〈映画研究ユーザーズガイド〉     第5回 メソッド・ダイアグラム(2)

第5回 二つのハリウッド映画論と二つの観客論

 第4回では、〈作家から考える映画論〉と、〈技術から考える映画経験論〉を両極としたスペクトラムを、映画作品にはいったいどのような主体が関わるのかという観点から捉え、現代の映画研究の方法論を描き出すダイアグラムを試みた。しかしながら、そのスペクトラムは、別の観点から捉え返すことができる。
 というのも、第一回で提示したハンセンによるヴァナキュラー・モダニズム(以下、VM)に関わるダイアグラムと、第3回で提示したボードウェルによる古典的ハリウッド映画(CHC)に関わるダイアグラムを並置してみると、よく似た格好のものになっているのがわかるだろう。


 第1回と第3回のダイアグラム

 両者ともに、(それがなんであれ)「作り手」と呼ばれるものと、(それがなんであれ)「観客」と呼ばれるものの間に、なんらかの「作品」としてしか呼びようのないものを見出しているのである。 
 わたしたちは、映画館で『透明人間』をみるとき、真っ白なスクリーンに投影された、光学装置が実現する光と影が形作る物理的な文様をみるだけではない。そうであれば、ハラハラもしないし、ワクワクもしないだろう。あるいは、パソコンのモニターにピクセルが構成するRGB光の配列だけをみているのであれば、『イカゲーム』をみるとき、おぞましさを感受したりやりきれなさが胸を打ったりすることもないだろう。わたしたちは、そこに「作品」としかいいようのないなにかを認めてしまうのだ。それは、素朴に作家を見出そうが作家などいないと強弁しようが変わるところがない。
 やや気取った言い方をするならば、そこに「作品」が現前するのである。光が消えれば、消滅してしまう、なんだか幽霊みたいな「作品」が、である。
 強弁しておけば、そこに「作品」を認めてしまうからこそ、わたしたちは作家なり作り手なりについて語ることができるのであり、技術なりなんなりについては語ることができるのだ。いってしまえば、作品こそが具体的な実在であり、「作家」や「技術」こそ抽象物なのかもしれないということだ。そうしたことを踏まえると、思いっきりの単純化であることを承知の上でいえば、第一回のダイアグラムと第三回のダイアグラムは、以下のような図式に収まる。

メソッド・ダイアグラム ver.2

 両者の違いは、けれども、こうなる。ボードウェルが考察する古典的ハリウッド映画の場合は、作品の軸に「規範」とそれへの向き合いがあり、それは観客の側も承知の上で鑑賞するという理性的な主体という前提があるということになる。ハンセンの「ヴァナキュラー・モダニズム」の場合には、感覚器官に刺激を与える創造技術に対する人々の経験様態を視野に収めた、制作の側の捉え返しがあり、観客の側もそれを承知の上で鑑賞するのだという、感性的効果を受け止める主体という前提があるということになる。
 ボードウェルが、N・キャロルと共に編集した『ポスト・セオリー』においては、自らを認知派(cognitivist)とラベル付けしたことを思い出そう。繰り返しになるが、この編著は、「構造主義」影響下の映画理論という特定の映画理論に抗すべく著書名が付されているのであって、理論一般に対する拒絶ではない。いいかえれば、構造主義・ポスト構造主義影響下の映画理論とは別仕立ての「認知理論」の旗揚げの書であったということだ−−分析哲学者であるキャロルが、ここでボードウェルと協同しつつも、どういった立場なのかは一考が必要なのかもしれないが。そして、そこで言われている「認知」は、筆者が別のところで記したように(『映像論序説』、人文書院、2009年)、意識下で作動する理性的情報処理という意味合いでのそれだ−−身体化された情報処理という着想ですすめられる認知科学の第二ステージの前の段階のものだ。
 他方、ハンセンが展開している論は、映画という新種の技術とそれにより実現された文化実践からなる映画経験の厚みについて、感覚作用の水準で考察しようというアプローチである。とはいえ、そこで召喚せられているのは、第一段階はもとより第二段階の認知理論ではなく、むしろ大陸哲学において心身まるごとの経験の厚みとその表現文化への折り返しをめぐる重要な思想的潮流のひとつである、クラカウアーを中心としたフランクフルト学派の批判理論である。蛇足になるが誤解を回避しておくために言っておくと、思想史研究の水準というよりは、映画経験の厚みについてなんとか接近するための方法論として持ち出されているのである。
 したがって、先のダイアグラムは、次のように整理し直すことができるだろう。

