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お経をあげるのがちょっと楽しみになるエピソード

中央学術研究所
学術研究室 宇野 哲弘

<エピソード2>
観察の行に徹した 摩訶拘絺羅(まかくちら、Mahākoṭṭika,またはMahākoṭṭita)

序品の最初のページの舎利弗や目連と共に説法会座に連なる弟子として紹介される摩訶拘絺羅。この名前、確かにお経をのなかで見たことはあるが、一体この人はどういう人なのか?舎利弗から8番目に名前が出てはいるが、十大弟子には入っていません。
 
「気になる。」

ということで今回は摩訶拘絺羅について色々と考えてみます。

ザゼンソウ

こころ静まり、安らいで、考え語り、こころ浮つかず、嵐が木の葉を吹き払うよう、悪しき諸法(こころ)を吹き払う。(『仏弟子達のことば註』-パラマッタ・ディーパニー―より) 

これは摩訶拘絺羅が仏陀より「無碍解(むげげ)(洞察智)第一」と宣言された時に述べた偈の一節です。ゲゲゲの鬼太郎とは関係ありません。
彼の悟った無碍解とは、洞察智とも表現される通りものごとを深く観察することに長けていた、仏弟子の中では一番でした。
摩訶拘絺羅は出家前には三つのヴェーダ(古代インドの最古の聖典)を学び、バラモン(司祭階級)の技芸において完成の域に達していたといいます。それなりに一つの道に秀でていたのでしょう。そして仏陀の許で出家し、ずっと観察の行(修行)を行ってきました。観察の行、ただ見ているだけではなく、そのものの成り立ち、現状、将来に至るまでの変化をつぶさに観察していたのでしょう。
冒頭の偈は観察の行によって得られる心の変化を述べたものと思われます。その詳細を知ることは、情報過多の現代人にとって立ち止まり、自分を見つめなおすきっかけづくりの方法とも言えそうです。

ふきのとう

「こころ静まり」とは、眼・耳・鼻・舌・身・意が静まることで、素直になれるので静まっているということです。
法華経十九番の法師功徳品で説かれる「六根の功徳」を体現している人なのです。
「安らいで」とは一切の悪を作ることを止めて離れているということ、
「考えて語る」とは智慧によって省察して語るということ、またふさわしい時に語るという意味もあるようです。
早いレスポンスが求められる昨今ですが、メールやラインのメッセージでも、文字を打ち込んで、すぐ送信せずに見返してみることも必要かもしれません。さらに、通常の会話の中でも、今言うべき時なのかを問いながら語る、ということは大切に感じます。
「こころ浮(うわ)つかず」とは、三種の身の悪行(殺生・偸盗・邪淫)、三種の意の悪行(貪・瞋・邪見)、四種の語の悪行(妄語・両舌・悪口・綺語)が起こらないので、浮つきがないということ。
こうして清浄な戒めの上にしっかりと立って、さらに観察していくと「嵐が木の葉を吹き払うよう、悪しき諸法(こころ)を吹き払う。」となるようです。
庭園の清掃をするときに箒で木の葉を掃くよりも、ブロワー(強力な風を放出する電動工具)を使って木の葉を飛ばすと効率が良いように、こころを清め、清まったまなざしでものごとを見ると、一切の迷いから解き放たれると教えています。
お経をあげながら「摩訶拘絺羅」に出会ったら、「洞察智」を思い出し、ものごとを深く考えてみるとお経の功徳も大きなものになるのでは、と思います。

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