面教師だったんだよな」福澤が早速、知識を披露し始めた。

「そうね、うちの何代か前のお爺ちゃんが言ってたらしいけど、先生は頭のいい学生で評判だったみたいよ。でも、家柄が下級武士だったから、上級武士がひがんでいじわるしたみたい。うちは、藩医の家だから、藩主や上級武士の家とは付き合いがあったけど、福澤家とはあまり縁がなかったみたい。でも、福澤先生が名を成してから、藩の誰も頭が上がらなかったみたいね」岩田郁子が話を継いだ。

「そうなんだ、藩医は違うね、中津の上層階級だね。本の中に『門閥制度は親の敵』っていう有名な句が出て来るだろう。藩の厳しい上下関係への憤りが『学問のススメ』の冒頭の句、『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』なわけだ。これは当時の世の中では革命的な発想だよね。この本は元々、中津の人に向けて書かれたわけ。どれだけ、中津の人が読んで理解したか分からないけど」福澤が続けた。

「さすが、福澤君、ちゃんと予習してきたんだ、偉いね!」橋本雅子の一声で、一行は旧居の中をひと回りした後、中庭を通って、隣の福澤記念館に移動した。

記念館の中は、福澤諭吉の生涯を年表や著作、書簡、写真、遺品等を通じて、辿れるようになっていた。慶應大学の創設や時事新報での活動、交詢社の運営など、教育者、思想家、啓蒙家として、福澤の多面的な足跡が紹介されていた。福澤と縁の深かった各界人士との人脈図も展示されており、当時の福澤の影響力の大きさを伺うことができた。そして、家庭人であった福澤の素顔や子孫の系譜も辿ることができていた。さらに、中津出身で、経済界や教育界で活躍した数多くの人士の紹介もなされていた。福澤諭吉は中津に嫌気がさして出て行ったが、東京で大学を作り、真っ先に学生を募ったのは故郷の中津の子弟からだったことも記されていた。

「この年になって気づくのは遅いけど、改めて、福澤先生は偉大だったね、今日は勉強になったよ」早稲田大学を卒業した朝吹は「俺もやっぱり慶應を目指すべきだったな」とぼやいた。

「でもね、大隈重信と福澤先生は仲が良かったみたいよ。大隈は佐賀で、同じ九州出身だろう。最初は互いに生意気な奴だと誤解してたけど、実際に会ってみたら、すぐに意気投合したみたい。互いの家を行き来して、よく飲んだらしいんだ。政界で出世した大隈の家は豪華で、福澤の家は質素だったみたいだけど、大隈は福澤の家が気に入ってたみたい」平田が話に入り解説した。

「さすが、歴史小説家、よく勉強してます!」橋本がすぐにまた、合いの手を入れた。一行は見学を終え、出口の近くでそれぞれが立ち話を始めた。

「さっき、『学問のススメ』の原本の展示があったけど、150年前の発行当時で、何十万部という大ベストセラーだったみたいね。俺は今回、本を読んで見て、内容がちっとも古くなかったというか、日本人はその時から、どれほど進歩したのかなって思ったよ。福澤は漢学に代えて、西洋の実学を広めようとしたんだよね。西洋の自然科学とか経済、法律、制度を学べと啓蒙したわけ。少し、極端な言い方もしてるけど、西洋化、近代化で日本が大きく変わろうとしていた時代、一般向けの書物を書いて警鐘を鳴らした。世間は今、DXとかGXだ、リスキリングだとか、色々騒いでるけど、これからの時代の変化も、福澤が予測した変化と同じくらいに大きいんじゃないかな。これまでの教育を変えて、社会全体が新たな学び直しを始めなきゃいけないって思ってんだよ。まあ、俺もいずれ社長を辞めたら、今後の教育に何が必要か、考えてみたいけどね」福澤が小幡や朝吹に向かって、持論を展開していた。

「へえー、福澤君、教育に関心があるの、意外ね、これまで外資でも仕事して、いっぱい稼いだんだし、もうリタイアしたら悠々自適で、奥さんと旅行三昧でゆっくりするのかと思ってたわ、私なんかと違って」橋本雅子の意地悪な反応に、平田も「俺も雅子ちゃんと同じように、福澤のこと思ってたよ、最近、会ってなかったし、社長で忙しそうだから、話も聞けてなかったしな」と同調した。

「まあ、上場企業の社長なんて、株主や監督機関に睨まれて、自分のやりたいことなんか、なかなかできないんだぜ。俺も社員の成長に貢献できたのか、反省があるわけ。企業も国もそうだけど、いかに人の教育にお金をかけれるかが勝負なわけよ。その点で、国も経済界も世界の競争では何周も遅れてるよ。俺は福澤先生の本を読みながら、多分、日本は次の150年を見通すぐらいの意気込みで、本格的に人への投資をやっていかないと、中流国に転落だね、すでに円安で人材の流出は加速してるけど」福澤の率直な意見に、

「俺は福澤の考えに賛成だな、ぜひ、教育の取り組みはやってくれよ、俺も加勢するよ」朝吹は意を強くしたように賛同した。

「どうも、会社の経営者や政治家も、最後は教育の方に関心が向かうみたいだね。福澤先生は、政界や官界での名誉を求めずに、初めから教育や国民の啓蒙に注力されたわけだから、すごいよね、立派な方だよな」小幡も福澤の発言に共感したようだった。

記念館の受付の人から退館時間が告げられ、一行は外に出た。

「じゃ、まだ食事まで少し時間があるし、ゆっくり寺町を歩きながら、筑紫亭に行こうか」小幡の呼びかけで一行は動き始めた。


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