見出し_秋永

「猫と音楽」秋永真琴

 わたしは今でも、エマはあの猫なんじゃないかと思っているのです。

     ♪

 両耳のイヤホンから聞こえてくるのは、インターネットの音楽系SNSに登録されている、ボーカルなしのインストゥルメンタル曲です。
悪くないと思います。美しいメロディの上に、ただ耳に心地いいだけで流れ去っていかない、印象的なフレイズが散りばめられています。
 うん。悪くない。
 しかし、悪くない作品はこのSNS上に無数にあって、たとえ無料であっても、あえてこれを目に止めて/再生して/最後まで聞いて/「いいね」を押して/この作者のプロフィールページに飛んで/他の作品も聞いてみる――そこまでさせることは、ほんとうに難しいのです。
 わたしの曲は、悪くない。
 でも、それだけ。再生回数の少なさが、その事実を無常に告げています。
 ため息をついて、スマホを止め、イヤホンを外しました。
 十月末の札幌は雪が降りそうな気温になってもおかしくないのですが、今日は小春日和という言葉がふさわしい、うららかな午後でした。セーラー服にマフラーを巻いただけの格好で、バスの停留所に黙って立っていても、ちっとも寒くありません。わたしの感情だけが冷えている。
 ひとりでギターとベースとキーボードを弾いて録音し、ドラムやその他のパートは音楽ソフトに入っている素材を繋ぎ合わせて作った、悪くない曲――それを、ただSNSにアップしているだけでは、状況の好転は見込めないでしょう。
 このままでは、わたしの音楽は、どこにも届かない。
 ボーカロイドの使い方を学んで歌わせ、きれいな絵のMVを作ってくれるひとを見つけて、ボカロPになりましょうか。それとも、バンドを組みましょうか。音楽を自作自演する快楽を共有し続けられる――そんな仲間を探しましょうか。
 果たして、見つけられるでしょうか――他人を侮って、生温かく赦して、そんな傲慢さをすっかり見抜かれていることに気づかなかった、だめなわたしに?

 安藤はさ、もうおれと組んでいても得しないよ
 おれは、安藤とちがったんだ。安藤みたいにはなれない
 
 かつてバンドが瓦解したときの、苦い記憶の泡が胸にわき起こったとき――
 ふと、目の端に動くものを捉えました。
 見ると、猫です。
 白と茶の縞もようの、凛々しい顔をした猫が、少し離れたところからわたしを見上げています。体長は五十センチくらい。太ってはいませんが、体格のいい猫です。
 そっと、猫に近づきます。
 猫は動きません。さして興味がなさそうに、わたしをその目に映しています。
 手の届くところまで距離を詰めて、かがもうとした瞬間――猫はふいっと顔を背けて、数歩遠ざかりました。
 また立ち止まって、わたしを振り返ります。からかうような表情で――と見えるのは、人間の側の勝手な解釈でしょうか。
 近づくと、遠ざかります。
 でも、そのまま駆け去りはしません。こちらを見てきます。
 また近づく。
 また遠ざかる。
 そうやって誘われるようにして、わたしはバスを待つのをやめて、猫を追跡しはじめました。
 ふだんは、動物にそれほど興味を持ちません。みじめな想い出が、わたしに気まぐれを起こさせたのでした。
 ひとでありたい――そんなふうに思ったような気がします。道で見かけたかわいい猫を追いかけてみるという、無邪気でキュートなふるまいができる女子高生に、わたしもなってみたい。では、試しにやってみようか、と。