メソッド・ダイアグラム ver2.1

 付け加えておけば、感覚作用ないし身体作用への着目は、ハンセンばかりではない。これもまた、『映像論序説』で述べたとおりだが、同じ頃、リンダ・ウィリアムズが「身体ジャンル」という括り方でハリウッド映画の分類をほどこしたこともよく知られているところだし、スティーブン・シャヴィロが映画画面の身体効果の面に着目した論を示したのも1990年代である。加えて、ローラ・マークスの編著による『映画の皮膚(The Skin of Film)』(Duke University Press, 2000)や、サラ・ストリートによる『英国におけるカラー映画−−イノベーションの交渉1900年−1955年)(Colour Films in Britain: The Negotiation of Innovation 1900-1955)』など、感覚作用や身体作用を捉え返した映画実践の分析が次々に発表されている。
 これらはこんにち、一般には、現象学的な映画論として呼ばれているものであり、認知派とは異なる研究方向である。強いていえば、言語的な理性の作動の前段階で作動している観客の経験の働きと、そこに呼応した映画実践の豊かさを描き出そうとしたものであるといえる。

 画面について語る際の語彙が、言葉と類比されたるかぎりでのものではなく、感覚作用についてより繊細に触知するものへと、ドラスティックに一新されたといっておいてよい。
 第一回での論点に接続させて敷衍させれば、これらの現象学的なアプローチは、ガニングのアトラクション映画論やそれに似た類いの光学技術にまつわる経験論とは異なる。単純素朴に、装置を形作っている技術上の属性にあれこれやの魅力について述べようとするものではない。むしろ、映画制作はもとよりテレビやウェブ上の映像の制作の水準でのさまざまな技巧や技法に着目し、考察を重ね深めるといった組み立てのものである。
 ラトガーズ大学出版局から刊行されている「動画の技巧(Technique of the Moving Images」叢書では、「色彩」「ロケーション」「音」「現実効果」「特殊効果」と、極めて具体的な映像制作の技巧でありながらも、これまでの映画研究では論じることができなかった技巧、それらについて論が実証性も織り込みながら繰り広げられることになっている。(ちなみに、コントラストをはっきりさせることもあり、ここでは、「technique」には「技法」という訳語を、「techonlogy」には「技術」という訳語を用いている。)
 構造主義的記号論および認知主義が、言語的理性の枠内での映画理解では、まったく語ることのできていなかった画面をかたちづくる多彩な要素について議論の俎上にとりあげることができるようになっているのだ。もっといえば、ハードウェアについてのザクッとした相貌にしか光を当てることのできない技術経験論とはまったく異なった地平から、現象学的映画研究ないしその波を受けて多彩な映画研究が21世紀に入って花開いているのである。作品経験を観客という主体の内側から丹念に描き出そうとする現象学的接近方法は、(第一回に示したように)古典的ハリウッド映画の理解図式に対抗するという発想が先にありきで立ち上がってしまっているアトラクション概念ができうることとは、分析の深度と精度において格段の差があるといっていいだろう。

