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【教育や社会の仕組み】東アジア圏の共通概念について

「もう、精神論で語るのは終わりにしたい」

※シェア元の記事から感じた事

この事案に関わらず。「集団性による強迫観念」は、東アジア圏、つまり儒家思想圏で強いように感じている。
他のひととの相対的に同化する事が優先される社会構造だからだ。

幼少期に誰しもが云われた事があるだろう「○○ちゃんはちゃんとしてるよ」

もはや、これは呪いの言葉だし、教育上不合理に尽きるだろう。
なぜなら、自らの子孫に対して、「あなたは自由で独自の感性をもってはいけません」という教育だからだ。

教育というより「入試」について言及するなら、そもそも東アジア圏では中国の宋の時代から「科挙」制度が立身出世のキーだった。
そこに、儒教概念が相乗効果を及ばした結果。「設問に対する正確な回答を求められる」という、一元論的な教育制度が今でも一般的なのだから。

その結果、個々人が培ってきた「体験」や「経験」は、一元論的な価値判断のもと、ほぼスポイルされる。
分かりやすい例を云えば、「野茂英雄」だ。彼なしには、野球という日本人のスポーツが「ベースボール界」に進出できる機会はなかっただろう。
独特のフォームは、何度も「野球教育」で、訂正されようとした。が、彼はそれに合意しなかった。

集団主義と個人主義と利己主義はまったくそれぞれが別の概念だという示唆に富んだ事案だ。

それが、時代を遡って理解できていたなら「明治維新」のような「権力基盤層のスライド」が賛美されるような事も控えられたはずだ。明治維新が賛美される教育が一般的で「一元的」で他の価値を排除するからだ。
幕末から明治維新後にかけて、本来この島国をけん引すべき人物はほぼ、暗殺や戦死し、その周辺の二流の人物が今の日本の基盤を形成したのだから。

たとえば岩崎、坂本龍馬研究を卒論で手掛けた私が云うのは、岩崎は「算盤」だけの人間で「論語」に著しくかけている。つまり世界の価値観のバランスを理解していなかったのだ。(「論語と算盤」でいうなら)

それも、200年ほど以前に国富論を書いた人物や、共産主義を書いた人物ですら、「経済至上主義」をほぼ見抜いた上で「論語」的な概念(つまり思想信条;現実には儒学のみでは少々不足だが)とのバランスがなくなったら終わりだ。と理解していたのは経済学部出身のビジネスマンなら常識だろう。※僕は史学科だけれどね。

そう渋沢も云っているのに、それから背いた現代に、「渋沢栄一」の紙幣を作ろうとする浅ましさは、見るに堪えない。

私は、そういう意味で孤独だが、何も気にしてはいない。ただ、少なくとも僕らの世代で「論語と算盤」くらいの「バランス」は取り戻せるのではないか?と僅かな期待にかけているのだ。そのキーになるのは、「アート」だ。

これを読んだ方は、大抵実際に同じ内容を話すと頭の上に「???」という文字が浮かんでいるのが今日は理解できたので、少し驚いたのと、そういうものだ。という理解が進んだ。
新自由主義に至っては、もはや人類は自らその存在をスポイルしてしまうという事になっているのは、大抵の財界・政界の「近視眼」の人間でなければ理解できるだろう。

そういう事で、この年齢になると「友達100人できるかな?」は、まったく響かないし、そもそもそれぞれが異なる背景で今に至っているのに、価値観が重なり過ぎるのは正直「ストレンジ」な事だともうわかっているのだ。
そんなことは起き得ないのだから。起きてしまったら「自分がポピュリズム化」してると、自戒をした方がよいと昨年以来感じている。

【引用記事】

【友達ゼロ】でも気にしなくていい。「友達がいなくていい」と言い切れる意外すぎる理由<予約の取れないカウンセラーが教える>

ただ、あわせて述べたいのは「○○である理由」という記事タイトルのセンスの酷さは、無視できない。そういう教育のプロセスを踏んできたから「どうしても、自ら考え「保留」したり「異論」をもったり」する事が許されないような記事タイトルだ。
そういうのをポピュリズム的ともいうのだろう。
「友達を作るべき?」なんて事案は「モチーフ」であって、答えなんかはそれぞれ違って当たり前なのだ。タイトルに「理由」と末尾に付けた記事は、その記事の内容を半強制的な論調に変異させ、自由を求める内容に対しての自己矛盾を内包している。

言語は時代に応じて変化するが、それは有史以来あまり変わらないだろう。けれど、ここまでネットニュースのタイトル、つまり読ませる為の「方便」が、クイズ形式だと、もはや体験的・経験的かつフィジカルで培ったすべてのものを「人類的な言語化」で統一的に解釈してしまう。

養老孟子氏がいっている、「概念の一元化」と「その個別性」の違いを完全に無視しているのが現代だ。例えば、これはヒマワリの花です。と云った時に、まったく同じ形状・花弁・茎の角度のものはない。人間の言語は、それを「同じもの」という乱暴な概念で本来存在するものの価値を毀損しづづけている。(彼の考えの「一部」には賛同できるものがある)

だから、僕は何度も云うが「二足歩行」を始めたクロマニヨン人以降、生命体としての人類は、優秀でもなく、この惑星をただただ混乱に陥れていると感じるのだ。アートは、その行き過ぎた「概念のみの世界観」に、モノ申す最後の砦だという見解だ。

そして、「ビジネスベースのSNS」には、そのポピュリズムで延命している方々が割と見受けられるのは、そういう教育を受けてきたひとびとの代表例でもある。
ちょっとそういう意味で違いがあったのはほんの数名くらいだ。セミナーの写真を撮影させていただいた時に、発言から感じたのだからこれは間違いない。他にも、経営者のセミナーで写真を撮らせていただいていたが、勘違いをしている人がほとんどだ。


そして、現在の「社会はこうなっている」
https://note.com/kita_kenichi/n/n5c83c622d03c


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