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真夜中に クロノスタシス


──あーあ、ヤられた。

と思った。夜の底でイントロを聴いた瞬間に、熱い鼓動がじわーっと肌へ滲み出してきそうな予感がして、その五秒後に案の定、泣きそうになった。

小説が書けないなあ。

そう思って音楽のプレイリストをかけたら一曲目が、きのこ帝国の『クロノスタシス』だったから。





夜を思わせる背景に、たゆたいながらも正確なリズムに足を掬われそうになる私は『クロノスタシス』の世界観がとても好きだ。私はどうもこの曲へ過去に出会ったAくんを重ねているからだろう。そこは、甘い記憶と苦い記憶が同居していて、この曲を聴くと甘い記憶がふわりと剥がれて浮上してくる。

ちなみに、クロノスタシスとは


クロノスタシスとは(英:Chronostasis)は、サッカードと呼ばれる速い眼球運動の直後に目にした最初の映像が、長く続いて見えるという錯覚である。

Wikipedia



と、いう体内で起こる生理現象らしい。歌詞でもあるように



時計の針が止まって見える現象らしいよ。



と、ときが止まったように見える瞬間のことで、それを知っている自分と、それを知らないきみ。そのふたりからなる淡い「はじまり」を思わせる歌詞と曲に永遠と刹那を感じる。歌詞にある



Holiday's middnight
今夜だけ忘れてよ 家まで帰る道



からも、このゆらゆらゆれる夜の空間を手放すことに躊躇をおぼえるような気分を私も感じていたことを思い出した。



☽☽☽



それは、突然だった。リリリ──安っぽい着メロが鳴ったら、Aくんからの着信だった。

「トマトちゃん、いまひま?夜の散歩へ行こうよ。」

えらく積極的な誘いに、以前、私が夜の散歩が好きだ、とAくんと話をしたことが頭の中で浮かび、とっさに憶えていてくれたことに対してあたたかさを感じた。

「そうやねえ、行こうか。」

私たちは、近場のコンビニで待ち合わせして、そこから行く宛も定まらない夜の散歩へ出かけた。

ゆったりと歩きながら共通の友人の話や趣味や好きなことを話したり、黙ったりして、ただ歩いた。すると、Aくんは夜空を見上げながら

「夜って真っ黒じゃないよね。なんていうか、藍色でもない黒色でもない色。ゼリーみたいな透明感があるのが夜の暗闇だよね。」

私はAくんの言葉に「あ、いいな、その言葉と感覚。」と心の中で思ったら、目が合った。いつものAくんとは違う、切ないような、苦しいような視線に心を射抜かれた気がした。私は、とっさに視線を外してテキトーなことを話してその熱を冷ました。

次にAくんを見ると、いつもの顔で前を向いていたから、内心ホッとした。そのときなぜ私はホッとしたのかわからなかったけど、見てはいけない深淵を見た気がしたのかもしれない。

夜の空気は澄んでいて、三日月が時々雲に隠れたりして、とても綺麗だった。速いでもなく遅いでもない速度で夜を歩くと、そのうちに会話はなくなって、私とAくんの狭間へ風が吹いて、それが心地よかった。

私は、少し気になるAくんを盗み見た。背が高くて、色白な肌、きれいな横顔、やけに赤い唇──

たぶん、Aくんも私を気になっているはずだ、と思うと、露呈した自意識に息が詰まりそうだった。私はたまらずに

「そろそろ、帰ろうか?」

と、言うとAくんはこちらをチラッと見てから

「うん、そうだね。」

そう言って角を一緒に曲がった。それからふたりで少し歩いてから、私をマンション前まで送ってくれた。

「じゃあ、また夜の散歩、行こうね。おやすみ。」

「うん。行こう。じゃあ、おやすみ。」

手を振ったけど、急に別れることに寂しさを感じた。このままときが止まればいいのに、と思い、そして、私は最後に

──あーあ、ヤられた。

と、思った。もう心はAくんがいた左側へ傾いていたから。



☽☽☽



過去の欠片を攫うように思い出す夜の底で『クロノスタシス』は、余韻を残して終わった。














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