 こうした光景を眺めるとき、思い返されてくるのは、加藤幹朗の古典的ハリウッド映画論である。たとえば、彼の『映画 視線のポリティクス 古典的ハリウッド映画の戦い』(筑摩書房、1996年)と『映画ジャンル論』(平凡社、1996年)である。
 正直のところ、加藤の文章はややレトリックが効き過ぎていてその理論的方向性が掴みにくい向きがある上、これら二つの著作のあとに発表された著作については映画という対象についての理解方法もその分析のための道具立てもやや散逸しはじめた感もあって余計に測り難いところがある。だが、筆者は改めて二作の頁を繰りながらその受け止めを先ごろ一新することとなった。読みこむことができたのは、ボードウェルらの認知主義的な理性的作品理解を基軸においた論方向ではない仕方で、つまりは、観客の側に感性や感情へ作用を及ぼす効果という論方向から把捉しようとした古典的ハリウッド映画論の結構である。そうなのだ、どちらかといえば、ハンセンのハリウッド映画論に(同種ではなくとも)近接する論方向になっているという解釈が加藤に対して可能ではないかと感ぜられたのである。
 加藤は二つの著作において、主として、個々の映画作品の語る物語を折り上げる糸を画面上において同定し、その軌道を丁寧に計測し、一瞥するよりも、かなり複雑なあるいは逸脱する語りの揺れを照らし出していくという格好の論述をすすめている。単純化していえば、ここでいう一瞥というのは、『視線のポリティックス』では古典的ハリウッド映画のシステム(加藤の場合、主としてハリウッド映画界における自主検閲コードが設定することになっているシステム)に素朴に沿った作品鑑賞の仕方、『映画ジャンル論』では個々の映画ジャンルを規定するとされている約束事(加藤の場合、主に物語展開に関わるものが多い)に素朴に沿った作品鑑賞の仕方、である。で
 前者においては、そのシステムが第二世界大戦期を中心に、撮影所と監督、さらに検閲にかかわる管理者の間で、どのようなブレやずれ、逸脱や抑えがあったかのを、アメリカ合衆国で入手したアーカイブ資料で後付けながら浮かび上がらせるという格好になっている。
 後者においては、とりあげるジャンルに少なからずの恣意性が感ぜられるものの−−とりわけ、「フィルム・ノワール」については、それをジャンルというべきかどうかは議論が分かれるところというのが海外では実際だ−−これもまた豊富な資料と、丹念な画面への凝視でもって、ジャンル映画と括られる作品の画面作りにかかわるさまざまなファクターの間の衝突や折衝や妥協を浮かび上がらせることに成功している。
 筆者の見るところでは、こうした映画作品の画面が語り出す物語の輪郭を画面上の視覚要素や聴覚要素に注目しながら深く読み込んでいくという手法は、じつのところ、加藤が石田美紀と共訳したトーマス・エルセサーの論文「響きと怒りの物語」の論立てと重なり合うものである。
 メロドラマ論は1970年代に活発で、そのうち、各方面に影響を与えた二つの論考が際立っている。ひとつは、ピーター・ブルックスの『メロドラマ的想像力』(産業図書、2002年)であり、もうひとつがエルセッサーによる先の論文である。近代に入って悲劇の時代は終焉し「メロドラマ的想像力」(この語は、ブルックスだけではなくエルセサーも用いている)が立ち現われるという論は両者に共通しているのだが、そこには相違もある。
 この備忘録に関係しているかぎりの点を切り詰めていえば、研究対象の部類に関わる相違と、その考察上の素材に関する相違、だ。19世紀欧州の小説作品を対象としている文学研究者ブルックスは近代における人々の心性という大きな枠組みでの論立てになっているだろう。
 対して、映画研究者であるエルセサーの論考は1950年代のハリウッドにおけるメロドラマ作品が備える特徴の考察に焦点が合わせられている。また、エルセサーは、メロドラマ映画における画面上の特徴的工夫や音響上の特徴的工夫を、より強く注目した論構成になっているだろう。その上で、ハリウッドにおけるメロドラマ映画作品が観客の感覚や知覚や感情の動きにどのような作用を及ぼしているのかが論じられていくという格好になっているのだ。
 加藤幹朗に戻ると、先の二つの著作において、画面が語り出す物語を論じる彼の論じ方は、その筋立ての妙や複雑さというよりも、その効果についての省察を透かし彫りにすることがかなり多い。ある箇所では、ある映画作品についてそれは「感傷的考察」とまで記している。加藤自身が一観客として、作品を観たとき、いかなる感情がどのように揺さぶられたかについて微に入り細に入り探究が練り上げられている、そういっておいていい。
 加藤とエルセサーの仕事に、少なくとも上記で示した仕事においては、重なり合うところをみてしまうのである。ハリウッド、あるいはそれが収まるとされる合衆国文化圏の外側から、その映画群について語るという点で、なにがしかの共振があったのだろうか。加藤が合衆国滞在時、アジアからの視線にこだわり現地の研究者と真正面から応接したことは本人の口も含め伝え聞いている。毀誉褒貶もあるが、その姿勢に少なくともその熱量という点に、遅ればせながらではあるがようやく彼の方向性を見出しはじめている筆者としては心打たれるものがあると付しておこう。
 ともあれ、『映画ジャンル論』では、先に示したような近年の現象学的映画論の先駆けともなった、リンダ・ウィリアムズの論文「映画身体―ジェンダー、ジャンル、過剰(Film Bodies: Gender, Genre and Excess)」にも目配せしながら、心身効果の観点からのホラー映画とポルノグラフィー映画をめぐる議論まで書き込んでいる。
 (脚注として付け加えておけば、筆者は、『ハリウッド100年史講義』の旧版新版ともにブルックスのメロドラマ論を強く参照し論をすすめているが、通史という大きな流れをたどるフレームではそれが妥当だろうという判断でのものだ。個別の作品分析の段では、エルセサーの論が有効な参照枠となるかもしれないと言っておこう。)
 加藤がそののち、観客論をものしていくことになるのも首肯できるところだ。彼の映画作品論は、観客への感情的効果の論述の軌道のうちにすっぽりと収まってもおかしくないものなのである。
 また、エルセサーはエルセサーで、近年独自の仕方で、映画なるものの理解図式を一新していて、その際に中核となっているのは、感覚知覚を軸に置いた作品体験の層への注視である。これについては、相当厚みのある論考なので、また別途とりあげたいと思う。