     ♪

 住宅街の路地を進み、車の往来がある通りを危なげなく優雅に渡って、猫はわたしを従えるように歩んでいきます。どこまで連れていかれるのでしょう。わたしが勝手についていっているだけですけど――
 と、ふいに。
 猫が素早く身をひるがえして、近くの電柱を駆けのぼり、民家の塀の上に立ちました。こちらを一瞥して、塀の向こうにひらりと着地し、庭を横切っていきます。
 完全にもて遊ばれている。
「このっ――」と、罵声が漏れました。こうなったら意地です。走って角を曲がり、塀を回りこんで、民家の反対側に飛びだして――
 わたしは、足を止めました。
 出たところは、レンガ色のタイルを敷き詰めたささやかな遊歩道になっていて、細長い花壇や、木の切り株を模した小さなベンチが設けられています。
 そのひとつに、猫――みたいなひとが、座っていました。
 白人の女性です。二十代前半くらいでしょうか。白いブラウスを着て、細身のダメージジーンズを穿いています。
 茶色い長髪を細かく編みこんで、頭に縞もようをつけたような髪型が目を引きます。コーン・ロウと呼ぶのだと、後で調べて知りました。
「猫ちゃん……」
 思わず声に出していってしまったのは、そのたたずまいが、追いかけてきた猫を連想させたからでした。
 ただし、猫はビールを飲まないでしょう。女性はサッポロクラシックの缶を手にしていました。期間限定の「富良野ヴィンテージ」です。
「ネコチャン? アナタの名前?」
 かなり巧みな日本語でそういい、女性は立ち上がって、わたしに満面の笑みを見せました。精悍な顔つきだけど、ふしぎと柔らかい印象の笑顔です。
「いえ、ちがいます」
「じゃ、ナンだよ?」
「あの、猫を追いかけて――」
「アナタの名前はナンだよ? ワタシはソレを知りたいんだよ?」
 巧みだけど語尾が少し乱暴です。
「安藤雪絵といいます」
 成り行きで名乗ることになりました。
「ユキエチャン。ハジメまして、エマ=リビングストンです」
「は、初めまして」
 成り行きで握手することになりました。
 差し出された手は大きくて指が長く、わたしの手を力強く包み込みます。
 女性のこの手、この指先は、もしかして――あることにわたしは気づいたのですが、次の瞬間、突拍子もない提案をされて吹っ飛びました。
「ユキエチャン、ビール飲む?」
「はい?」
「ビール飲め? な?」
 手を握ったまま、女性は笑みをさらに深くします。

     ♪

 成り行きで初対面の白人女性とビールを飲むことになったのは、もちろん十七年の人生で初めてです。
 エマは六缶パックを持参していて、わたしに分けてくれました。
「ち、チアーズ」
「KANPAI」
 なぜか乾杯の掛け声が逆です。とにかく、缶を傾けました。
 通常のものよりホップが強く香る、若々しい味わいです。
 ビールを飲むわたしを、エマはにこにこと見つめてきます。わたしも一生懸命に見つめ返しますが、表情はこわばっていることが自分でもわかります。
 なんでしょう、この展開。
「ユキエ」と、エマがわたしを呼びます。チャンが取れました。
「どうして、イッショに飲むんだよ?」
「はい?」
 耳を疑いました。微妙な言い回しの間違いじゃないかと思ったのですが、
「ユキエはオカしい」
 続いた言葉は意味を取り違えようがありませんでした。そちらから誘っておいて、何という言い草!
「フツウは、ヘンなガイジンだって思うんだよ? コワいよ?」
「それは、まあ、思うけど」
 わたしも遠慮がなくなってきました。「エマこそ、どうして」
「ユキエが泣いてたから」と、エマはいいました。顔を情けなくしかめ、両手の人差し指を下に向けて、目元に添えます。涙のジェスチャーです。
「アレだと思ったから。アレ、ニッポン語、ンー、Lost Child……」
 リスニングはそれほど得意ではありませんが、その英語は聞き取れました。
「まい、ご?」
「ソレ! マイコさん!」
「舞妓さんじゃなくて、迷子」と突っこみながら、わたしは心臓がぎゅっと掴まれる心地を味わっていました。今のわたしの魂の状態を直感で当てられたと思いました。
 そうですか。
 猫を追って走った私は、迷子になって泣いてる子供みたいでしたか。
「ユキエは、何のマイゴさん? ほんとのマイゴさんとチガウ、ココロのマイゴさんでしょ?」
 やっぱりこのひとは猫の化身なんじゃないかと思いました。こんな無造作に、どんどんと他人の内側に入り込んできて――恐るべきなのは、そのことにふしぎと忌避感も警戒心も湧かないのです。
「――音楽の迷子さん、かな」
「オンガク」
「どうしたらもっとわたしの音楽が聞かれるのか、でも聞かれることばかり気にして作りたい音楽を作れなくなるのは本末転倒だし、どうしたらいいのか、道筋がわからなくなっちゃった」
 フムン、と唸って、エマはしばし黙考するそぶりを見せました。
 それから、新しい缶を手に取って、わたしに渡してきました。
「トリアエズビール」
 それ、ひと続きの名詞じゃないから。

