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「商業カメラマンが育っていないんです」ではなく「商業カメラマンしか育ててないんです」

https://realsound.jp/book/2024/03/post-1592564.html

引用「商業カメラマンが育っていないんです」ベテラン雑誌編集者が嘆く、出版業界の構造的な問題点

僕は、ある種のスクールフォトもビジネスでは受ける事がある。昨年までつなぎつなぎで、やってきたが「別に商業カメラマン」が育っていない。というより、「スクールフォト業界」の構造的時代遅れこそが、カメラマンを減らしているだけの事では?
※僕もスクールフォト専門ではないが10年ほどお手伝いしている

例えばそのもととなる「商業カメラマンの為の専門学校」は、いくつもあるけれどそこでその教育が不足しているのか?と云えば、そうとも分からない部分はある。

そのそもが「商業カメラマン」を目指す人々は高校卒業後、そのままスライド式に「専門学校」に入り、様々な「商業カメラマン」になっていく。
極論を云えば、「商業カメラマンの為の専門学校は結構たくさんあるのだ」
その卒業生の就職率は「97%」あたりと、数年前までは提示していた学校もあります。

つまり「ポイントがズレているんですよ」現代に「師匠」とか「弟子」という制度的概念などいつまでも引きずっているのだから、今時の人たちが入社後に「何か月で何人残ってますか?」となるのは他の業界でも同様では?
※就職率は「97%」ですよ。


ですから、写真業に限らずほんの一握りしか「商業カメラマン」として生きていこうと継続的に考えないと思いますよ。その辺りは完全に時代錯誤的な発想を前提としているから、このような記事の偏り方に落ち着くのが写真業界の実際なのでは?最後に「若手カメラマンの育成が急務」と書いてありますが、誰がやりたいでしょうか?

さらに云えば、「商業カメラマン」をひとくくりにし過ぎですね。
「スクールフォト業界」にはあまり「師匠」と「弟子」というような古典的な実態は少ないように感じていますが、ビジネス的な制度が整っていない。
どちらかと云えば、そのポイントが人材不足の「決定打」ともいえると実感していますね。引用記事大炎上したスクールフォト業界で勤めてたんだが、もう学校写真のカメラマンは限界かもしれない(論点が多少混在しているが・・・・それは僕も同じだけれど)

「商業カメラマン」育成の最初の一歩は既に実現できていると思いますが、その後、なぜ「商業カメラマン」は減っていくのか?それは恐らく写真学校の問題ではないし、この冒頭(URLを直貼りした記事)の記事自体も「スクールフォト業界」と話しを混在させているので、ややこしい記事になってしまうのだろうと感じたところだ。僕からすれば、「一日ここまで自分を酷使して、35,000円では安すぎる!」
というのが、本音だ。なので案件は制度的なものとギャラの提示金額で足切りをせざるを得ない。これは無理なビジネスは続かない、という事だ。このままであればスクールフォト業界は破綻するだろうことも想像できる。

一日当たり「35,000円」で安すぎるというのは?
※時給単位で20,000円くらいなら本気で考える。その分納品までの要求レベルのレタッチも実施する、またデジカメ本体、ストロボや本体のシャッターユニット、信頼性の高い高速SDカード、や日常的に発生する機材の入れ替えやメンテナンスに結構お金が掛かる。必要経費が多すぎるのだ。特にスクールフォト分野は、シャッター数がかなり増えるのでデジタルカメラ本体の消耗は激しい、高額なデジカメを二台持ちが基本だ。
運動会撮影などは、連写が基本だレンズは高額な望遠ズームレンズが必須、しかも、使えば砂埃の中で酷使するのだから最早、機材にとっても過酷すぎる。もちろん、カメラマンは下手をすれば運動会に出場している「生徒・児童の数倍は位置取りをするために移動したりしなければならないケース」もある。スクールフォト撮影のビジネスを「メインではなく、お手伝い」でおさめなくてはならない事情も、10年ほどやっていても「実感」できるのだ。

※詳しくは前出の「引用記事大炎上したスクールフォト業界で勤めてたんだが、もう学校写真のカメラマンは限界かもしれないを読めば明らかだ。


別の言い方をすれば、時代が少し経てば「PTAの方々で運動会を撮影していただいて、卒業アルバムも自前で制作されるのも選択肢」となるというレベルの将来予測です。5年?10年後?あまり時間はかからないでしょう。


「最後に」話は転じるが、写真業界というものがあるとすれば「根本的なこと」

日本には、写真についての「アートマーケット」が、中国、韓国、アメリカ、欧州、どこに比べても「ほぼ皆無」だ。(小規模なスタンドアロンに近いクラスが数カ所?ある程度)
日本で、写真家と云うときにそれは「フォトグラファーでもアーティストでも、芸術家でもない」、概ね「商業写真家」の事をさす。この辺りが日本の写真文化の衰退の本丸だと僕は考えている。(JPSなどは最早商業写真家の為の旧い組織だ)

それは写真界にとって「ゆたかな環境ではない」と僕は考えている。
この島国だけが、表現の豊かさに対して「見て見ぬ振り」でやったきたのではないだろうか?
デジタルカメラが全盛になり始めた頃から「カメラメーカー主導」の写真文化利用が続き、カメラ雑誌は「新作デジタルカメラのスペックシート化」した。
その作例写真を採用する事で「このカメラでキレイな写真が撮れます」という、「写真」が「デジタルカメラメーカー」に従属する時代が加速してしまったからこそ、根本的に「写真」は衰退し続けているのではないか?と疑問を持って、この10年程度を見ながら感じている。あとはスマートフォンの存在を無視し過ぎていないか?生成AIも無視していないか?

転換点にある今「昔はこうだった」だけでは、誰も写真家にならないだろう。「昔はこうだった」という写真史や今までの経緯を踏まえて、次に一歩どうするか?なのではないのか?

いつでもそうだが、近視眼的な対応をし続けてきた日本経済界のツケというのは、どの業界にも見られるが、ここでは特に顕著だという事実は確認している。(※参考;直接つなげにくいが日本社会の構造的特質)「ちゃんといいます!」より





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