見出し画像

若草という男がいる。

引っ越しをした際、下戸なりの知識で購入した日本酒をお猪口に注ぎ、玄関の土間に置いて
「よろしくお願いします」
と頭を下げるような男だ。
その行為がこの国の礼儀なのか、方法は正しいのか、若草は知らなかったが、彼は彼なりの誠意を見せたのだ。

誠意。若草は自身のそれについて考える時間を持たなかったが、彼のなかで長く息づいていた。それは旗のようなものだった。風に吹かれてはためくことはあっても、自ら強引にはためかせようとしないのが、若草の誠意という旗の特徴だった。

風が吹くとき、その風が身震いするような冷たいものであっても、身を任せていたくなるような暖かなものであっても、ぱたぱたとはためくのが、彼の旗だった。どのような風が吹いても、彼の旗は躊躇わずはためくのだ。裏地の白色は、若草という男の潔白さを象徴しているかのようにも見えたが、本当のところはどうだったのだろうか。

風が吹かないとき、その旗はへたりと垂れ、旗棒だけが真っ直ぐ平野に立つ。何もない平野に聳える彼の旗棒は、雨が降れど、地が干上がろうと、傾くことはなかった。その旗は、若草の無口な、堆積したさびしさでもあった。


若草がアパートの201号室を出るのは、食材を買いにいくか、集会に出るかの2つの場合しかなかった。

太田マーケットは、アパートから歩いて8分ほどの場所にあるスーパーマーケットだ。途中の交差点にすき家があるが、若草は鳴る腹をおさえて太田マーケットに急ぐ。すき家に行くのは、彼の母親の誕生日だった日だけだと決めているのだ。

値下げされた商品が置かれた棚の前を通る時、若草は必ず立ち止まるのだった。それは彼の所持金の額には関係がなく、廃棄されるよりは自分の胃の中に入るほうがましだろうという考えによるものだった。若草は、半額を示す黄色いテープが貼られたトマトをかごに入れた。旗が揺れる。彼の旗が誰も見ていないところではためくことのほうが多いのは、偶然ではなかったと思う。そうであることを決められているかのように、彼の旗は誰の目もないところで揺れるのだった。誰の目もないことが、彼の旗棒が真っ直ぐに保たれていることのひとつの意味でもあった。

この町で集会が行われていることを若草が知ったのは、引っ越してきたときに大家から渡された書類のなかに混じっていたあるチラシを見てのことだった。契約書や周辺地図についての書類に混じっていたのは、「集会に参加しませんか」と簡潔に書かれたチラシだった。モノクロで印刷された手書きの文章は、どうしてか若草の心を掴んだ。

「皆で集まるだけですが、けっこう楽しいです。今年で20周年!」

20年も前から、この町ではただ集まるだけの集会が行われていて、そして町の新参者に大家が当たり前のようにチラシを渡す文化が根付いている。もしかしたら、手当たり次第出会う人にこのチラシを渡しているのかもしれないが、若草は少し嬉しかった。久しぶりに少し嬉しかった。


夕方目を覚ました若草は、今日が集会であることを思い出す。
集会は月に一度、川田公園で行われる。開始時刻は25時。集会の時間が夜遅くであることについて、不満を述べる者は参加者の中にいない。むしろ、25時だから参加している者のほうが多い。朝に、昼に、夕方に外を出歩くことにやましさを感じない人が、この世にどれだけ存在するのだろうか。どれほどの人が、夜中という時間に生かされているのだろうか。25時に開かれること、それがこの集会が続く理由でもあった。

夏蜜柑を2つ食べおわったところで、若草は洗いたてのTシャツに着替えた。夏蜜柑は隣の平家の庭に生えている木のものだ。平家の雨戸は毎日閉まっていて、中から人が出てくるところを見たこともない。201号室のベランダに向かって伸びている枝から夏蜜柑をいくつかハサミで獲るとき、若草は平家の開くことがない玄関に向かって頭を深く下げる。

玄関を開けると、ちょうど秋山が駆けていくところだった。初めて集会に参加しようとしたとき、迷子になりかけていた若草を案内してくれた男だ。坊主頭の額には汗が浮かんでいて、タンクトップは今日も黄ばんでいる。柔軟剤のいい匂いが、深夜のアスファルト上に漂っている。秋山からは、いつも柔軟剤のいい匂いがする。着ている服そのものは縮れていたり黄ばんでいたりするのに、思わず深呼吸したくなるようないい匂いをいつも纏っているのだ。

走っている秋山に話しかけてはいけない。若草はそのことを3ヶ月前の集会で知った。「何か連絡事項ありますか?」と司会が参加者に尋ねると、秋山は静かに言ったのだ。
「前にも言ったけど、俺が走ってるとき、俺には話しかけないでください。お願いします」
秋山を見かけるたびに彼は走っているのだが、じゃあいつなら話しかけていいのか、とは誰も聞かなかった。
「分かりましたー」
と言って終わりだ。
走る秋山の、柔軟剤の強い強い香り。若草は、その残り香をたどるように歩いて川田公園に向かう。