     ♪

 たちまち三缶ずつ空けたところで、エマが「ラーメン食べたい。食べよう。な」といい出しました。わたしも、食べたいな、と思いました。
 幹線道路に出たところにある「さんぱち」に入りました。昔から札幌の各地にあるチェーン店です。
 中途半端な時間なので、わたしたち以外のお客さんはいません。テーブル席に向かい合って座り、エマは醤油ラーメン、わたしは味噌ラーメンを注文します。
「ユキエのオンガク、聴きたい」とエマがいうので、スマホとイヤホンを貸しました。
 どんな感想が来てもいいように、ほろ酔いの頭で心構えをします。酷評なら、それでもいいのです。何も感想が生まれず、困ったように口ごもられるのが、いちばん堪えるかもしれません。
 わたしの曲を聴くエマの表情が、真剣なものに変わりました。
 テーブルの上に乗せた両手が、かすかにリズムを刻むような動きをします。
 さっき気づいたことを、思い出しました。エマの手の、皮膚が硬くなった指先は、何か弦楽器を弾いている者の――
 と、そこで。
「お待たせしました」と、ラーメンが運ばれてきました。
 麺が隠れるようなボリュームで、もやし、メンマ、チャーシューが盛りつけられ、中央にねぎと「さんぱち」の文字が入ったなるとが乗せられています。
 エマはイヤホンを外して、笑顔で「トリアエズラーメン」といいました。
梯子を外された感じがありましたが、そうですね。冷めないうちにいただきましょう。
 レンゲでスープを掬い、口に運びます。
 おいしい。味噌のまろやかなしょっぱさが舌に染み入ってきます。
 もやしをかき分けて、ちぢれた太めの麺をたぐり寄せ、すすります。もちもちした歯ざわりが心地いい。食べ応えがあります。
 最近は煮干しとか鳥白湯とか、趣向を凝らしたラーメン屋が増えましたけど、これは小さいころの休日に家族で訪れたラーメン屋のような、安心する味がします。
 エマに顔を向けて、わたしは訝しく思いました。
 箸を手にしたまま――使い方がわからないということはなさそうです。わたしよりきれいなくらいの持ち方で――しかし丼に箸をつけず、エマはラーメンを見下ろしています。まさか、誘っておいてラーメンが苦手ということは……
「アツいの、ニガテなんだよ。待ってるダケ」
 猫舌なんだ。
 やはり、猫が人間に化けているのかも――と、妄想がふたたび頭をもたげます。
「ユキエ、赤いペッパー入れるか?」
 エマがテーブルの隅にある、一味唐辛子に手を伸ばします。
「ううん、大丈夫」
「黒いペッパーか?」
 今度は、隣の胡椒。わたしは首を横に振ります。
「ならガーリック」
「いいってば」
「ゼンブ入れろよ」
「エマ!」
 思わず声を強めてしまいました。だって、調味料の瓶をまとめてわたしのほうに押し出してくるのですから。
「そんなことをしたら味がおかしくなっちゃう」
「でも、ユキエのオンガク、ゼンブ入れてるよ」
「えっ……」
 エマは「イタダキます」と、慣れた仕草で両手を合わせてから、自分のラーメンを食べはじめます。対して、わたしの箸は止まってしまいました。
「エマ」
「ナンだよ」
「わたしの曲は……唐辛子も、胡椒も、なんでもかんでも入ってる?」
「ハイ、入れすぎじゃネ?」
 あっさりと答えて、エマはラーメンとの格闘に戻ります。
 精いっぱい考えて構築した美しいメロディの上に、ただ耳に心地いいだけで流れ去っていかないよう、各楽器による印象的なフレイズをたくさん散りばめてきました。そのつもりでした。
 作りこみすぎで、うるさい? かえってメロディの印象がぼやけている?
「ユキエ、ヒトリで、宅録でやってる?」
 ふいにそう問われて「タクロク……?」と、どんな英単語なのか、しばらく考えてしまいました。
 自宅録音の略語は、きっと迷子や唐辛子や胡椒といった日本語より馴染みがないはずです。音楽をやっていない外国人にとっては。
「イロイロな楽器を弾けるのは、いいこと。でも、弾けるゼンブを弾くのは、意味ない。ただのジコマン」
 自己満足ですか。なるほど。
 わたしは持てる技術を、考えなしに、ただ注ぎこんでいるだけなのかもしれません。調味料を足せば足すほどおいしくなると誤解しているかのように。
「ヒトリはムズカしいよ、ユキエ。だからヒトはチームになる」
 わたしは、エマを見つめました。
 周りの景色が遠くなります。目に映るのは、この出会っていくらも経っていない、謎の女性だけです。エマ、あなたはいったい……
「ユキエは、バンドを作りなよ。ミンナでオンガクをやるんだよ」
 そういって、エマ=リビングストンはにっこりと笑いました。

