見出し画像

団地での日々

小学生低学年の頃の話をする。だれかに話したくて、聞いてほしくて、という気持ちはあまりないので、わかりやすくまとめることはできないかもしれない。

小学校低学年まで団地に住んでいた。私が住んでいた団地は、A棟~E棟と、G棟の6棟が街の高台の上に並んで建っていて、なぜF棟を飛ばしてG棟なのかは謎だった。E棟とG棟の間には小さな中庭のような広場があり、自販機が2つと、金属でできた1mほどのポールが3本建っていた。広場を挟んでいるからF棟がないのか、昔あったF棟の跡地が広場になっているのか。真相は誰に聞いても分からなかったけど、団地の住人は当然のようにA、B、C、D、E、G棟と呼んでいた。

私の家族はE棟に住んでいた。母と父と私の三人家族で、子どもは私一人だった。家に帰ると何かを煮込んでいる匂いか、オーブンでお菓子を焼く甘い匂いがいつも漂っていた。それがどれだけ幸せなことなのか、よく母は私に言って聞かせた。けれど玄関を開けるたび、自分の口から出た小さな「ただいま」という音がその濃い匂いに飲み込まれてしまう気がして、私はあまり嬉しくなかった。

母は「はいはい」というのが口癖の人だった。作ってくれたお弁当を私に持たせるときも「はいはい」と言うし、玄関のチャイムが鳴ったときも「はいはい」、父が乱暴にドアを閉めたときも小さい声で「はいはい」、私がピアノの習い事を辞めたいと打ち明けたときも「はいはい」と言った。
母が「はいはい」と言うと、私はその「はいはい」の意図をぐるぐると頭のなかで考え続けてしまった。今の「はいはい」はどういう意味だったんだろう。諦めているのだろうか、ただ了承しているだけなのだろうか、怒っているのだろうか、何も考えていないのだろうか。頭をつかうたび、息が詰まってひどく疲れた。

成長した今の私なら、幼かった自分になんて声をかけてあげるだろう。大人が子どもに向ける、得体のしれない感情を測るのはくだらないから考えなくていいよ。そんなの考えなくていいよ、きみのなににもならないから、考えなくていいよ。

父がどんな人だったのかはよく分からない。家電を売る会社の営業をやっていた父は、あまり家に帰ってこなかった。新商品を外で饒舌に紹介しているであろう父が住む我が家の家電は、冷蔵庫も洗濯機も少し黄みがかったくすんだ色をしていた。父はどんな人なんだろう。いまだに分からない。あの頃は、母の「はいはい」がいつ発せられるかだけに注意していて、家のなかでの思い出なんてなかった。


G棟に住んでいる彼と遊ぶようになったのは、いつからだったろう。彼の両親はフィリピン出身で、彼は太陽が似合う褐色の肌を持っていた。ホースで水をまき散らして遊んだとき、濡れた彼の肩が日光を集めているのを見て、かっこいーーー!と思ったことを覚えている。

放課後、E棟とG棟の間にある広場で相手を待つのがおきまりだった。大体は彼のほうが早く着いていて、ポールを掴んでぐるぐる回ったりもたれかかっていたりした。後から着いた方が、「なにしてんの?」と訊き、待っていた方が「なんにも」と答える。それが私たちのあいさつだった。チョークを家から持ってくるのがめんどうくさくて、そのへんにある白い石で地面に絵を描いた。ギーギーと音を立てながら力を込めて描くため、腕が疲れてすぐに他の遊びを提案した。

そのうち外で遊ぶのに飽きて、彼のうちに行く。G棟の一番上に彼のうちがあった。彼が鍵を開けるのを待っている間、私は手すりから地面を見下ろして、ここから落ちたら怖いだろうな、とありきたりなことを考えていた。彼のうちは、いつ行っても不思議な匂いがした。甘いような、煙っぽいような、海のような。私の家で漂うお菓子や煮込みの匂いとは違う甘さで、私はそれが心地よかった。

彼には幼い妹がいて、私が家に来ると彼女は両手をあげて喜んだ。彼は玄関を通ってまず妹を抱きしめ、頬とか額とかにキスをした。妹は嬉しそうに「おかえり」と言い、彼もまた嬉しそうに「ただいま」と言うのだった。そして妹は私にも必ず「おかえり」と言ってくれた。私は自分の家ではないので、「うん」としか言えなくて、でも「おかえり」と言われると受け入れられている気がしてほっとした。

彼の家でペンと紙を使って絵を描くと、地面に描くより何倍もなめらかに描くことができた。ほかに何をして遊んだのだろうか。ただ、することがなくなると彼が窓を開けて、二人で街を見渡した。六棟のなかで一番西に位置するG棟からは高台の下にある街が一望できて、道路も家もスーパーも学校も見えた。鳥も私たちの目線より下を飛んでいたような気もする。記憶は確かではなくて、本当に街を一望できたのかも怪しい。だけど風がきもちよかったことは覚えている。六時を知らせるチャイムが鳴ると、チャイムに負けないくらい大きな声で歌を歌った。歌うというより、怒鳴るという表現のほうがふさわしいかもしれない。窓の外に顔をつきだして歌った。なにがおもしろいのか、げらげら笑いながら歌った。