到着する頃には10数人ほどがすでに集まっていて、会話をしたり歌を歌ったりしていた。「川田公園」と刻まれた石の上にスーツ姿の山垣が立って、
「大きな声は出さないように」
とか
「トイレは先に済ませて」
とか指示を出している。

毎回、司会を努めてくれている山垣は、どんなときでもスーツを着こなしている。今日はさすがに暑いのか、ジャケットを左手に持って、右手で首のあたりを仰いでいるが。
若草の後に続いて到着したかおりが、
「お仕事おつかれさま」
と山垣に声をかける。
「今日は残業なかったからね、まだ元気ですよ」
と返す山垣が実は働いていないことを、皆知っている。

朝早く、スーツを着て駅に向かい、夜遅くにほろ酔いで駅から出てくる山垣は、毎日どこで何をしているのだろう。すべての人に平等に人生があるように、すべての人に平等に事情があるのだ。この集会に来る人は、山垣に仕事のことを訊ねたりしない。かおりのように、“仕事をしている山垣”を労ることはあるが、それ以上も以下もない。それは気遣いでもやさしさでもなく、かたちは違えど自分もまた山垣と同じ類のものを抱えているからだ。触れるということが人間の関係性でもあるように、触れないということもまた、人間の関係性なのだ。若草は、先週すき家の前を通った時、背中を丸めてネギ玉牛丼を頬張る山垣の姿を見かけたことを思い出した。

今度すき家に行くときは、自分もネギ玉牛丼を注文してみよう。それだけを思いつき、それだけしか考えることをしなかった若草。旗がまた、ぱた、と揺れる。若草は公園をぐるりと見渡し、花壇の前のベンチに腰を下ろした。

隣にかおりが座り、若草の手を握った。じっとそうしていると、手に汗がにじむ。毎回、かおりはこうして何も言わずに若草の手を握り続ける。若草は、かおりがなぜ自分の手を握ってくるのか聞いたことはなかったが、かおりの気持ちがほぐれるのであればそれで良いと思っていた。事実、かおりはそうすることでほんの一時悲しみを肩から降ろし、傍らに置くことができた。傍らに置くことと抱えていることの違いは些細なようで大きい。この悲しみが、一体いつまで続くのかを考えると気が滅入るときもあるが、集会で少しだけ休むことで、彼女はまた悲しみを背負うことができる。悲しみを取り除くことだけが、悲しみの解決策ではない。悲しみを背負い続けることができるようになることもまた、悲しみとの向き合い方だと、若草は手を握られながら考えるのだった。


25時になり、公園の時計の針が1を指す。

山垣が、一人ひとりに声をかける。
「鼻をほじるのをやめて」
「寝てもいいけどイビキはかかないで」
「姿勢が素晴らしい」

もちろん若草にも。

「集まると楽しいですね」

若草は応える。

「はい」

頬は上気し、口角も少し上がっている。

「はい」と声を発した若草のことを、公園に集まった集会の参加者全員が見つめている。秋山は汗を拭う手を止めた。

皆、満ちた表情で見つめている。

若草という男の、臆病な男の微笑みが、愛おしく思えるのだ。

若草は孤独でいる時間が多いが、決してただ孤独なだけの人間ではない。こうしてなんでもない日の夜中に、同じ町に住む人々が集まっていることを「楽しい」と感じ、そしてその楽しさを壊すことを恐れる男だ。直接会話をせずとも、友人というほどの間柄にはなれずとも、自分にとって顔見知りの人々が、顔見知りでいてくれること。それがどれほど貴重なことなのか、若草は知っている。

若草が発した「はい」は、応答以外の意味も内包していた。
思うように生きることはできず、まともな生き方に憧れ続ける日々のなかで、この集会があるからなんとかなっている部分もある。それを伝えないのも、変に伝えすぎるのも違うと思い、若草はただ一言、強く、「はい」と言ったのだ。
誠意を、渡したのだ。また旗が揺れる。風は、若草を通り過ぎるものではなく、若草に向かって吹いてくるものだ。若草はまだそのことを知らない。知らない彼の旗が、ぱたぱたとはためいている。

誠意とは、思うに、強靭さだ。見せかけの武装は、誠意にならない。若草が持つ誠意の旗は、どんな風が吹こうと、何年も吹かずとも、常にそこにあり、小さな風が吹いたときには、変わらずはためくものであった。旗を破ろうとする人がいても、誰かに旗棒を蹴られようと、決して音を上げずに、ここまでやってきたのだ。

集会がはじまる。

出席確認もないし、議題もない。
けれども集まった人々は皆、この集会を愛していた。心待ちにしてひと月を過ごしていた。
「よし」と言って、若草はベンチから立ち上がる。

若草よ、その旗を降ろすことなかれ。
君の旗がぱたぱたと音を立てるとき、耳を傾け心安らぐ者がいる。
君の旗がぱたぱたと音を立てるとき、君は特別いいかおをしている。

若草よ、その旗を降ろすことなかれ。


<了>


この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』4月号に寄稿されているものです。今月号のテーマは「はじまる」。あたらしい生活がはじまる春の季節にぴったりな、6作品が集まっています。文活本誌は以下のリンクよりお読みいただけますので、ぜひごらんください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?