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金色


なにかを美しいと思うとき、自らの美しさにようやく気づくこともまた、あるのだ。


あなたは苔の匂いを吸い込み、片目だけつぶる。つぶっていないほうの目も細めて、昨日の雨を思い出す。

あれはここ最近でいちばんの大雨だった。ザーザーと降ってくるなかを山から降りていくとき、

「きた、きた」

と喜ぶ人間の姿も見かけた。土砂降りを嬉しそうに両手と顔で受け止める彼の様子に、あなたは疑問を抱いた。梅雨の頃は、雨が降ると

「ああ、まただ、また降ってきやがった」

とげんなりしていた人間が、この時期だと妙に喜ぶことが、あなたは不思議でたまらなかった。慣れ。そこから派生した苛つき。慣れを忘れれば、すぐに有り難がる狡猾さ。雨が止んだとき、あの人間は喜ぶのだろうか。それとも、無表情で山菜を採り続けているのだろうか。あなたはもう、その人間について考えるのを止めていた。あなたには他に考えるべきことが、他に考えたいことがたくさんあった。

あなたは尻尾を少し上げて道を進んでいく。濡れた苔は滑りやすく、あなたはいつもと違う道をゆく。鳥が鳴く声がする。あなたは、父が言っていたことを思い出す。

「この山では、鳥はいつでも鳴くから大丈夫だ」

背中越しに聞いたその言葉が、一体どういう意味だったのか、何が大丈夫なのか、あなたは答えを知らないまま、一人で今ここにいる。

一人で歩き続けることが、さして苦ではないことを教えてくれたのは母だった。母は毛並みが美しく、その象牙色の毛に包まれて寝るのがあなたは大好きだった。ススキ野原の真ん中で寝ているようで、すぐに眠りに落ちることができるのだった。あなたは、母のような毛並みが欲しかったと、ずっと思っていた。どうして自分の毛が母と同じではないのか、それが嫌でたまらなかった。かといって父ともまた違うその毛を、あなたはどう愛せば良いのかわからなかった。

「一人で歩くときに考えることが、あなたが本当に考えたいことなのよ」

兄弟と戯れ合うとき、母の毛に包まれてうとうとしているとき、父と共に狩りに出かけるとき。そのどれでもなく、あなたがあなただけで歩いているとき、ひっきりなしに浮かんでくる考えと、あなたは一つひとつ向き合うようにしていた。母のように心から美しくなりたかったのかもしれないし、考えることで、一人で歩くことの孤独さから逃れたかったのかもしれない。

川はいつもより流れが早い。昨日の雨の分もごうごうと流れていく。ふとあなたは、川を堰き止めている倒れた巨木に目をやる。昨日の夕方までは根を張っていたはずなのに。倒れた巨木の葉がまだ青々としていることに、あなたは胸がつかえる。その葉の間を、水が通り抜けていく。泥が混じり、濁った水が後から後からやってくる。あなたは巨木の小枝を一本折ると、口に咥えて歩き出した。それは、巨木を慰めたかったからではない。巨木が可哀想に思えたからでもない。あなたは、倒れた巨木の影に潜む小魚やサワガニを見たのだ。倒れてもなお弱き者を守る巨木に、あなたは敬意を持ったのだ。

もう少しだ。あなたが一人で歩き続ける理由。その理由である目的地は、川を横切り、木々の間を抜け、この傾斜を登ったところにある。

鹿の群れがどどどと駆けていく。そのうちの一人がこちらの存在に気づくも、慌てる様子もなく目を逸らした。あなたは、目を逸らしたその一人をじっと見る。身体の大きさと毛の色からしてまだ幼いのであろう。母親らしき鹿にぴったりとついて駆けていく。あなたは、なぜか引き返したくなる。目的地まであと少しのところで、どうしてそのような気持ちに襲われたのか。あなたは、一人なのだ。二人なら一人になれるが、一人は二人になれない。その当たり前のことが、時にひどく不安にさせる。

鳥が、どこかで鳴いている。鳴いている。あなたは腰を上げ、歩き出す。爪が石に擦れる音。ピョーピョーやら、ツィーツィーやら。呼んでいるのか、歌っているのか。あなたは、大丈夫だと思った。あなたは、ごつごつとした石を越し、傾斜を登る。

そこは、木が生えていない場所。背の低い草だけが、風に揺れている。ススキも至るところに生えている。あなたは周りを見渡す。西の低い空に、日が沈もうとしていた。隣の山にぶつかる光。あなたの元へ真っ直ぐ届く光を、あなたは美しいと感じる。あなたは走り出す。目の横を通り過ぎる風も、暖かい気がする。あなたは走る。顔に虫がぶつかる。あなたは走る。どのくらいの距離を走ったのか知りたくて、あなたは振りかえる。

そして、あなたは気づくのだ。自分の尻尾が、金色に輝いていることを。黄褐色で、目立たなくて、好きになれなかったあなたの尻尾。その尻尾が、日の光に当たって金色に輝いていることを。あなたは、美しいと感じる。そして驚く。自分の尻尾を美しいと感じたときに湧き上がる感情が、こんなにもくすぐったいことに。

あなたは、美しいのだ!

それに気づいたのは、他の誰でもなくあなた自身だった。

日が落ちて、あたりは薄暗くなる。昼から夜に変わるこの時間は、すこし靄がかかっている気がする。あなたは来た道を戻ろうとして、立ち止まる。

あなたがここに来たかったのは、一人で立っている自分を見渡したかったからだ。高い木々がない場所に、自分一人を向かわせたかったのだ。あなたは、もう少しだけここにいようと思った。母は歩くことの価値を説いていたが、あなたは自分の意思により、もう少しここで立ち止まっていたかった。日が落ち、尻尾はもう金色ではなかった。それでもあなたは尻尾が愛おしいと思った。目を閉じ、背筋を伸ばし、あなたは考える。その姿は、金色より美しかった。


〈了〉


この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』5月号に寄稿されているものです。今月号のテーマは「はしる」。読んで外に駆け出したくなるような、疾走感あふれる6作品が集まっています。文活本誌は以下のリンクよりお読みいただけますので、ぜひごらんください。



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