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太古の二人

火と波は似ている。

木の枝を火に焼べ、丘の下に広がる海を見ながら、キイは岩にもたれていた。
姿かたちはもちろんだが、とりわけ似ているのはあの薄い靄。火の周りにも、波の輪郭にも同じようなものが見える。
それがどうして似ているのか、似ているということが何を意味するのか、もしくは意味をなさないのか、キイは考えていた。

地面に転がる石を掴み、転がしたり叩いたりしながら目を細める。山の向こうで飛び回るコウモリの影が、キイにとっては煩わしくて堪らない。


キイの目は、集落の中で一番だと言われている。海の彼方を泳ぐクジラも、夜の森に潜ヘビも、林の中を通り過ぎるシカも、誰よりも早く見つけ出してきた。その目を頼りにして、男たちは狩りに必ずキイを連れていく。

「アー、お前も来い」

小馬鹿にしたようなその声に表情を歪ませることもなく、キイはついて行くのだった。

アー。

それがキイのあだ名だ。
目は類を見ないほどいいが、その目で何か獲物を見つけたからといって、何もできない。何かできたことはない。どんどん沖に行ってしまうクジラの背中を見送り、ヘビに気づかれないように息を潜め、シカが去っていくのを見守る。クマを、イノシシを見つけても、「あー!」と声を出して獲物がいる方向を指さすだけで、槍を構えることも、石を投げることもできない。狩らなければ、と思うと、体が固まってしまうのだ。

“あー!”

キイは目がいいが、目がいいだけだった。

自分で狩りもできないのに、誰よりも早く獲物を見つけるキイに嫉妬してか、ただただ馬鹿にしてか、男たちは皆、キイをそのあだ名で呼ぶ。

アー。

キイが遠くの木の影に隠れるイノシシを見つけると、男たちは走り出す。周りの温度が上がる。邪魔だ邪魔だと押し倒されるキイは、目にイノシシの姿だけを映すのだった。




血だらけのイノシシの頭部を頬に押し付けられ、「お前が見つけてくれなきゃこいつも捕まえられなかったからなあ」と嫌味を言われたことを思い出して、キイは頭を横に振る。忘れろ、今日のことなんて。火と波について考えるんだ。火と波について考えるんだ。押し倒されたときにできた腕の痣をさすりながら、キイは小さく欠伸をした。


火が跳ねる。


サワルトが駆けてくる爪の音がして寝ぼけ眼をこすると、黒い毛をなびかせるサワルトと、何やら嬉しそうな顔で立っているトウがいた。

サワルトがキイに駆け寄り、尻尾を降る。

「考えごとをしているから、今は遊んでやれないよ」

わしゃわしゃと撫でながら、キイはサワルトに優しく声をかける。

「なんの考えごと?」

そう尋ねながら、トウがどす、と腰を下ろす。村で一番恰幅がいいトウは、その大きな手で懐から赤いロシの実をいくつか取り出し、キイに差し出した。

ありがと、と言いながらキイはロシの実を一つずつ口に含む。プチッと弾けて、甘い汁が口の中に広がる。ロシの実は、キイの大好物だ。小さいのにちゃんと甘くて、どんなに食べても喉が渇かない。考えごとをするとき、動きたくないときにちょうどいいのだ。

「どうでもいいことだよ、いつもと同じ」

キイがそう答えると、トウは満足そうに笑う。

「いつもと同じ」

キイは、表情を変えずに火を見つめる。表情を変えないという部分では、集落の男たちに「アー」と呼ばれるときと同じだが、意味は異なる。キイは今、伝わってほしくなくてそのままの表情でいたのではない。表情を変えなくとも伝わるから、そのままでいたのだ。

トウの肩に、炎の赤色が映えている。


その生まれ持った体格や身体能力の高さから、トウは狩りの名手になるだろうと言われていた。しかしトウもキイと同じく、狩りをすることができなかった。その理由を語ることもなく、トウは女たちに混ざって木の実や貝の採取に勤しんでいる。