 ここで格別の注意を払っておきたいのだが、じつは、日本には、もうひとつの別種の、加藤のそれと比肩しうる、いや研究書としての精密さにおいてはそれを凌駕する仕事もまた書かれている。ボードウェルによる古典的ハリウッド映画論が理性的鑑賞を遂行する観客を前提とした論方向になっていることはすでに述べたとおりだが、その方向での、けれどもアジアという場所の観客の理性に接近しようとする論考を日英両文で積み上げる研究者がいるのだ。藤木秀朗による『増殖するペルソナ—映画スターダムの成立と近代』(名古屋大学出版会、2007年)は、映画館と観客、加えて撮影所や出版界で流通していた膨大な分量の言説をたどり、産出されたスター・イメージが、どのように人々の意識に定着しまたそれがいかなる具合に循環していったか、簡潔にいえば、観客と画面の相互作用のなかでかたちづくられていく「スター」なるものの変遷を鮮明に描き出している。また、藤木による『映画観客とは何者か―メディアと社会主体の近現代史』(名古屋大学出版会、2019年)も、省庁の文書、ジャーナリズムにおいて流通する言葉、観客を取り巻く多様な言説の網を精緻に辿りながら、そのなかで観客がいかに自らの理性を働かせ、映画鑑賞にのぞんでいたのかをあぶり出す労作である。

 加藤と藤木、二人の仕事は優劣をつけるような類いものではないだろう。まったくもって異なる立場から書かれた研究書だからだ。ただシンプルに、二つの異なった研究方向において二つの見事な映画研究書が日本から生まれ出ていることに素直に喜びを(自分のことは棚に上げて)感じたいと思う。見事なというのは、その論述にかかわる密度の濃さと、海外の研究とのしっかりとした応接の度合い、という二点で秀でているからである。(『スクリーン』の常連メンバーであるポール・ウィルメンには生前何度かお会いしたが、日本に来られたおりにも会食する機会があった。ひたすらに、藤木氏の仕事を激賞していたことを記憶している。)筆者の見方とは異なって二人の仕事はどうしてか日本ではそれほど評価されていないように思われるが。
 ともかくも、学生諸氏には、啖呵や断言を散りばめてはいるもののほとんど同一の狭い語彙が並び、その上国内の仲間うちで取り交わされているかのような映画に関わる(批評、研究を問わず)文章ではなく、両者をそれぞれ丹念に読み、比べることで、映画についての理解、映画研究についての感受性が必ずや深まるのだよ、と伝えておきたい。
 

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