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掛軸 六幅目から十幅目

六幅目 和敬

互いに心を開き合わせ、互いに敬う。
という解釈です。

合わせることを和える(あえる)と「和」の字を当てます。

ですから、料理で食材と食材を混ぜ合わせた食事を和え物といい、数学で足し算の結果でも和といい、「和」の字を当てます。

和とは、そもそも、争いなくおさめる。仲を深めるなどの意味をもっているそうです。

そこから、和らぐ(やわらぐ)和む(なごむ)と字を当てて優しい意味をもったのでしょう。

互いが心を和らぐ事で互いの心を和える事ができるのかも知れませんね。

井口海仙筆
「和敬」


七幅目 主人公

無門関に
瑞巖彦和尚。
毎日自喚主人公。復自應諾。乃云。惺惺著。喏。他時異日。莫受人瞞。喏喏。 
とあります。

瑞巌師彦和尚は、
毎日、自分に向かい「主人公」と呼びかけ、また自ら「はい」と答えていた。そして、「眼は覚めているか」と呼びかけ、「はい、覚めています」と答え、「いつ、どんな時でも、他人に騙されるな」と呼びかけ、「はい大丈夫」と答えた。
という解釈です。

物語の主人公は「主役」といった意味ですが、「本来の自分」という意味です。その自分に毎日挨拶をする。そして、問いかける。

ダマされてないか?
目は覚めているか?
いま自分の意思か?

いま、私達に問いかけているようです。

筒井寛秀筆
「主人公」


八幅目 平常心是道

無門関に
示衆云、道不用脩、但莫汚染。何爲汚染。但有生死心、造作趨向、皆是汚染。若欲直會其道、平常心是道。 (示衆に云く、道は修することを用いらず、但だ汚染することなかれ。何か汚染と為す。もし生死の心有りて、造作し趣向せば、皆な是れ汚染なり。若し直に其の道を会せんと欲せば、平常心是れ道なり。)
とあります。 「道」というものは、習得する必要はない。ただ汚れに染まってはいけないだけ。何が汚染かというと、生きるか死ぬかの迷い心から、何とかしようと思案すると、それが汚れになるのだ。素直に道を手にしたいと思うなら、「平常心」のままでいればいいのだ。
という、解釈です。

いま、私達は不足不安で迷うことが多々あります。いつも通りの心が大切ですね。

大木琢堂筆
「平常心」


九幅目 

喫茶去

五灯会元の趙州の章に
師問新到、曾到此間麼。曰、曾到。師曰、喫茶去。又問僧。僧曰、不曾到。師曰、喫茶去。後院主問曰、爲甚麼曾到也云喫茶去、不曾到也云喫茶去。師召院主。主應喏。師曰、喫茶去。

師、新到に問う、曾て此間に到たるや。曰く、曾て到たる。師曰く、喫茶去。又た僧に問う。僧曰く、曾て到たらず。師曰く、喫茶去。後、院主、問うて曰く、甚麼と為てか、曾て到たるにもまた喫茶去と云い、曾て到たらざるにもまた喫茶去と云いし。師、院主と召す。主、応喏す。師曰く、喫茶去。
とあります。

わかりやすく言うと

趙州和尚が、新に訪ねて来た修行僧に
「ここに来たことはあるか?」と尋ねます。
僧は「あります」と答えます。
趙州は「喫茶去」といいます。
また、あるとき、訪ねて来た別の修行僧にも尋ねます。
僧は「ありません」と答えます。
趙州は「喫茶去」と。
この様子を見ていた寺の院主が、趙州和尚に尋ねます。
院主は「なぜ、来たことがある人にも、はじめて来た人にも、喫茶去、というのですか?」
趙州は「院主さん!」と声掛け。
院主は「はいっ!」と。
趙州は「喫茶去」と言います。

となります。 「喫茶去」の「去」は命令形の助辞で、単に意味を強める助字と見て「お茶を飲みなさい」という解釈です。

もう一つ、お茶を進める意味でなく、茶を飲んでから出直してこいと叱咤しているという解釈もあります。

先ほどの「喫茶去」を「まぁ、お茶でも飲みなさい」と読むか、「茶を飲め!」と読むか。読む人のニュアンスでしょうか。これが禅語ですね。

昨日、今年90歳を迎えた社中が、突然、庭の牡丹を見に来ました。

90歳を超える方には、いま咲く牡丹の美しさを目にするのは不要不急には当て嵌らないそうです。

縁側で抹茶を出しました。
優しい「喫茶去」でありました。


稲葉心田筆
「喫茶去」


10幅目 賓主歴然

臨済録に
是日兩堂首座相見。同時下喝。僧問師。還有賓主也無。師云。賓主歴然。師云。大衆要會臨濟賓主句。問取堂中二首座。便下座。

是の日、両堂の首座相見して、同時に喝を下す。僧、師に問う、還た賓主有や。師云く、賓主歴然たり。師は、大衆、臨済が賓主の句を会せんと要っせば、堂中の二首座に問取せよ、と云って便ち下座す。
とあります。

わかりやすく書きますと
この日、東西両堂の首座が顔をあわせ、同時にお互いを一喝し合います。
これを見た僧が師に
今のやりとりに主客はあるのでしょうか? 
と問います。
師は
歴然とある。と言い。
もし、大衆の者たちが臨済が言う主客の真意を知りたいなら、いま堂の中にいる二人の首座に直接聞きなさい。と言い、すぐに座を降りました 。
と言う事です。

賓とは客、主とは亭主のこと。
一喝とは挨拶
主客があるかとは、どちらが先に挨拶したか。
賓主の関係はハッキリしている。
同時に賓主はハッキリとしてないのだ。
との解釈もあります。

賓が主になり主が賓になる。それぞれの立場を心得ているからこそ一座建立する。
主の心得、客の心得があるのか?
それを習得しする事で歴然とするのかも知れませんね。

朝比奈宗源筆
「賓主歴然」

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