高い木に簡単に登り、枝を揺らして実を落とす。海に何分も潜り、深くに潜む貝をいくつも集める。

女たちは口々にこう言う。

「あんたにその能力がなければ、今頃どうなっていたかね」

笑いながら、トウの肩を叩きながら。

その言葉が持つ鋭さを、重みを、トウが気づいていないわけもなかった。それでも合わせて笑った。

「そうですね」



興味深いのは、狩りができないこの二人が、互いに狩りができないことを知っていて一緒にいるわけではないという点だ。キイが考えごとをしにこの場所に来るときと、トウがこの場所に来るときが偶然か否か、よく重なるから。ただそれだけだった。

そして、村の犬たちの中でリーダーを務めるサワルトは、妙にこの二人に懐いた。村の人は、二人に尻尾を振るサワルトの姿を見て笑った。

「犬は賢いから、できそこないをああやってからかって遊ぶんだ」


夜が更けていく。



まだ薄暗い中、キイは揺さぶられて起きた。

「おい、東の山に鹿のでかい群れが出た。起きろ」

目を開けると、男たちが武器を持って自分を囲んでいる。

「早くしろよ、」

頭を殴られて、急いで立ち上がる。

ぼーっとしたまま、訳も分からず石槍を渡された。

「今日の群れは大きいから、お前もやれ」

石槍が重い。槍の先端についた石が、夜更けの中でじらりと光っている。

走りながら、キイはすでにたくさんの鹿の姿を見つけていた。見つけていたのに、見つけたと言えなかった。自分が言ったら、指さしたら、その鹿を狩らなくてはいけない。口を結んで走り続けた。

しかし、その瞬間は急に訪れた。キイはその瞬間が訪れる直前に、自分が狩りをしなければいけないということを理解した。
通り雨と同じだ。降り出す瞬間の直前に、雨が振ることに気づく。しかし気づいたからといって雨が振ることは変わらない。受け入れるしか他はないのだ。

30mもないほどの距離に、急に雌鹿が現れた。
なぜか逃げることもなく、キイたちをじっと見つめている。
じっと、見つめている。




岩にぶつかる風。ぶつからない風。木の間を通り抜ける風。通り抜けない風。
海の向こうに沈もうとする夕日。沈んだ夕日。岩肌にもたれると、岩の低い体温が伝わってくる。キイは一人で目を瞑っている。何も見なくていいように、目を瞑っている。

この場所が、自分の気持ちを落ち着かせてくれる唯一の場所だった。日が当たりあたたまるわけでもない。癒されるような川のせせらぎが聞こえてくるわけでもない。薄暗くて、少し肌寒くて、無音が続くこの場所。あたたかさだけが、唯一のぬくもりではないのだ。そういう場所で佇む行為をなんと呼ぶのか、この時代の人類は知らなかったし、共通の名前で呼んでもいなかった。

サワルトが駆けてくる音がする。


「今日は、なんの考えごと?」

その声の主と目を合わせないまま、キイは答える。

「どうでもいいことだよ」

「じゃあ、いつもと同じだ」

あの瞬間、槍を構え、5秒が過ぎ、10秒が過ぎ、1分が過ぎ、真上に向かって槍を投げた。歯のガチガチと鳴る音だけがまだ頭に残っている。

キイの頭を撫でるように、風が吹いていく。

この場所が好きなのは、この場所で過ごす時間に慰められてきたからだ。
この場所で過ごす時間に、彼がいたからだ。

彼は、いくつかの木を渡り、ロシの実を集めている。

「一本の木を揺らして実を採り尽くすより、いくつかの木を渡って集める方がいいんだよ」

キイの元まで戻ってくると、隣に腰を下ろす。

「でもそのことを、皆は知らない」

皆は知らない。

渡されたロシの実を、キイは右の奥歯で噛んだ。

プチッと弾けて、風が吹く。

遠くの空に、一番星が見えた。

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