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唐突にみたくなった写真集「ウィーン・ニューヨーク・新潟: 田中長徳写真集」

【写真をするものの理想の姿として】
写真家の田中長徳氏は、僕の尊敬する写真家のトップだ。
世界にドキュメンタリーではなく、ストレートの写真でアプローチをしている方だからだ。日本独自の写真の文脈はあるけれど、日本で一貫した態度をもった写真家の中で「世界を実際に体験された」て写真表現をされている。

そんな方は、おられなかったのではないか?

だから、僕は田中長徳氏に最初の写真集「GROUND RESUME」をお贈りしたものをみていただけたことは、写真を始めて以来、最高のご褒美だ。たった10年程度の経験だったのに・・・(39歳で写真を始めて40代後半のこと)

写真の世界はこの島国では内向きだ。ただ、長徳さんはニュートラルなスタンドで、僕はそういう開放的な長徳さんの体験的なものがつまった写真集を見ることは、とても興味深いことなんだ。

長徳さんが海外に如何に進出したのかは、なかなかそれ自体も興味深いことなのだけれど、今、世界にアプローチを考え、準備している我が身にとって存在自体がとても頼もしいのだ。

だから、長徳さんの発言を毎日「note」で読むのは楽しみだし、見逃してはならないっ、と感じているんだ。

長徳さんの口ぐせのように言われるのが「コンセプトで写真を撮ったことはない!」というのは、僕も似たところがあって「野良犬のように」とぼとぼ東京23区を歩き回りながら「匂ったところ」で立ち止まって「マーキング」をするように、撮影する。撮影ってただそれだけ。

多分そこまでは、まったく似たものなのだろうと思う。ご本人の「note」でも、都市の周縁部分に惹かれるように撮影している、という趣意のことを書かれている。※傍流写真同盟に関する記事の部分にて・・・

僕は写真を狙った通りに撮ろうなんて傲慢なことは、考えていない。
それはクライアントワークのときだけで十分だ。なぜなら、そこに余分な意識が働くと、それはもはや誰かに教わった「構図至上主義」の生贄みたいなものだからだ。結果、誰かの真似事をすすんでやっているのだから、それは趣味というわけだ。

本然的なその方の視覚ではないのだ。だから、撮影は本然的に。編集や展示構成は、それを活かすために人間的な意識が初めて少しばかり介入するのだ。

言ってしまえば終わりなのだけれど、撮影時点から予定調和が発覚しているのは、写真のひとコマづつにも力が足りなくなる。構成もしづらくなる。
そして、薄くなる。モチーフ自体のコアに迫れない。つまり熱量も時間軸での厚みも生まれない。それがいいというひとも多いので、結構なことだろうけれどね。ただ、僕はホビーでやってると思われるのは心外だ。

もっと、本気でやりたい事が決まってきたので、サラリーマン主軸からシフトしたのだから。
何かを見つけることが難しいのは時代に関わらず簡単ではないが、見つけたものはラッキーだ。長徳さんに出会ってから僕はそういう意味で色々と見えるものが変わった。感謝の念にたえない。

冒頭のタイトルの写真集は、中古で購入したので到着が楽しみだ!

そして、冒頭の写真はウォーカーエバンス@Workへのオマージュ?の写真集。手元にあり😊

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