あれは、なんの歌だったのだろう。毎日のように歌っていたはずなのに、曲名も歌詞も、砂のように記憶から消え去ってしまっている。何度も思い出そうとしたが、どの記憶にもひっかかっておらず、ほんのわずかな情報も出てこない。日本語の歌詞だったのか、英語だったのか、フィリピンのタガログ語だったのかすらわからない。「家で家族だけのときはタガログ語で話すんだ」と彼は言った。それに対してどんな反応をするのが正解か迷って、私は「そうなんだ」と返した。ごくたまに、「サラマッポ」とか「アソック」とか、簡単なタガログ語を彼が教えてくれることもあった(前者は「おいしい」、後者は「犬」という意味だった。へんなチョイスだと思ったのを覚えている)。

歌っていると彼のお母さんが帰ってきて、「たのしいね」と言って全然ちがう歌を歌ったりした。彼のお母さんは、ぱんぱんに膨らんだ荷物やスーパー袋を下ろすと、まず彼の頬にキスをした。それは彼が彼の妹にしていたのとまったく同じで、私は黙ってそれを見ていた。しばらくして彼のお父さんも帰ってくると、彼も彼の妹も動作が大きくなって、ドタバタと床を鳴らした。彼のお父さんからは、この家に入るときに嗅いだのと同じ匂いがして、このにおいがいったいどこから香っているのかますます分からなくなった。人が増えるごとに部屋のなかはどんどん温度が上がった。不思議だった。私の家と一人分しか人数はちがわないのに、どうして暑く感じるのだろうと思った。私が自分の家に帰るとき、外はだいぶ暗くなっていて、E棟からG棟へのわずかな距離を、私はいつもなぜか全速力で走った。


寄せ書き、寄せ書きについて。4年生の夏、父の仕事の関係で私は引っ越すことになった。転校である。クラスの皆からもらった寄せ書きを、家に帰るまで読むことができなかった。怖かったのだろうか。恥ずかしかったのだろうか。家に着いて恐る恐る文章に目を通すと、休み時間いつも一緒にいた子からは「忘れないでね」とか「楽しかったね」とか二、三行書いてあって、まったく話したこともなかった子が、「いつも絵が上手だなって思ってました。一緒に絵を描いたら楽しかったと思うから、もっと話したかったです。あと音読がじょうずですね!あと…」とたくさん書いてくれていて、今まで経験したことのない気持ちになった。その子ともっと仲良くなっていたら、私は転校しなかったんじゃないかと脈略もないことを考えてしまった。

母が台所でせっせとシフォンケーキをつくっている音と匂いがする。私は、次の学校で「転校生」になる。じゃあ今の学校の人たちは、私のことをなんて呼ぶのだろう。転校していく生徒のことも、「転校生」と呼ぶのだろうか。ちがう。転校していった生徒のことは、もう話に上がることもない。いなくなった私のことを思い出しても、瞬間的に思い出すだけなのだ。私はこんなに思い出すのに。私はこんなに思い出すのに、彼に別れの挨拶をしたのかも覚えていない。私はなんにも覚えてやいない。大事なことを覚えてやいない。

母は、私が熱を出してうなされている夜、一度も「はいはい」と言わずに看病してくれた気がする。
父とはあまり話さなかったけど、たまに私の靴がピカピカに洗われていて、母に聞いても知らないわよと言われたことがあった気がする。
でもそれはそういう気がするだけで、ほんとうのところはわからない。砂はさらさらと指の間を落ちていく。握りしめようとしたものばかり、さらさらと落ちていく。母のことも、父のことも、もっと好きになれたら良かった。かかってこない電話、かけることができない電話。私と両親を結ぶのは、使わない電話番号だけになってしまった。


毎日のように歌っていた歌も思い出せないのに、隣で歌う彼の頬に生えた産毛が透明だったこととか、私より何倍も大きい目が、夕方の光をぜんぶ集めていたこととか、窓のサッシの埃に埋もれた赤いビーズとか、そういう風景だけ妙にはっきりと覚えている。妙にはっきりと覚えていることは、捏造した記憶である場合が多いことくらい、大人になった私は心得ている。だから思い出に浸ることもないけど、覚えてしまっているから仕方ない。

忙しいときや余裕がないときに限って、団地暮らしだった頃の、不思議な匂いのするあの部屋での記憶を思い出す。それが切なくて泣きたくなるわけでもない。ただ思い出して、息を吐く。もしかしたら、思い出すことで少しだけ助けられているのかもしれない。助けられるというのは、マイナスがプラスになることだけを指すのではなく、ゼロ時点近くまで引き上げてくれるこういうことも含まれるのだと思う。

良かったこと嬉しかったこと、辛かったこと悲しかったこと、それらだけが生きる糧になるのではないことを、私は知っている。なんでもなかったことが、なんでもなかったことでいてくれることの価値を知っているのだ。別に過去につき動かされているわけではないことを思い出させてくれる。大声で歌っていたときがそうであったように。

私は今でも、高台が好きだ。

鳥が自分の目線より下を飛んでいく。


<了>


この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』3月号に寄稿されているものです。今月号のテーマは「うたう」。登場人物が歌にのせた思いが文章からも響いて伝わってくるような、6作品が集まっています。文活本誌は以下のリンクよりお読みいただけますので、ぜひごらんください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?