     ♪

「さんぱち」を出たときには、わたしはすっかり酔いも醒め、打ちのめされていました。
 エマは自分がわたしに与えたものの重さなどまるでわかっていないふうに、呑気そうにアイスキャンデーをかじっています。この食後のデザートをくれるのが「さんぱち」の特長です。子どものときは、むしろラーメンよりこっちが楽しみだったかもしれません。
「ゲンキ出せよ、ユキエ」
 エマがわたしの肩を叩きました。
「アレンジがダメ、それだけ。曲はイイよ。チューガクセーとは思えない」
「ちゅ……」
 エマを睨みつけました。「わたし、高校生です」
 それが今日いちばんの驚きであるかのように、この外国人女性は目をぐるりと回して見せました。
「ニッポン人、若く見えるよ……」
「じゃああなた、中学生だと思ってビールを勧めたわけ?」
「イヤならイヤ、いえばいい。ホントはコーコーセーだってダメだろうよ。ユキエはゼッタイ、いつも飲んでる」
 そこを突かれるとこっちも弱いのですけど。
「トシは」と訊かれて「十七」と答えると、
「同じかよ……ニッポン人、ホントにわからない……」
「エマ、十七歳なの!」
 今度はこちらが驚く番でした。なんて大人っぽい。
 いまさらながら訊いてみたら、二年前に父親の仕事の都合でロサンゼルスから札幌に引っ越してきて、わたしとは別の高校に通っているということでした。
 そして――やはり――ギターを弾いていて、軽音部に籍を置いている、と。
 さっき出会ったベンチのそばまで戻ってきたところで、
「エマ」
 と、わたしは勇気を出していいました。
「いちど、音を合わせてみない?」
 エマは眉を上げて、値踏みするようにわたしを見つめました。
「ツマラなかったら、すぐヤメるよ」
「それは、わたしもそう。わたしはエマの腕前を知らないもの」
 わたしはエマを見つめ返しました。
「――いつにする、ユキエ?」
 それがエマの答えでした。

     ♪

「ナンとなく、ユキエとは長いツキアイになりそうだと思ったよ」
 何かの拍子に、出会ったあの日の話になると、いつもエマはそういって笑います。わたしは「そうだね」と応えます。
 
 雪絵ちゃん。また仲間は見つかるよ
 最高のバンドを組んで、あいつのバンドと共演できるときが、ぜったい来る

 かつて落ち込んでいたわたしに先輩がくれた慰めの言葉を、いまエマと組んでいるバンドなら、いつか叶えられるかもしれません。
 あるいは、いつかエマとも心がすれ違い、離れてしまうのかも。最初の印象の通りに、ひとを食った、気まぐれで、自分の快楽に忠実な子ですから。馴れ合いでは済まない。一回一回のライブが真剣勝負です。だから――
 わたしは今でも、エマはあの猫なんじゃないかと思っているのです。

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